……目覚めて一番に感じたのが、腕の中の空虚だった。 今まで本能を満足させた後は、セックスの相手などどうでもいい、むしろ一人になった方が気ままだとしか思ったことのない芹沢である。 それが腕の中に抱く者が存在しない事にこれ程寂しさを感じるとは。 自分の病が相当に深いと思い知らされる。 昨夜、芹沢はなかなか眠れないでいた。 愛しい人と肌を合わせたままで同じベッドの上、しかも余韻は去るどころかくすぶり続けている。 そんな状態で眠れる訳がない。 それでもがっついていると思われるのが嫌で、眠った振りをしていた。 何時頃かは判らない。 斉木が身動ぎをした。 芹沢の様子を確かめる風であったが、眠っていると思ったらしく芹沢の腕からそっと抜け出した。 多分シャワーを浴びに行ったのであろう。 後先考えずに斉木の中に精を放ってしまった。 身体を気遣いもするが、どうしても"斉木を抱いた"満足感の方が勝ってしまう。 もう戻って来てくれないだろうなと残念に思いつつも、やっと芹沢は微眠みを得ることが出来たというていたらくであった。 昨夜のことを反芻しながら、芹沢は未練たらたらでベッドから起き出した。 脱ぎ散らかしたままの服に袖を通し、放置されて冷たくなったコーヒーを飲み干す。 一日経ったインスタントコーヒーは苦いばかりで酷い味だった。 おかげで目は覚めたが。 部屋を出ると、広い廊下には陽光が満ち溢れていた。 斉木の部屋はフローリング張りの洋室だったが、家の造り自体は純和風である。 回り廊下がぐるりと巡らせてあり、それだけで常識的な広さの民家が何軒か建つだろう。 改めて呆れつつ、斉木を探して歩を進めた。 と言っても芹沢がこの家で知っている場所と言えば、斉木の部屋とキッチンぐらいである。 他に当てもなくキッチンに足を向けると食欲を刺激する匂いと共に、人が立ち働く気配が伝わってきた。 これで朝食を作っているのが斉木だったら本当に新婚さんだが、さすがにそれは芹沢の他愛ない想像に終わった。 「あら、お目覚めですか?」 山本が芹沢に気付いて声を掛ける。 芹沢は何故か落ち着かぬ心地で、挨拶を返す。 「おはようございます。 あの、斉木さんは」 「ランニングに出ておいでですよ。 雨の日以外は毎日」 「ランニング、ですか」 斉木らしいが、身体は大丈夫なのだろうか。 「挨拶したいんですけど、何処から外に行けますか?」 「一番近くならそこの」 と勝手口を指し、 「ドアから出られますけど。 あの、誠さんからお客様にはお湯を使って頂く様に言いつかっておりますが、如何なさいますか?」 そう問われて、芹沢はらしくもなく顔が赤らむ思いだった。 昨夜の跡を洗い流せと、斉木はそう言っているのだ。 斉木本人に言われたのなら軽口の一つも返そうが、何も知らない第三者に言われると却って居たたまれない感じだった。 「じゃあ、お言葉に甘えて」 そう応じると山本はコンロの火を消し、先に立って浴室へと案内した。 「下着の替えをご用意しております。 おズボンの方は無理でしたけれど」 薄く笑みを浮かべて言う。 芹沢の長身において『足』の比率はかなり高い。 幾ら来客が多く準備万端と言えど、おいそれと替えの用意などないだろう。 「いえ、色々済みません」 芹沢が礼を言うと、山本はごゆっくりと言い置いて朝食の用意に戻って行った。 だが、芹沢ゆっくりする気はなかった。 馬鹿げて広い浴室のこれまた大きな浴槽には見向きもせず、熱いシャワーをざっと浴びただけで済ませてしまう。 本当は肌に染み付いた斉木の匂いを消したくないのだ。 それでもそのままと言うのも流石に憚られるし、斉木の機嫌を損ねるかもしれない。 それは避けたい芹沢である。 急いでキッチンに戻ってみたが、求める人の姿はない。 「お風呂、ご馳走様でした」 落胆しつつも最低限の礼儀は守る。 斉木の身内には悪く思われたくない。 「あらまぁ、烏の行水ですねぇ」 振り返った山本が驚いて言う。 「誠さんはまだお戻りじゃありませんよ」 「みたいですね。 俺ちょっとそこらを探して来ます」 「誠さんなら」 勝手口のドアに手を掛けた芹沢を呼び止めるように、山本が言った。 「桜の樹の所じゃないかと思いますよ。 菖蒲の池よりもっと東寄りに立っている老木ですから、すぐお判りになるでしょう」 山本の声音が、心配そうに曇っている。 「その樹は、何か謂れでも――?」 「私には判りませんけどね、以前からあの樹の下で呆としてらっしゃることがあって、近頃はそれが増えたような気が致しますから……」 「行って見ます。 ありがとうございます」 芹沢はぞうりを突っ掛けて庭に下りた。 覚えのある道筋を辿ってまず菖蒲の咲く池のほとりに出た。 昨日は眺める余裕もなかったが、朝日の中に咲き誇る花々は派手ではないが端整で美しい。 きっと斉木はこの花を好きなんだろうと思う。 池を通り過ぎると、芹沢の視界の先に桜の大木が現れた。 かなり歳を経ているのであろう、風格さえ感じられる佇まいだ。 一杯に枝を張り葉を茂らせる様は力に満ちかつ風雅で、花を咲かせればその美しさは大変なものであるに違いない。 その傍らに斉木が居た。 幹に背を持たせ掛けるようにして、立ち尽くしている。 芹沢は声を掛けようとして、止めた。 掛ける言葉を持たないような気がしたのだ。 心持顔を仰向け、無防備に喉元を晒し穏やかな空気を纏う彼は、まるで見えない誰かと語り合っているようだった。 芹沢は自分が邪魔者のようだと思った。 だから却ってその空気を壊してやりたくて、側に行くなり斉木を抱き締めた。 「朝っぱらから何すんだ、お前」 斉木は慌てて芹沢を突き放した。 「ここは俺んちなんだぞ。 誰かに見られたらどうする!」 その言い方はいつも通りの斉木で、芹沢は密かに安堵した。 「だって、ギュッてしたかったんですよ。 昨夜のじゃ足りなくて」 おどけて言うと斉木は呆れて呟く。 「足りないって、あれだけ好き勝手やっといて」 その顔が微かに紅くなっている。 「良かった」 息を吐く芹沢を、訝しげに見やる。 「何が良かったんだ?」 「もしかしたら、昨夜のことは無かった事にしようとか言われるかと思って――」 斉木が自分に身を委ねてくれたのには相応の覚悟があったのだろうから、本当はそんな事を言わないと判っている。 女々しいのは自分だと、芹沢は思った。 芹沢の気持ちを知ってか知らずか、斉木は合点が言ったように手を打ち合わせた。 「その手があったか」 「斉木さん!」 「冗談だよ、冗談」 そんなに性質の悪いのは冗談とは言わない、と芹沢は言ったが斉木は相手にしない。 ひとしきり笑った後、ふと手を上げてある方向を指差した。 「あっちの方に一箇所だけ塀が崩れてる所がある」 何を言い出すのかと顔を見直すと、斉木は視線を合わせぬままに言葉を継いだ。 「あいつはいつもそこから俺の部屋に来てた」 誰のことだと訊く必要は無かった。 芹沢は身体を固くした。 「初めは遊びに来てただけだった。 でもある日突然、好きだと言われた」 そう言ってから小首を傾げる。 「……突然って言うのは嘘だな。 俺は本当は知ってたんだ。 だから欲しいって言われて、受け入れた」 斉木は再び樹を振り仰いだ。 「丁度この桜が満開のときだった。 お前には負けるかもしれないけど、あいつも男前だったから絵になってたぞ」 初めて告白を受けた場所。 だから斉木はここに佇んでいたのか。 先程の他人の入り込めない空気、あれは斉木が過去に捕われていたからだったのだ。 「止めようか、この話は」 斉木が芹沢を見て言う。 「いえ、話して下さい。 聞きたいです」 芹沢は表情を改めた。 今聞いて置かねば斉木は二度と話してくれないだろう。 斉木は頷いて再び口を開いた。 「俺はあいつに好きだと言わなかった。 言わなくても判ってるだろうって思ってたんだ。 それじゃ駄目だって気付いたのは、あいつが俺から離れて行くって知ったときだった」 自嘲の笑みを洩らす。 「駄目だよなぁ、そんなんじゃ誰も本気で言ってるとは思わないよな。 同情とか言い訳とか、そんな風にしか思わないよ。 信じて貰いたくてあいつの言いなりになったりして、悪循環だった」 斉木の顔が泣きそうに見えて、芹沢は思わず口を挟んだ。 「でも内海さんに、好きなのは判ってるって言ったらしいじゃないですか」 だが芹沢の言葉は、斉木の顔を明るくすることは出来なかった。 「あいつはどうしてそれを内海に言いに行ったんだろう。 どんな気持ちで? 俺に言っても届かないって、そう思ってたんだろうな」 「どうして直接聞かないんですか」 芹沢は問うた。 当然の疑問の筈だった。 一人で懊悩を抱え込んでいないで本人に確かめてはっきりさせればいいのだと、そう言い募ろうとした芹沢であったが、その言葉は終に発されることはなかった。 斉木の顔に浮かんだ表情を目にしたとき、声が出なくなってしまったのだ。 斉木は、不可思議な、としか言いようのない表情をしていた。 およそ芹沢には理解の出来ぬ――そうであるが故に惹きつけて止まぬかお表情。 淡く、本当に淡く微笑っているのだが、その中に悲しみが花開いている。 痛みと苦しみ、そして歓びと悔いとが全て内包されていた。 透き通っているのだ。 透き通っているが、正にその為に底が見えぬ海のようだ。 届かない、と斉木は言った。 それはこちらの台詞だと芹沢は思う。 これ程近くに居ながら、何故こんなに遠い。 昨夜は確かにこの腕に抱いたし、背を抱き返してもくれたのと言うのに、あれは幻とでも言うのだろうか。 芹沢は唇を噛んだ。 「あんまり女々しいんで、呆れたか?」 斉木が芹沢を見て言う。 「正直に言っていいんだぞ。 昨日抱いてみて気が済んだだろ」 斉木の言い草に、芹沢はカッとなった。 「俺を見くびるな!」 怒号と共に乱暴に斉木を抱きしめた。 斉木の抵抗を抑え込んで強引に口付ける。 このままここで犯してしまおうか。 芹沢は斉木を抱く腕に不穏な力を込める。 傷が消えないのなら更に深い傷を。 そうすればこの人は自分を見てくれるようになるのだろうか。 だが自分が望むのはそんな関係ではなかった。 「どうすれば、届くんだ――」 芹沢の低い呟きは悲鳴にも似て、斉木の身体を震わせた。 「俺は臆病なんだ。 あいつに引け目があるからじゃない、誰かを好きになって自分がもう一度傷付くのが怖いだけだ」 「あんたは嘘を吐いてる」 斉木の告白を、しかし芹沢は切り捨てた。 自分が傷付きたくないと言うのも本当のことだろうが、それよりも深く、相手を傷付けるのを恐れている。 「俺はあんたに傷付けられたって構わない。 他の奴が何をしようとなにを言おうと俺は平気だ。 あんただけが俺を傷付けることが出来る。 それは俺があんたを好きだからだ。 だから俺はあんたを傷付ける。 ――傷付けたいんだ」 それが想いの証になるのなら。 黙っていた斉木が突然笑い出した。 「斉木さん――!」 芹沢が憤慨の声を上げる。 「だって凄い口説き文句だからさ」 笑いを収めて言うと、斉木は頭を芹沢の肩口に預けた。 甘えるような仕種に、芹沢の怒気は一瞬にして蒸発してしまう。 「ありがとうな、俺なんかの為にそこまで言ってくれて」 耳元で聞こえる斉木の声は穏やかだ。 「そこで言う台詞はありがとうじゃないでしょう。 俺の欲しい台詞も、ありがとうじゃありません」 芹沢の言葉に、斉木はまた笑う。 「その言葉はまだやれねぇよ。 悪いけど」 斉木は芹沢の胸を押し返した。 離れていく斉木の腕を捕らえて、芹沢は言った。 「"今"は駄目でも、"未来"には言ってくれるんですね」 質問ではない。 それは確認である。 言質を取られた斉木が返事出来ないでいる内に、芹沢は先手を打った。 「俺は待ってますから。 あんたが俺の欲しいものをくれるのを」 「好きにしろ」 呆れたように短く言ってそっぽを向く。 子供のような仕種だが、背けた首筋には昨夜芹沢の付けた跡が紅く残っているのだ。 芹沢は不意に息苦しさを覚えた。 「また会いに来ます。 侵入経路も教えて貰った事だし、夜這いに来ますね」 軽口に紛らわすが、息苦しさは治まらぬ。 「調子に乗るな」 斉木が芹沢の頭を軽く小突く。 「塀はすぐ修理してもらうからな」 悪戯に笑うその瞳。 漆黒のそれに自分が映っている。 芹沢は諒解した。 飢えているのだと。 幾ばくかの狂気と魅力的な破壊衝動を伴う息苦しさは、ただ斉木に飢えている故なのだ。 昨夜抱いたばかりなのに、もう欲しくなっている。 一度手にした彼の人は甘美この上なかった。 『俺はもっと欲しがるようになる。 知る前より、ずっと』 芹沢はそう確信していた。 「ほら、行くぞ。 今日も練習あるんだろ? さっさと朝飯食って行かなきゃ」 斉木は芹沢の思いも知らず、いつもの調子に戻ってしまっている。 上辺だけかも知れないが。 芹沢は少しばかり癪だった。 「芹沢?」 動こうとしない芹沢を、斉木が不審そうに見やる。 「まだ二人で居たいなぁ、何て――駄目ですよね?」 「駄目に決まってるだろうが!」 途端に斉木が怒り出した。 「練習不足で県大会に負けた何て言ったら、絶対に! 二度と会わないから、そう思え!」 指を突きつけて怒鳴ると、荒っぽい足取りで歩き出した。 「それとこれとは別でしょう!」 叫び返したが、振り返りもしない。 怒らせてしまったが過去に魂を半分置いて来たように呆とされるよりは、余程ましと言うものだ。 斉木の過去に誰がいるか等、もう気にするまいと芹沢は決心した。 それが誰であろうと過去の存在でしかないのなら、芹沢のすべきことは斉木を過去から解放することだけだ。 断ち切って見せる。 過去の呪縛を。 芹沢は斉木の後を追って、大きく一歩を踏み出した――
fin.
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