「あんたが羅刹かい――――?」
彼は振り向いた。
公園にまばらに設置された、これまた頼りない街灯の下に1人の女が立っていた。
まず感じたのは違和感――――
なぜなら女が立っている場所は、たった今、自分が歩いた場所だったから。
人の気配はしなかったのにな、と若干不思議に思うものの、きっと横の草むらから飛び出してきたんだろうと見当をつける。
それに相手は女だ。
話にもならない。
無論、“羅刹”という鬼の異名を持つ彼にとっては、例え相手が男であろうと、そしてそれが何人がかりであろうと何の問題にもならないのだが。
「そうだが? おめぇは―――?」
女はじっと彼を見ていた。
しかしその視線は彼を通り越して―――――彼の後ろ……
いや、やはり彼を見てるのか。
「へぇ、実際目にしてみるとこれはもの凄いカルマだねぇ。
あんた、凄い業を背負ってるよ。
これは私が喚ばれるわけさね―――――」
「は―――――?
かるま?おめぇ、何言ってんだ?」
不可解な女の言いぐさに、彼は素っ頓狂な声を上げた。
女の口調は軽く飄飄として、そしてとりとめがない。
しかも何を言ってるか理解らない。
突然話しかけてきて、意味不明な言葉を並べ立て、勝手に1人納得している。
(トンでるのか?この女―――――)
一瞬ラリっているのかとも思ったが、その瞳には確かな意志を湛えていた。
街灯があるとはいえ、この暗さで爛々と輝いているように見えるのは―――しかもそれが片眼だけ―――となると、流石に不気味だった。
その女の纏う雰囲気は、明らかに普通の女とは違っていた。
しかも彼女の服装は明らかに一般的ではなく―――薄布で纏っただけの衣装で―――、
彼は少し逡巡し、きっとどこかの劇団から抜け出してきた役者に違いないと結論づけた。
役者なら独特のオーラを持っていてもおかしくはない。
「舞台上ならともかく、
よりにもよってこの俺の前で役者を気取るなんてな―――――」
暗くてはっきりとは見えないが、綺麗な顔立ちに切れ長の目、特に白い肌は闇に映え、大きく開いた胸元が劣情をそそった。
射精したばかりの一物が、ズボンの中でムクムクと硬度を増す。
今し方草むらで食った女は完全に怯えてしまっていて、抵抗らしい抵抗さえなかった。
丁度物足りないと思っていたところだ。
この気の強うそうな女なら犯し甲斐がありそうだ。
彼は鬼の形相でニッと嗤った。
「どこの役者様か知しらねーが、俺ァ、気の強い女は好きだぜ。
むしろ大好物だ―――――!!
俺はな、お前みたいな女を抑え付けて、無理矢理チンポぶち込んで、
ヒィヒィ啼かせるのが大好きなんだよ――――ッッッ!!」
「役者、ねぇ――――――…
その台詞、あんたの方がよっぽど役者らしいさね。
くくくっ―――」
女が不敵に笑い返す。
彼の覇気にも、ほとんど恫喝じみた台詞にも全く動じていない。
普通の女ならまず、この巨体と気迫だけで竦み、怯え、動けなくなる。
にも関わらず、この女は――――――
彼は嬉しくなった。
「女ァ、随分、肝が据わっているんだな」
彼は自然に腰を落とし構えていた。
そしてそれに気づき、驚愕する。
(なっ――――――俺が、構えた!?????
女一人に―――――――!?
この俺が……びびってるってのか――――!?)
彼は先ほど少年にバイクで突進された時でさえ構えなかった。
それは勿論、彼がその体格、筋肉、力量を正確に把握し、自信を持っているからで、同世代の不良少年相手に構えることは皆無だし、大抵の打撃はガードする必要すらないのだった。
(チッ、俺が相手に呑まれたってのかよ。
こんなひょろい女に――――よ……。
だが何かの武道をやっていたとしても、この体格差。
一度捕まえちまえばこっちのもんだぜ――――!!)
しかし彼は動かなかった。
いや動けなかった。
ただ女を睨み、じっとしている。
額に冷や汗が滲んだ。
彼が構えたにも関わらず女は構えすらしない。
怯えた様子もない。
ただ彼の様子を面白そうに眺めている。
彼が動かずにいると女がさも感心したように呟いた。
「あんた強い。
強いね――――、流石は、―――鬼―――……」
その言葉を合図に、羅刹は地面を蹴った。
普段、彼は自分から攻撃を仕掛けることはまずない。
なぜなら、わざわざ手を出さなくとも――――どうしようもないほどの体格差――――が、相手をぶちのめすからだ。
ゆえに彼が戦うのは、彼に挑むことができた者だけに限る。
しかしそれすらも、待っていれば相手からやってくる、そしてやってきたらぶちのめす、それだけだった。
それが喧嘩における彼のスタンスだった。
しかし彼は決して鈍重なのではない。
ただそれが彼の戦闘スタイルだったというだけだ。
ザッ―――――――――――――
地面を蹴り、凄まじい瞬発力でその巨体が一瞬で空間を移動する。
この勢いで迫られれば、まるでダンプカーが突っ込んできたと錯覚してもおかしくない。
女に肉薄したはずだった。
が、捕らえたと思った時は既に、女の姿はなかった。
「何――――!?」
後ろを振り向くと、先ほどまで自分がいた場所に女が立っている。
(な、なんだ今のはっ―――!?
疾いなんてもんじゃねぇぞ――――――――!!)
彼は自分の目を疑った。
日頃から喧嘩三昧で過ごしている彼にとって、こんな事態は、こんな状況は初めてで、目の前で起きていることが理解できない。
というより信じることができない。
あの距離を予備動作もなく、一瞬で、しかも拳を避け、移動するなど―――――…
(不可能――――、じゃねーのか――――………?)
目の前で起きた不可解な現象に、若干の頭の中がパニックに陥る。
この事態をどう理解すればいいのか――――…
その時、そんな混乱を吹き飛ばしてしまうかのような笑い声が―――――
「あははははははは―――――――――っ!!」
女が急に笑い出したのだ。
「ちょっと、ねぇ、あんた、もう一度、その背中を見せてご覧よ?」
「あぁ―――!?」
喧嘩の最中に、相手に背を見せろなどと言われて、見せるわけがない。
女が鋭いナイフでも隠し持っているとも限らない。
彼は人から恨まれている、という自覚はあった。
何しろ何十人も強姦している。
目の前の女に覚えはないが、誰かの差し金ということも考えられる。
彼はもう一度構え、目の前の女を見据え――――――――――
が、目の前にいたはずの女は再び消え、
次の瞬間、女は彼の背後で長ランの裾を掴み、両手で思い切り広げていた―――――――
「な―――――ッ!?」
女から殺気は感じられない。
相手の動きに全くついて行けず、身体が硬直してしまう。
それは彼にとって初めての経験だった。
「あっはははは――――!!!」
そして女と言えば、未だ彼の長ランの裾を掴んで広げ、大声で笑い続けている。
「らせつ――――、らせつ――――――、これ、らせつさねっ!!
あっははっは――――――――」
「―――――?」
「これ、あんたが書いたのかい?」
何が起きているのか、女が何をしたいのか、まるで分からない。
こんな女は初めてだった。
一方で、問われた長ランの文字といえば、それは“羅刹”。
そう羅刹だ。
確かに昨晩、彼が書いたものだった。
新調した長ランの背にでっかく羅刹と―――――
そして女も羅刹だと言っているではないか。
何をそんなに笑うことがある?
「そうだが……?」
「あっはははははは――――――!!」
彼が肯定すると、女は尚も声をあげて笑う。
「だから何がおかしいってんだよ、このクソアマ。
てめぇラリってんのか?」
あからさまに馬鹿にした哄笑に、流石の彼も不機嫌になり、今すぐ殴り飛ばしたい衝動に駆られる―――――
「あんた羅刹でしょう?」
「だからそうだって言ってんだろ――――!?」
「ここに書いてあるのは羅切――――、羅刹じゃない―――――」
「はぁ―――――?」
「いいかい? 羅刹っていうのは悪さばっかりする鬼の名前なんだ」
それくらい知っている。
それも相当強い悪鬼の名前なんだろう。
いつ、誰が、自分のことをそう呼び始めたのかはわからないが、悪鬼のごとき強さを評して、誰かがそう呼び始めたのだ。
そして俺こと羅刹の率いるチームは、悪鬼と呼ばれている。
「でも羅切って書くとそれは、全然違う意味で―――――、
羅を切る、つまり、淫欲を断つ為に摩羅を切り落とすって意味になるんだよ―――――」
「―――――!?」
「これは傑作さね。
希代の強姦魔が羅切とはね―――――――――――あはっ!!」
女は遠慮とか節度とか、そういう言葉とは全く無縁な位置で、ゲラゲラと腹を抱えて笑い続けた。
よく見ると目尻に涙まで浮かべている。
彼にもようやく女の言わんとしていることが理解できた。
自分の長ランに書かれているのは羅刹ではなく、羅切。
つまり今日一日、背に、ストイックにちんぽを切りましたと、しょって歩いてしまったわけだ。
(畜生―――――!
このアマ、ちょっと漢字を間違えただけで散々馬鹿にしくさって!!)
通常、女は強姦はしても暴力は振るわない主義の彼も流石に頭に血が上った。
眼前でなおも笑い続ける女の腹にパンチを繰り出す。
怒りで我を忘れた。
この至近距離では決して避けられなどはしない。
(やべっ――――内臓破裂―――、じゃすまねえぞ――――――――――――!!!)
が、しかし、彼の拳は再び空を切っていた。
「――――――!?」
女は再び瞬時に彼の背後へ。
「本当は、あんたを地獄へ連れて行かなきゃいけないんだけどね―――…。
そのユーモアに免じて、特別に刑を変えてあげるよ。
羅切―――――――――――――――――――――――――!!」
振り向いた彼に女は宣告した。
何を言っているのか理解らない。
が、その表情はどこか嬉しそうな、それでいて同時に悲しそうな、憂いを帯びていて。
彼はただすり抜けた拳に呆然とし、女の動きを目で追うだけ。
女の細い腕があがり、その指先が彼へと伸びる。
女の声が響く。
高らかに。
紡ぐように。
何メートルも離れているはずなのに、何かが、その指先から――――――――、
何も見えないのに、確かに、そこに何かが迸っている。
「うあああああああああああああああああっっっ――――――ッ!!!!」
分からない、分からないが、彼は危機を察し逃れようとする。
しかし何から逃れればいいのかさえ、分からない。
その攻撃は、視えない、何か――――
何が起きているのか、何をされているのか、さっぱり分からない。
けれど女が何かをしているのは確かだった。
何かを喰らった気がして、彼は得体の知れないものから逃れようと藻掻いて―――………。
数瞬の後、気づくと目の前には変わらず女が立っていた。
その指先を彼に向け、でもやはり、その手にはナイフも、武器になるようなものは何もなく。
痛みや苦痛は一切無かった。
ただ一つだけ違ったことがある。
あの女を見下ろしていたはずなのに。
今は見上げている。
彼は思わず自分の体を見下ろした。
地面が近い。
その途中に見慣れぬ二つの脹らみ。
上がった腕と、開いた手。
その白い肌に思わず目を瞠る。
そして、細い――――――とても細い――――――、指。
「な、なんじゃこらああああああああああああああああああああああ!?」
響いたのは女の悲鳴だった。
「え?
は?
え?
え?
え?
え?
え?
え?
は?
え?
え?
え?
え?
え?
え?
え?
え?」
馬鹿みたいに、何度も何度も大量の疑問符を吐き出し続け、そして彼はやっと、その喉に手を当てた。
「これ、俺の声、なのか―――――――――――……?」
(間違い無い……。
これは俺の声、だ――――――――――)
夢かも知れない。
錯覚かも知れない。
催眠術でもかけられたのかも知れない。
彼は必死に自分の体を確かめる。
顔を触り、頬をつねり、腕を伸ばし、胸に触れ、スカートを捲り上げ、脚を曲げ―――――――
現状、持ちうる情報を総括して導き出せる結論は明確にして明白。
俺の体が――――――――――――
女に―――――――――――――――――、なっちまった………。
「あんたが強姦した女の数は108人。
罪を償うには、そう――――、その1000倍は必要さね」
混乱の最中にある彼に、女は先ほどまで変わらぬ口調で淡々と告げる。
「なんだよこれ、どういうことなんだよ―――――!?
なにしやがったんだよ!?」
彼は思わず女に掴みかかった。
その胸ぐらを思い切り掴み挙げる。
今度は女は避けなかった。
が、次の瞬間には、簡単に彼の手を振り解いていた。
「その体で男を108,000回射精させたら、元の体に戻れるってこと。
それからあんたはできる限り女の子を助けること。心を救うこと。
これは刑罰なんだから―――、それくらい当然さね」
「何を言ってやがるんだ!?
おい、元に戻せよ。
いや、元に戻してくれよ、頼むよ」
彼は再度女に掴みかかろうとしたが、流石に今や、その女には殴ることはおろか触れられないことも、そして彼女がただの人間じゃないことも理解していた。
だからほとんど縋り付くような姿勢になっていた。
彼が自分から頭を下げるのは、生まれて初めての経験かも知れなかった。
「でもいいかい?
一つだけ忠告しておく」
「な、なんだよ……」
「あんたが自分が羅城道孝だということを決して知られてはいけないよ」
「な、なんで…」
「いいかい?詛いってのは指向性を持つんだ。
もしあんたを恨んでいる誰か一人にでもそのことを知られたなら、
その途端、更なる詛いがあんたへと降り注ぐからね」
「なに言ってんだよ…。
なに言ってるか、全然わかんねーよ……」
「大丈夫、いいことを教えてあげるよ」
「なんだ?」
「女の体は男でイクときの10倍は気持ちいいぞ?」
「なにっ―――…!?」
「好きなんだろ?セックスが?
あははっははっはははは―――――――――――――」
「クソアマッ―――――!!」
怒号とともに握り拳をつくったものの、その行き場はどこにもなかった。
「その制服は私からのプレゼントだよ。
そうそう、女になったってことは、言ってみりゃ、
いっそ心を入れ替えて生まれ変わるチャンスでもあるんだからね?
男をイかせる自信がなきゃ、明日からちゃんと優等生して勉学に励むんだね。
あははっははははははは――――――――――――」
「ざっけんなぁあああああ――――――――!!!」
彼は吠えた、が、
女は手を振ったかと思うと、次の瞬間には――――――その姿は跡形もなく消えていた。
街灯の少ない闇の公園に、かつて羅刹と呼ばれた少年が――――……、
今は、女子の制服に身を包んだ少女が、
一人、呆然と立ち尽くしていた―――――――
第0話:羅切
終わり