俺が呪いを受け、羅城せつらとして生活を始めてから1ヶ月が経っていた。
「おはよー」
「おはよー」
1年C組の教室でクラスメイトたちと挨拶を交わし、俺は席に着く。
その日はどことなくクラスの雰囲気が違っているように見えた。
例えるならいつ雨が降り出してもおかしくない曇天。
いつも俺に真っ先に話しかけてくるみことはまだ登校してきていない。
その所為かとも思ったが、原因はすぐに分かった。
「羅刹がいなくなったんだって」
悠理がそう告げた。
「らせつ?」
あえて知らない振りで聞き返すが、懐かしい名前だな、と俺は心の中で呟いた。
羅刹が消えた。
それは1ヶ月も前のこと、何を今更?とも思ったが、その重大さが分からないわけではない。
日々の新しい生活に馴染むのに精一杯で、考える暇がなかった………、いや、あまり考えないようにしていたことだった。
輪光――――
本来この近隣地域の治安はかなり悪く、昼間から暴走族が走っていたり、街中で不良同士の喧嘩を見ることなど日常茶飯事だった。
表には出てこないが、輪高から東に位置する私立征関学院の、その更に東にはヤクザ・桜劉会が事務所を構えているのは周知の事実だ。
輪高の羅刹――――
それは輪高の不良グループ・悪鬼の頂点に立つ男の名。
その人間離れした体格と、化け物じみた力で、輪高入学後、瞬く間に頂点に立った。
治安が悪く抗争が絶えなかった輪光一帯を完全制圧。
周辺の暴走族や不良グループを悉く潰し、輪高の北に位置する撲斗、東の征関、南の三麓を傘下に置いた。
しかも彼はそれらの不良グループを配下に置くだけに留まらなかった。
金を上納させ、更に女を差し出させてもいた。
まさに鬼、鬼畜、悪鬼……。
その派手な所業の所為で、彼は一度やくざと抗争をしたことがあり(三麓には桜劉会組長の息子・鉄が通っている)―――その時に傷害事件を起こし停学、その為、彼は3年を卒業できず留年――――、しかしその抗争がきっかけでやくざからの一目置かれるどころか、不干渉を約束させた恐るべき人物であった。
羅刹にステゴロで敵う者は決して存在しないそれどころかナイフや鉄パイプさえも通用しない、というのはそれまで当然のように囁かれていた噂の一つなのだが、そこに新たに“奴には銃弾も効かない”と付け加えられたのだった。
とはいえメンツを重んじるヤクザが高校生にやられたまま放置するはずはない。
将来を期待され見逃されている、というのが周囲の見解だ。
彼は最早生きた伝説だった。
いや彼はまさに伝説上の生き物“鬼”であった。
一方で、彼が台頭したことによって輪光周辺の治安が目に見えて良くなったことは否定できない。
我が物顔でのさばる悪鬼を除けば、街は実に平和な様相を見せていた。
少なくともその表面上では。
そのように羅刹は恐るべき人物であり、事実、恐怖の権化として誰からもその存在を畏怖されていた男であり、その副産物として彼の通う輪高の制服には、羅刹の威光が宿ることとなった。
輪高の生徒たちは、羅刹を、そして不良グループ<悪鬼>の存在を忌み嫌いつつも、少なからずその恩恵に預かっていたことは否定できない。
その羅刹が、突然いなくなった。
それが由々しき自体であることは誰の目にも明らかだった。
絶対的強者がいなくなりパワーバランスが崩れる。
そのあとに訪れるのは嵐――――、それ以外にない。
だからあいつらは、俺の家に迎えに来たあいつらは「羅刹が引っ越した」という張り紙をその場で引っぺがし持ち去ったのだ。
そしてその事実を隠蔽し続けた―――――。
でも一月だった。
一月しか保たなかった。
それともよく一月保ったと言うべきか。
「…―――――そういうわけだからー、羅刹って人がいなくなると、なんか、喧嘩とか多くなるっぽいんだよね」
「そうなんだ……」
悠理から稚拙な説明を受けなくとも分かっていた。
「そうじゃないでしょ」
いきなり横からみことが割り込んでくる。
「あ、おは―――…」
「羅刹って周りの高校に沢山酷いことしてたから、そいつがいなくなったら、
これからは周り全部から輪高が標的にされるってことだよ」
みことは俺の挨拶を遮り、憮然と言い放った。
その雰囲気はいつものみことではない。
彼女のよく通る声に言い放たれた言葉は、まるで教室内に染みこんだように思えた。
これだ――――。
俺が朝から感じていた違和感の正体は。
皆、それを分かっていたのだ。
皆、怯えていたのだ。
羅刹がいなくなったということに。
輪高は公立で偏差値も高くない。
遠くからわざわざ入学するような物好きはなく、生徒のほとんどは周辺の中学から入る。
だから知っているのだ。
中学の頃から皆、俺の噂はよく耳にしていたのだろうから――――――――
「ね、なんかみこと機嫌わるくない…?」
俺はこっそり悠理に耳打ちする。
「うん。みことの前で羅刹の話はタブーね」
しー、と悠理は人差し指を唇に当ててみせる。
「え、なんで―――……」
しかし先生が教室へ入ってきてHRを始めたために、悠理は自分の席へと戻ってしまった。
そうか、俺がいないことがばれた、か――――――。
その日の授業はほとんど頭に入らなかった。