「せつらさんっ!せつらさんっ!」
みことが私の名前を呼んでいる。
私を?
俺を?
せつら?
それは私の名前?
俺の名――――……?
「うっ……ううっ………」
俺はゆっくりと起き上がった。
アスファルトに強く押しつけられた掌が痛みを伝えてくる。
気がつくと、みことが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
その目から大粒な涙が零れる。
意識が朦朧とする。
頭を振って覚醒を促す。
「今、救急車、呼ぶからねっ――――」
みことが取り出した携帯を、俺は慌てて掴んだ。
痛みは―――――、ない。
「大丈夫」
「え?でもっ……」
「ほんと、平気。もうなんともない」
痛みはもうどこかへと消え失せていた。
俺はすくっと立ち上がってみせた。
彼女を安心させるため、軽快に体を動かしてみせる。
「ね?」
「う、うん……。よかったぁ……」
みことが涙でその顔を歪めながら、それでも笑顔を見せる。
「もう――…、なんでおまえが―――みことが、泣いて…………」
「だ、だってぇ―――…」
みことの涙に、また胸がずきりと痛む。
俺は鞄からハンカチを取り出し、彼女の涙を拭いてやった。
女の涙を拭くなんて、初めての経験だった。
でも今の俺には、彼女の涙が、どうしようもなく、悲しい―――――…。
「いこ」
遠巻きに沢山の視線を感じ、俺は彼女の手をとって立ち上がらせ、ゆっくりと歩き始めた。
それからしばらくの間、俺たちは当てもなくただ歩き続け、15分くらいは歩いただろうか、ようやくみことも落ち着きを取り戻してくれたようだった。
「せつらさんどこか体悪いの? ああいうこと時々あるの?」
「初めて、かな。
どこか体悪いとかはないと思う」
「でも顔真っ青だったし、凄い苦しそうだし、
私、もう、せつらさん死んじゃうかと思っ……た―――――――」
「全然平気、心配かけてごめんね。
もう本当に平気だから」
死んじゃうかと思った――――か、―――――――――……
俺は先ほどの喫茶店での出来事を思い出していた。
あの時、みことの表情をみた俺は突然胸が張り裂けそうな痛みに襲われた。
あれは何だったのか。
あれは断じて肉体的な痛みではなかった。
押さえた胸はあまりに当たり前のように手の感触を伝えてきたし、激痛に対して何かしらの反応を与えることも一切なかった。
心というものが―――そもそも存在するのかは分からないが、もしあるとするならそれは確かに胸の奥にあって、まさにその部分が声にならない悲鳴を上げていたのだ。
怒り、憤り、告解、懺悔、絶望、悲しみ、嘆き、そんな雑多な感情が綯い交ぜになったような、どうしようもない魂の叫び。
本来、彼女を犯すのを妄想し欲情するはずの俺。
現在、彼女が男にレイプされる光景を思い浮かべ、ブチ切れる俺。
みことの痛みなど決して理解するはずのなかった俺。
しかし今あるのは、悲しみ、痛み、苦しみ、それは彼女への――――共感。
それは同時に自分の中に溢れ出た罪悪感でもあった。
取り返しのつかないことをしてしまった謝罪と絶望。
罪悪感とは完全に無縁だったはずの俺が
そんなことを感じてしまうあまりの矛盾に
過去の自分と今の自分とのあまりのギャップに
もう何が何だか分からなくて
もう何もかもが綯い交ぜで
感情が溢れ出て
心が、壊れるかと思った――――――――――
勿論、俺とて仲間を思いやる心がないわけではない。
ダチが傷つけられれば怒りも湧くし、報復だってする。
それくらいの感情はある。
ただその対象に女は誰1人含まれていなかった、それだけのことだ。
そして今、みことは間違いなく俺の大切な友人なのだ。
最初は、俺がみことに酷いことをしてしまったと、俺自身が絶叫しているのかと思った。
いや、それはその通りだ。
あれは確かに俺の心の痛みだった。
しかし同時に彼女から流れ込んできたもの。
それは明らかに、俺が彼女に与えた苦痛そのものだった。
なぜそんなものを感じてしまったのかは分からない。
身を引き裂かれるような痛み。
自己の存在への限りない嫌悪。
終わらない苦痛。
溢れ出す悲しみ。
拭えない絶望。
傷は何度もぶり返し、心の奥底に澱のように暗く淀む。
生まれるは殺意に満ちた怒り。
行き着く先は、心の中を彷徨い、出口を求め吠える、明確な指向性をもった、呪い。
―――死んじゃうかと思った―――
もし彼女にそう見えたのなら、彼女は本当に
死ぬような苦しみを――――………
第8話:触心
終わり