女はそっと目を開けた。

静謐にして清澄な大気が周囲を包み、穏やかな風が頬と髪を優しく撫で、そよいでいく。

近くに設けられた小さな池の魚が元気よく跳びはね、気持ちのいい水音を立てた。
その視界の殆どが乳白で埋め尽くされた世界で、女はうたた寝をしていた。



その美しい瞳を薄く開けて、今見ていた夢を思い出す。





それは遙か昔、遠い、遠い、昔の物語――――――………





二度と思い出すことがないよう、記憶は閉じたはずなのに。



力を使い果たし、封印が綻んでしまっているらしかった。










あの時、鬼となってしまった彼を止められたのは私だけだった………。

私なら、彼がそれ以上人を殺めることを、止められたはずだった。
しかし、そうはしなかった。
それどころか、彼と共に沢山の人間の命を奪ってしまった。

その罪は未だに消えずにいる。
贖いの方法など知らない。

そもそも、本来、罪も贖いもない。

もし本当に罪というものがあるならば、それは――――――――――










私が鬼にしてしまった彼の魂は

私が輪廻の輪に組み入れてしまった彼の魂は

何度生まれ変わっても、鬼の宿命から逃れることはできなかった。





だからせめて、私の手で――――――――――――…




















「また無茶をなさいましたな」


不意に彼女に声をかけてきたものがいる。
いつどこから現れたのか、その気配は、音もなく。


それは低く太い、男の声だった。
女の傍に控えるように佇み、低頭しているが、どこか慇懃無礼な雰囲気を持っている。



また・・おまえか・・・・――――……」

「それはこちらの台詞にございます――――ラクサラ様……」

「………………」
「………………」

「………………」
「………………」

「それで――?」


「はい、再び100年の眠りにつけ、と―――――」




「また、最後まで見届けてさせてはくれぬのだな――――」


「見届ける――――…?
 ご冗談を………。
 力が戻り次第、再たすぐにでも降りるつもりなのでしょう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 これ以上人間界へ関与することはあの御方が許されませぬ」



「ふん……。
 ならばいっそひと思いに滅してくれれば良いものを―――――」

「また、ご冗談を――――――…」


「冗談ではない。わたしはもう在り続けることに疲れた。
 もう、おまえでいい―――……、私を滅してくれ」

「それはできませぬ。あの御方のご意志ゆえ」





「――――なにもかもがくだらぬ」

「なればあの鬼のことなどもうお忘れになるとよろしいでしょう」

「おまえ、消すぞ――――…」

「おぉ…、怖い怖い……。
 しかし恐れながら、今の貴女様の霊力ではわたしにさえ敵いますまい――――――?」





男が彼女の細い腕を掴み、引き寄せた。
彼女より遙か下位に位置する男の行為は酷く無礼にあたる。

が、振り解けない。

彼女は屈辱にその綺麗な貌を歪めた。
その霊力はもはやその殆どが失われ、今や人間の女と変わらないのだった。





「貴女様の霊力――――全てあの鬼にあげてしまわれたのでしょう――――?
 それにしても苟且かりそめの存在に名を与え、魂を繋げるなんて………、
 嗚呼、貴女は本当に恐ろしいお方だ。
 あの御方が気に入られるのも納得がい――――――」
「ええいっ、五月蝿い!放せっ――――!」



「ふふふ―――。
 彼を地獄へ堕とすくらい、私にだってできるんですよ?
 なんならあなた様の不始末、私が片付けてさしあげても―――」

「貴様ッ―――――――――――――――!!!」

「おおっと、冗談ですよ、冗談」



頬を殴られそうになった男が、素早く女の腕を放す。



「――――とはいえ、随分惨いことをなさいましたね。
 一体どれだけの人間が、彼の死を待ち望んでいたと思うのです?
 呪い封じなど――――……結局誰も救われない。
 少なくとも彼は死なせてあげるべきでした・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」



「五月蠅い。
 そんなことは百も承知している。
 しかし私にはその程度しかできぬ・・・のだ……」


その程度・・・・――――ね………」



「…………」

「…………」





「あの方なら彼を救うことなど造作もないことだろうに……」



「些事、と――――」






























「はぁ――――――――――――――…………」





女は深く深く、長い溜息をついた。
それは永年の鬱積した感情を込めた溜息だった。




(いっそ彼を恨む人間をすべて殺してしまえばよかった………)




そう考え、また沈痛の思いを抱く。


結局、捕らわれたままなのだ。


いつまで経っても。


彼も、私も。




















「もういい」



女は小さく、気怠そうに呟いた。





「では―――――――――――」




















意識が微睡んでいく。
再び長い長い眠りへと堕ちていく。



彼がやっと人間らしい心を取り戻しつつあるというのに―――――……



その魂の形を変えつつあるというのに―――……










喩えその傍にいるのが、自分ではないとしても構わなかった。



あの時の約束を果たしてくれるなら。





彼を人間に戻してくれるなら。










(ふっ……)





薄れ行く意識の中で女は笑っていた。



そう、まだ全てに絶望したわけではない。





今回は奴がいる・・・・・・・――――――――――――





あの憎き男の血を受け継いだもの。





そして、それだけが私の、最後の希望。




















御巫命 ミカナギノミコト










後は頼んだよ――――………

















































































外伝:洛沙羅
終わり

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  第19話:救出!
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