午後3時。
私は一人病室で外を眺めていた。
今日も、雪――――。
まだ暦は12月に入ったばかりだというのに、もうこんなに積もっているんじゃ今年の冬は相当寒くなるかもしれない。
雪は嫌いではない。
でもそれは見ている分には、であって、寒さやその中を歩くことや、除雪作業なんかを考えると単純に喜ぶこともできない。
相変わらず、外の景色とは真逆に病室の中は暖かかった。
むしろ暖房が効きすぎていて、まるで南国のようだ。
午前中の診察を終え、だされた昼食を綺麗に平らげた私は、手にした小説に目を通していた。
“何も覚えていない”ことを除けば、どこも悪くない私にとって一日中ベッドの上というのは酷く窮屈で、退屈だった。
昨日、去り際に空見先輩が置いていってくれたこの小説が無ければ暇を持て余していたところだ。
考えなければいけないことは多いはずで、けれど何も思い出せない私にとって、本の世界に没頭することはなによりの精神安定剤だった。
はっきり言って、私は元気だった。
1ヶ月も寝たきりで、若干体力に衰えは感じるものの、どこにも不調はなく、すぐにでも走れるようになるだろうことは手に取るように分かった。
短い夕方が終わり、太陽がすっかり隠れた頃、空見先輩はやっと私に会いに来てくれた。
勿論、学校があるから仕方ない、のだけれど。
「これ、面白かったです」
「早いな。もう読み終わったのかい?」
「他にすることもないですから」
それから空見先輩は大きな紙袋から次々と品物を取り出し私の前に並べた。
タオル、ウェットティッシュ、保湿クリーム、櫛、化粧水、手鏡―――――、etc、etc。
それはどれもが、今日一日私が欲しいと感じていたものばかりだった。
「これ……」
「生憎、うちの家庭には女性がいないんでね…。
クラスの女の子に聞いて、一通り揃えてきたんだが、
もし足りないものがあったら遠慮無く言ってくれ。すぐに調達してくるから」
「あの……」
話すより先に、涙が伝っていた。
彼が来てくれたことが、こうして私を想って、優しくしてくれることが、どうしようもなく嬉しかった。
彼の優しさに触れて、勝手に涙が溢れ出してきていた。
何も思い出せない。
自分が誰かも分からない。
それでも不安はない。
私は不安なんて何も感じていないつもりだったのに、
それでもやはり、どうしようもなく不安に違いなかったのだ。
だから、だから、彼の優しさが、どうしようもなく――――――――……
先輩がハンカチを差し出し、私はそれを掴んだ。
「あの、ありがとう……ございますっ…………、
あのっ………わたし……っ……」
「もし喜んでくれたなら、俺は笑ってくれた方が嬉しいな」
「は……、はいっ………」
優しい
この人はとても優しい人だ
私は彼のことが好きになってしまいそうだった。
もしかしたらもう、好きになっているかも知れない。
この人は私のことを好きだから、だから優しくしてくれるのかもしれないけれど、
そんなことは分かっているけれど、
それでも今の私はこの好意に甘えずにはいられない。
誰かが自分のことを好きだと言ってくれる――――――…
それ以上の自己肯定は――――、無い。
私が本来感じなければならないはずの不安―――、その99%は、彼が取り除いてくれているに違いなかった。
彼は優しい。
彼は私を癒してくれる。
私はこのままでは確実に、彼のことを好きになってしまうだろう……。
ううん、多分もう、好きになってしまっているかも――――……。
私はそれでも構わないと思うけれど、
心のどこかで、記憶の無い私が、駄目だと叫んでいる気がした。
その理由は一切告げもせずに――――……
「あの、先輩……。
色々揃えていただいて、嬉しいんですけど……、
私もうどこも悪くないです…。
だから――――……」
家へ帰りたい?
家?それはどこ?
私に帰る家はあるの……?
分からない。
分からないけれど、ただこの場所にはもういたくない。
私はどこも悪くない。
「えっと……、今日お父さんは、来た?」
「いえ……」
父。
名前も、顔も思い出せない、私の父。
自分は相手を覚えていないのに、相手が会いに来ないのを薄情だ、なんて言うことはできない。
でも――――………、父親なら真っ先に会いに来てくれてもいいのに……。
「あ、いや、実はね。
君があんな事件に巻き込まれてからというもの、どうやらお酒ばっかり飲んでるようで……」
「父が、ですか?」
「ああ。それで最近はあまり体調も良くないみたいだから――――……
今日帰りに君の家に寄ってみるよ」
「私も行ってもいいですか?」
「いや、それは駄目だ。
まだ退院の許可はおりてないだろう?
それに服も無いし……。
そうだ―――、君の家に寄るついでに服もとってこようと思うけど、いいかな?
部屋に入られるのは嫌かい?」
自分の部屋。
思い出せない。
けれどそこには何かしら、私の手がかりがあるのは間違いなかった。
早く行きたい。
自分の部屋がどうなっているのか分からないけれど、流石に男の子に入られるのには抵抗があった。だってもし汚かったら、見られたら恥ずかしすぎる。
私が返答に躊躇していると彼の方から切り出してくれた。
「ごめんごめん。流石に部屋に入られるのは嫌だよな。
じゃあ服をとるのはお父さんに頼もう。それでいいね?」
「はい、お願いします」
うまいこと家へ戻るのを断られた気がするが、彼を困らせたくもなかった。
あとで先生に退院させてくれるようにお願いしなくちゃ。
第26話:恋心
終わり