それから30分ほど悠理と萌と他愛もない話をして過ごし、空見先輩がきて彼女たちと別れた。
先輩の大きな手が、私の手を彼のポケットへと導く。
それだけで私の心に幸せが溢れてくる。
幸せな気持ちで一杯になってしまう。
「18時までに戻ればいいよね?」
「はい
でもほんとうに今日一日、遊んじゃってもいいんですか―――…?
勉強大変なんじゃ……」
「いやもう、実際、朝から晩まで勉強勉強で、死にそうだよ。
今日一日くらい遊ばせてくれよ」
「無理しないでくださいね」
「じゃ、どこいこっか」
「先輩も、お昼まだですよね?」
「ならまずは腹拵えだな」
確かに私は記憶を失った。
昔のことも、友人達のことも、自分のこともさえも、未だに思い出せずにいる。
けれど、私は十分に幸せだった。
2ヶ月前の――――、あの大事件の所為でこの街は急速な発展を迎えていた。
記憶が曖昧で“以前の姿と比べると”なんて言えないけれど、それでも退院してから1ヶ月余りの私の目にさえ、毎日の街の変化ははっきりと写っていた。
家のポストには毎日の様に新規開店の広告が放り込まれているし、ふと気がつくと新しい店ができていたりする。
しかし街は目覚ましい発展をしているわりに、クリスマス一色に染まってきているわりに、そこはどこか閑散としていて、まるで街が人々を置き去りに勝手に進んでいる――――、そんな感覚を私に抱かせた。
それはあるいはこの寒さの所為だったかもしれない。
そんな街だから、クリスマスといってもどこも満杯ということは無く、私たちは適度な人混みの中デートを楽しんだ。
私たちが行ったのは新しくできたばかりの総合アミューズメントパークだった。
その広い敷地内には体を動かすスポーツゲームから、頭脳を駆使するテーブルゲームまで、数え切れないほどのアトラクションが用意してあり、一日ではとても回りきれないし、決して飽きることもない。
まだ訪れるのは2度目で、私たちは時間の許す限り遊んだ。
18時からはお父さんと空見先輩との三人で、ささやかなクリスマスパーティをする約束をしている。
この日のためにお父さんは昨日から仕込みをしていて、きっと今も奔走しているに違いない。
勿論、私も手伝うと言ったけれど、お父さんが「俺の仕事だから手を出すな」と言い張ったのだ。
予定の15分前には私たちは自宅へと戻ってきていた。
「わぁ…………」
その光景に思わず感嘆の声が漏れた。
呻かずにはいられなかった。
父の気合いのいれようから、料理の内容に期待はしていたものの、まさかここまでやるとは予想だにしていなかった。
天井と壁を結ぶ色鮮やかなアーチ。
テーブルの上には所狭しと料理が並べられ、どこから持ってきたのかその隙間を埋めるように燭台が置いてあった。
窓際には飾り付けられたツリーがおいてあり、施された様々な色の電飾が、照明を落とされた部屋を幻想的に彩っていた。
父がCDデッキのスイッチを入れ、静かなクリスマスソングが流れ出した部屋は、一気にクリスマス一色に包まれた。
私にはそこが普段生活している家だとは到底信じられなかった。
まるでどこかのレストランの個室に訪れたのではと、錯覚すら覚える。
準備は大詰めにはいっていて、私も手伝おうとしたけれど、父はいいからいいからと、私と先輩をソファーへと追い払った。
まだよく知らない自分自身の父の姿に、私は複雑な感情を覚えた。
勿論、その感情の大部分は嬉しいとか、凄い〜という素直な気持ちなのだが、僅かに歯痒さといったような、若干のいたたまれなさを覚えたのは確かだ。
普段寡黙な父が、黙々と作業を進める気合いの入れように、温度差を感じた所為かもしれない。
いっそ父が子供のようにはしゃいでいたら、もしくは私に一緒に手伝わせてくれたら、もっと近づきあえたかもしれないのに、と少し残念に思う。
18時きっかりに、父は私たちを呼んだ。
「あはは、年甲斐もなく張り切ってしまったよ。
料理の味は保証できないが、雰囲気だけでも楽しんでくれると嬉しい」
「ううん、凄いよ。お父さん。
もう見た目だけでいっぱいいっぱい驚かされたよ」
「ああ、そうだ、今日は奮発して高級なワインを買ってきたんだ。
料理の味はこれで誤魔化してくれ」
『「お父さん。私たち未成年だよ!」
「昴さん、俺たち未成年ですよ」』
父のユーモアに笑いながら、私たちはハモった。
空見先輩と顔を見合わせ、そして微笑みあう。
私たちは別に厳格な考えで、未成年にアルコールは駄目と言ったのではなかった。
私は空見先輩を、空見先輩は私を心配して言ったのだ。
それが分かったからこその、微笑みだった。
「堅いことを言うんじゃない。
西洋じゃ子供だって普通に酒を飲むんだぞ?」
「それは土地柄の所為ですよ。
水が汚くて飲めなかったからアルコールに頼るしかなかったんです。
だから日本人と違って遺伝的に、体内のアルコール脱水素酵素が多いんですよ。
まあ、ワインは僕が頂きますから、せつらさんにはあまり飲ませないでください。
まだ退院してそんなに日が経ってないんですから」
「ほほう、流石空見くん。
物知りだねぇ」
そんな蘊蓄を述べつつも空見先輩の手は、父の手からワインボトルを受け取り栓を抜いている。
父のワイングラスになみなみとワインを注ぎ、それから自分のグラス、最後に私のグラスにほんの少し。
「そうだ。挨拶が遅れてしまいました。
昴さん、今日はお招きいただきありがとうございます」
「またまた空見くんはそんなに畏まって。
せつらと付き合っているならもう家族みたいなものじゃないか。
さあ、どんどん飲んで、じゃんじゃん食べてくれよ」
普段寡黙な父だけに、そのテンションについていけず私は苦笑した。
まだ酔っ払っている雰囲気はないのに。
「あ、お父さんこれ美味しい」
「ほんとだ、これはいい味付けですね。
口触りもいいし、後から濃厚な味が広がって――――
昴さん、これもう自分のお店開けるんじゃないですか?」
「うん。
お世辞じゃなくて、私もそう思う」
「あっはっは。
それはデパートで買ってきたものを盛りつけただけだ」
「空見君は東大受けるんだって?
凄いねぇ」
「受けるだけなら誰でもできますよ。
賛辞は受かってからでお願いします」
「記念受験というやつか、いやそれでも簡単に受けれるってもんじゃないだろう。
それに君は合格率もそれなりにあるらしいじゃないか」
「そんなこと…。
まだまだ危ないですよ」
「あ、わたしターキー切り分けるね」
「おー、頼むよ」
「あれ、これ中赤いよ?暗くてよく見えないけど」
「お、そうか?
かなり長めに火通したんだけどなぁ。
どうせ3人じゃ食べきれないだろう。
焼けてるとこだけ切り分けてくれ」
「うん、分かったー」
「いやーめでたい。めでたい。
おや、空見君、ワイングラスが空になってるじゃないか!」
「お父さんあんまり勧めないでよ。
先輩はこの後も勉強しないといけないんだから」
「堅いこというんじゃないよ」
「昴さんは、キリスト教なんですか?」
「いや、そういうわけじゃないが」
「そういえばクリスマスってキリスト教の神様が生まれた日なんだっけ?
なんで私たちが祝うんだろ?」
「まあいいじゃないか。
今日は全世界が浮かれる日なんだよ」
「でもちょっと怖くない?
知らないうちに知らない人の誕生日を祝わされてるなんて―――……」
「知らないうちどころか、西暦で数えてまでいるよ。
なにしろ今日は2010回目のクリスマスなんだからね。
まあ厳密には4年程ずれがあるらしいが」
「あー」
「因習ってやつだよ。
日本だって昨日は祝日だったろう」
「あー、うん」
「その、なんだ。
空見君と、せつらは、もう………、やったのかい?」
「ブッ――――――…… ちょっ、ちょっとお父さんっ!!」
「別にいいんだよ私は。
空見君になら安心してこの子を任せられる」
「残念ながらまだですよ」
「そうなのかい?
せつら、空見君じゃ不満なのかい?」
私はちょっと本気で怒りを感じ、思わず手にしていたナイフを握りしめ、しかし呆れて黙り込んだ。
確かに私たちはまだしていない。
別に空見先輩に不満があるわけでも、拒否してるわけでもない。
彼のことは好きだし、っていうか大好きだし、そういう関係になるのはやぶさかではないし、っていうか、そういう関係になりたいとさえ思っている。
けれど私たちはまだ知り合って1ヶ月程度なのだ。
好きという感情は十分にあるけれど、心の準備ができていない。
「せつら。
年頃の男の子は溜まってしまって大変なんだよ。
それを助けてあげるのも彼女の役目なんだよ」
「お父さんもういいよ。その話は終わり――――!!」
止めないと更に突っ込んでくる気がして、私はきっぱりと終止符を打った。
それから私たちは2時間近く他愛も無い話をし続けた。
会話が途切れ、いい感じに落ち着いた頃、父が席を立った。
「さてと……。
申し訳ないが、私はこれからちょっと出かける用事があるんだ」
「え?お父さん今から?どこにいくの?」
「古い友人に会いにね。
帰りは遅くなるかもしれない」
「そうなんだ。
もう結構飲んでるんだから、気をつけてね」
「ああ、片付けは明日やるからそのままにして、二人はクリスマスを楽しんでくれよ。
そうだ、二人にプレゼントがあるんだった。
テレビの上に置いてあるから後で開けてみてくれ」
「うん、分かった。
ありがと」
「昴さん、今日はありがとうございました。
お話できて楽しかったです」
「礼を言わなければいけないのはこちらの方だよ空見くん。
もし君がいなかったら、こんな平凡な幸せは取り戻せなかったかも知れない。
本当に感謝しているよ」
「昴さん、頭をあげてください……。
それに俺はただ、せつらさんに惹かれて、好きでやっただけですから。
だから、別に礼を言われるようなことはなにも―――――」
「あはは。
じゃああとは若い二人に任せて年寄りは退散することにするよ―――――」
「もう……」
私と先輩は玄関の外まで、父の姿を見送った。
普段とはすっかりテンションを変えた自分の父親の姿に、私はいたたまれなさや恥ずかしさを感じながらも、それでも、とても楽しい一時をくれたことに感謝した。
第30話:クリスマスパーティー
終わり