肺を刺す冷たく澄んだ空気は、どこか冷厳ささえも感じさせて道場を満たしていた。
「はっ―――――――――!
はっ―――――――――!
はっ―――――――――!」
羽織のかけ声に合わせ、私は木刀を振り下ろす。
既に15分は振り続けていると思う。
手は痛いし、手っていうかもう、肩も胸もお腹も背中も足も痛いし、疲れたし、でも隣で一緒に素振りをしている羽織はまだ息一つ乱して無くて………。
これからの予定さえ聞かされていない私は、流石にいつ終わるとも知れない延々と続く素振りに終に音を上げる。
「ううっ、手冷たいよぉ……」
「これくらいで根あげんじゃないよ。
あんたの根性鍛え直すにはこれくらいしないと駄目なんだからね」
「ふぁぁい―――……」
いつきさんに冷たく言われ、私は内心ふて腐れつつも、手に力を込め、木刀を握りしめる。
ちらり、となるべく恨めしそうな思いを込めた視線を羽織になげかけたが、彼女は真っ直ぐに前を見つめ、私の事なんて眼中にないようだった。
その様は凛としてとても格好はいいのだけれど――――――……
騙されたと思った時にはもう遅かった。
今、この場にいるのはいつきさんと羽織と、私だけ。
2月下旬――――――……
季節は春を迎える準備を初め、ようやく陽気な日も増え始めたはいえ、暖房一つない道場は一切の温もりを持たず。
木張りの床は私の素足からどんどん熱を奪っていく。
決して綺麗とは言えない道場。
神楽の家は輪光の一角に、どーんと大きな敷地を構えていた。
門から屋敷までかなりの距離があった。
とはいえ、敷地こそ広いものの、そこには表札すらなく、中はひっそりと静まりかえっていて、屋敷の様相は打ち棄てられ、今は誰も住んでいないと言われれば信じてしまいそうな雰囲気を持っていた。
神楽の敷地にある道場、この場に羽織がいるのはなんら不思議はないとして、いつきさんもまた、神楽の後継者として当然なのだった。
私だけが―――、
「すっきりするからさ、ちょっとだけ一緒に修行してみようよ」という、羽織の口車にのせられて、いつきさんがいるとも知らずのこのことやってきてしまった私だけが―――、とてつもなく場違いだった。
羽織一人なら、なあなあにして終わらせてしまえるのに、いつきさんまでいるとなると、適当にやるわけにもいかない。
帰って布団にくるまり、ホットココアでも飲んで温まりたいと思いながらも、木刀を振り続ける。
「せつら、少し休め。暫く羽織の型を凝視しろ」
荒い息を吐き、切っ先を床に委ね、羽織を見遣る。
とても綺麗な、流れるような、フォーム。
凝視しろって、言ったって………。
一応さっきから、見様見真似でやってはいるんだけど……。
それから道場の時計がお昼を告げるまで、私は延々と素振りだけをやらされた。
「よし午前の部はここまでだ。
お昼を食べたら再開な。
今日は暇だからな―――、とことん付き合ってやるよ」
うへー。
もう手、痛いんですけど―――――――――……
木刀握りたくないんですけど………
「羽織、きな」
「はいっ――――――!!」
ずっと強く握りしめ続けていた所為でそのままの形で固まってしまった私の手から、いつきさんがするりと木刀を抜き取った。
羽織の気迫にびっくりして、私は端へと逃げる。
ていうか、お昼じゃないの……!?
と思うか思わないか、私は目の前の光景に目を瞠った。
凄まじい――――――……
それはまさに、凄まじい、の一語に尽きる。
私には息を呑む以外に何もできない。
っていうか、ほとんど何が起きたか分からなかった。
1分なかった、と思う。
あっという間に羽織が膝をついていた。
よく分からなかったけど、羽織がいつきさんに翻弄されて終わった、という印象。
私はその仕合に完全に呆けてしまっていて、いつきさんが目の前に来て、私の手に木刀を押しつけるまで、まったく気がつかなかった。
神羅雪の誰もが、いつきさんのことを畏れているけれど、こうしてみると改めて納得がいく。
というかその動きについて行く羽織も羽織だ。
そもそも不良がまじめくさってこんな道場で修行とかしないで欲しい。
あ、うちらは族であって不良とは違うのか…。
いや、やっぱり、同じだよ。
羽織くらい強かったら普通に剣道部に入って全国大会でもでたほうがよっぽど健全なのに……。
と以前本人に言ったことがあるけれど、興味無いの一言で斬り捨てられた。
いつきさんが指で私に合図した。
促されるままに構えると、すぐ隣に立ち、握り方や腕の位置なんかを修正してくる。
ていうかお昼はまだなんですか。
私はふと、疑問に思っていたことを訊いた。
「いつきさん……、一つ、訊いてもいいですか?」
「ああ?」
「あの時のことなんですけど………」
「あの時って?」
「私と初めて会った日――――――……、あれって、わざと掴ませたんですよね?」
「掴ませた?
ああ、白羽取りのことか。
そうだよ、だってあんたは私の刀しか見てなかったからね」
やっぱり……。
自分でも神憑ったとしか思えない動きをした、あの時でさえ、
この人は遙か頭上から私を見下ろしていた。
この人はもう、次元が、違う――――。
「あの、もう一つ訊いてもいいですか?」
「ん?」
「いつきさんはなんで磯姫って呼ばれてるんですか?」
「さぁ、そんなのこっちが聞きたいくらいだよ」
「磯姫って調べたんですけど、人の血を吸う妖怪ですよね……?」
「――――――――――そこまで知られちゃ仕方が無い。
今日はあんたの血を吸わせて貰うとしようか。
その白い肌の下を流れる、真っ赤な血を、ね」
怖い台詞に驚いて振り向くと、彼女はその綺麗な顔で優しく微笑んでいて、一目で冗談だと分かった。
それから彼女は私の後ろに回り、後ろから腕を回して私の腕を支えた。
私と同じように細い、腕―――――――――……
同じように白い肌。
そんなに変わらないのに……
なのに、
どうしてこんなに暖かくて、力強い――――――――………
木刀を構える。
さっきまで頑張って扱おうと思ってた武器が、なぜか急にしっくりと手に馴染んだ。
まるで自分の一部に、延長になったかのような感覚。
しかもあまり重さを感じない。
構え方一つで、こうも変わるものなのだろうか。
やがて私から離れたその腕に――――――――――…… 抱きしめられた。
後ろから抱きしめられていた。
その抱擁はあまりに柔らかくて、思わず顔が赤くなる。
「せつら、あんたは不思議な子だね――――――……」
「え……?」
それは普段とは違う、とても優しい声。
「あの時は私とあんなに打ち合えたくせに、まるでド素人。
一体あんたのどこにそんな力が眠ってるんだろうね………」
分からない。
分からないけれどあの時は、飛鳥のことを言われて、怒りに我を忘れて――――――……
「そんなに、悲しいの―――――…?」
「え…?」
「分かるよ。
あの時も泣いてたんだろ………そして今まだ……」
「………………」
「せつら、少し、話を聞いて貰ってもいいかい?」
「はい……」
「遺された者には使命がある、と私は思う―――……」
のこされた、もの……?
「遺された者の使命―――――、それは愛した人の意志を継ぐこと―――――――」
「愛した人の意志を…、継ぐ――――?」
「そう。
大切な人を失えば、誰だって悲しいし、生きる気力も希望も見失って、
生きているだけで辛くて、だから死を願ってしまう。
でもね、遺された者は生きなきゃいけない。
そいつの分まで、そいつの意志を継いで」
「でも……」
それは正論だろうけど……、そう簡単に割り切れたら苦労はない。
生きるだけで辛い。
言葉で言えばそれだけのことだけれど、現実にその感情を表現することなど到底できない。
彼を失った私の悲しみは、とても彼女には計り知れないだろう――――……。
「もう一つ私が思うのは――――――、」
「…………?」
「悲しむのは簡単だ……。
だって自分が可哀想なら、それだけで悲しむことができるんだから―――。
でも、本当に本当に愛しい人を悲しむには資格が必要だと、思う――――――……」
「悲しむ、資格……?」
「それはそいつの意志を継げるかどうか、だ―――。
もしそれができないなら、
私たちにはその人の死を悲しむ資格さえ、ない―――――」
違う。
それは違う。
私は。
私は彼といたかっただけ。
彼と共に歩きたかっただけ。
彼とずっと、ずっと一緒に――――――――――……
それは意志とか関係無くて、
それは私の願いで、
幸せで、
だって私は、
私はもう、
彼と二人で一つの存在だったのだから――――――――……
「せつら、そいつの意志を継ごう」
「でも……」
そんなことどうやって
「簡単なことさ。直接本人に訊けばいい」
直接って、だってもう飛鳥は
「せつら、そいつのことを思い出せ。
そいつはまだ、あんたの中にいるだろう?
そいつは沢山のことを、あんたの中に残していってくれたんじゃないのか?
それとも、あんたの中にはもう――――――」
「いる…いるよ―――、飛鳥は―――……」
「そいつは今どんな顔をしている?」
「………………」
「せつら、はっきりと、思い出すんだ。
そいつを、今、心の中にはっきりと、蘇らせろ」
私は目を瞑った。
私の中に彼を思い描く。
愛しい彼の姿を喚び起こす。
「その人は、どんな顔をしている?」
逢いたい。
でも逢いたくない。
だってそれはあまりにも哀しいから。
哀しい邂逅だから。
それでも今は、私は彼女の言葉に耳を傾けようと思った。
だって彼女は 私たち と言ったから――――――……
きっと彼女も誰かと、こうして
だから、
もし、彼女ように強くなれるのなら――――――……
「せつら、その人は、今、どんな顔をしている?」
「笑って……、微笑んでる……」
「今のせつらを見てなんて言う?」
「…………、、、、」
ううううううっっ―――――――――
ううううううううううううっっ―――――――――――――――――
うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ―――……っぅああっ…………っぅああああああああっ………ああっ……………………っ…………
涙が溢れてきた。
とめどなく
どうしようもなく
あとからあとから――――――――――――――――……
木刀を取り落とし、がっくりと膝をつきそうな私を彼女が支えた。
「せつ……ら…………、好き…………だよ……、
が…………んっ…………ばれ…って………
せつら、頑張れって…………」
飛鳥っっっ―――――――――――――………
飛鳥っ―――――……
ひどい……、
ひどいよ……
飛鳥………
貴方は――――――――――
私と一緒にいたいっていってくれないんだね
すぐにこっちにきてくれって、
逢いたいって
言ってくれないんだね
それが、貴方の願いなんだね…………
柔らかな手が、私の頭を撫でていた。
目を開けると涙に滲んだ瞳に、強烈な光が入り込んできた。
空の頂に昇った太陽が、惜しみなくその光を
光が
眩しいほどの、輝きが
道場へ入り込み、照らし出していた。
それはきっとただの蜃気楼。
さっきまで私が強く、強く、思い描いていたから。
涙でいっぱいで、滲んでいるから。
でも確かに、その光の中で彼は―――――――――――――――――――――――
飛鳥――――――――――――――………
分かったよ……、
私、貴方の意志を継ぐよ―――――――――
第69話:継承
終わり