俺は独り――――――土手に寝転んでいた。
輪光から西に歩くこと1時間。
目の前に広がる隣県との境に横たわる大きな川は、その幅こそ広いが深さはなく、流れも緩い。
鴎山から流れてくるその川の名を俺は知らない。
遠くに、隣県へと繋がる大きな鉄橋が架かっているのが見えた。
何百メートルも続く巨大な橋の姿は雄大だが、周囲に人影はなく、川辺には遊ぶ子供の姿も無い。
周辺は開発が遅れていて建物も少なければ人影もない。
だだっ広い、という言葉がぴったりとくる場所だった。
どこからか響いてくるガコンガコンという作業音、時折通る車のエンジン音が、郊外の長閑なBGMを演出していた。
遙か遠くに一人の釣り人が見えるが、こんな浅い川で魚が釣れるのかと不思議に思う。
いい天気だった。
見上げた空は青く澄み渡っていて、その中に一つ、巨大な真っ白な雲とのコントラストを作っていた。
真っ白な、雲………。
そういえば初めて飛鳥と出会った時も真っ白だった……。
本当に、あれくらい、真っ白で――――――
もうすぐ2年が経つ。
彼と出会ってから………。
あの頃は本当に幸せだった。
幸せな、恋する一人の女の子だった。
そのままでいたかった。
ずっと、ずっとそのままで……。
でも戻れない。
あの頃には。
もう二度と……。
荒んだなぁ――――……
そう、思わざるを得ない。
飛鳥を亡してからというもの、俺の運命は転落の一途を辿った。
崖から転げ落ちる石のように止まる術を知らず。
彼を喪った空白を埋めるのに必死で―――……
水辺が近いからか、どこか清涼な風が頬を撫でる。
心地良い、が、肌寒さは拭えない。
もう夏はとっくに終わってしまっていた。
太陽の光が恋しい。
俺は小さく自分の体を抱いた。
(飛鳥っ――――――……)
遠くから土手の上を誰かが歩いてくるのが分かった。
視認したわけでも足音が聞こえたわけでも無い。
視線を感じたのだ。
自分の身体を抱いて寝転ぶ姿に僅かばかりの羞恥心を覚えたが、今はもう身体を動かすのさえ億劫で―――、だから俺はそのままの格好で寝っ転がっていた。
しかしその人物は確かに真っ直ぐに俺を見ていた。
そのまま土手の上を通り過ぎるのかと思ったが、その人物は俺の方へ向かって降りてきた。
明確に、真っ直ぐに、俺の方へ。
俺は目を瞑ったまま気配を探る。
知らない気配。
女、か―――?
そいつは俺の寝転ぶすぐ左隣に腰を下ろした。
土手は広いし周辺に人影はない。
あからさまな行動だけれど、認めざるを得ない。
明らかにその人物の目的は、俺……。
はぁ。
俺は内心溜息を吐いた。
今はそっとしておいて欲しかった。
俺はただ独りで寝ていたいだけなのに――――――……。
俺は女の存在に気付きながらも、寝たふりを決め込んでいた。
しかしいきなりナイフで刺されるなんてこともあり得るので、女の動きに神経を張り巡らす。
今のところ敵意らしいものは感じないが、あの連中の仲間ということも十分に考えられる。
5分ほど経過しても女は一向に口開かなかった。
ただじっと、俺の隣に座り続けている。
まるで寄り添うかのように。
長年の連れのように。
しかし、いくら考えても女の気配に覚えはない。
俺に用があるんじゃないのか……?
なんで話しかけてこない?
もしかして俺が寝ていると思っているのだろうか?
「なにか用かよ?」
神経を張り詰めさせるのにも疲れ、俺は仕方なく尋ねた。
不機嫌さも隠さず、寝転んだまま、目を瞑ったまま。
「せつらさん―――――、だよね?」
声は様々な情報を伝えてくる。
その人の体格や性格、年齢、性別、そしてその時の気分まで。
それは綺麗で、静かで、控えめで、それでいて芯のしっかりとした声。
「だったらなんだってんだ?」
俺は相手をするのも面倒で、わざと女とは逆方向へ寝返りを打って距離をとった。
ずる、ずる。
女が少しずつ移動し近づいてくる。
女は俺の問いに答えていない。
そしてすぐ隣まで。
何かする気か。
女が俺に覆い被さろうと、いや顔を覗き込もうとしている―――のか……?
俺はそいつに間近まで近づかれ、何かされそうな直前、顔をあげた。
超至近距離でそいつと目があう。
綺麗な顔立ちをした、可愛らしい―――、女。
知らない顔。
いや、どこかで見た気がする。
が、思い出せない。
どこだ?
どこで会った……?
俺と目が合っても、こんな至近距離に顔を近づけているというのに、女は避けようとも、離れようともしなかった。
吐息の掛かりそうな距離でじっとしている。
その目は俺を真っ直ぐに見詰めている。
こちらから目を逸らすのは癪だったので、俺はそいつの視線を受け止め続けた。
ガンつけている―――――わけではない。
(なんなんだ、この女―――………?)
殺気も悪意も感じない。
視線にも敵意はまるで感じられなかった。
それは澄んだ、綺麗な、瞳。
純粋さを詰め込んだような、透き通る宝石のような―――――………
女の行動が理解できなかった。
これじゃあまるで、俺を見ていたいから、ただ見ているだけのような――――――
なんで動かねぇ!?
喧嘩ならいつでも買ってやるぞ―――――――――!?
「ねぇ、キスしてもいい?」
「何言っ――――んんっっ!?」
直後、俺は何が起きたのか分からなかった。
問われた次の瞬間には、その女はもうその唇を俺に押しつけていた。
俺はすぐに後ろに飛び退き、慌てて唇を拭う。
「おまっ―――――何しやがるッ!!!」
(この女、舌まで入れようとしやがった――――――!!?
レズ――――――――?レズってやつなのか?
それとも俺に薬でも飲ませようとしたのか?)
俺は急いで口内に異物感がないか必死に確かめる、が特にない。
(いい匂いだったな―――)
とふと頭の隅で思い―――――、もしかしたら臭いで攻撃してきているのかも、と呼吸を止める。
いやいや、そんな、ファンタジーじゃあるまいし……。
でも警戒はしておくべきだ。
俺は全ての攻撃に対して過敏になっていた。
あんな屈辱は二度とごめんだ。
俺は女を見て、
ぎょっとした。
泣いていた。
その目から大量の、大粒の涙を溢れさせ――――――…
「な―――――!?」
次の瞬間、女は両手を広げ俺にタックルをかましてきた。
俺は抱きつかれる形でそのまま後ろへと押し倒される。
ぎゅうぅぅ―――。。。。
圧迫感。
体を締め付けられる。
引き離そうとするが、直前の彼女の表情が俺に攻撃を躊躇わせた。
泣いていた。
でもその表情には怒りも、敵意もなく――――――――
その表情に、浮かんでいたのはまるで、
攻撃されている……訳ではない。
別に痛い訳じゃない。
きつく、抱きしめられているだけだ……。
「せつらさんっ、せつらさんっ、せつらさんっ―――――――!!」
その女は堰を切ったように俺の名を呼び始めた。
俺の胸に顔を埋め、泣きながら、俺の名を叫ぶ。
(な、なんなんだよっ!? こいつはっ―――――!?)
「逢いたかった、逢いたかったよ、せつらさんっっ―――――――――――」
俺は思わずあたりを見渡していた。
幸い誰もいない。
遠くの釣り人がこちらを見ているような気もするが、確かではない。
突然現れ、人の胸で勝手に泣きじゃくる女。
何度か引きはがそうと試みたものの、女はがっしりとしがみついていて梃子でも動かなかった。
あの<力>を使えば引きはがすのは簡単だが―――……
不思議とそんな気にはなれなかった。
俺はなぜか、その女の匂いに――――どうしようもなく惹かれていた。
胸が締め付けられる。
理由の分からない感情が溢れてきて、嗚咽しそうなほど苦しくて……。
女のことも、自分自身の反応も、全く状況が理解できずに、
だから俺はただ、
その女が泣き止むのを、黙って待ち続けるしかなかった。
どれくらいそうしていただろう。
女は俺の名を呼び続け、俺の胸に顔を埋めては泣き、俺の顔を見るとキスをしようとし、
しかし俺はなぜかこの痴女を強引に振り解く気になれず………
15分近くも―――泣いていたんじゃないだろうか。
やっと落ち着き、鼻をくずぐずやっている女に、俺はようやく尋ねることができた。
つうか俺の服までびっしょりに濡らしやがって………。
「だから、おまえ……誰なんだよ?」
「本当に、覚えてないんだね………」
その悲しそうな声と表情に、ずきり、と胸が痛む。
その女は泣きはらした顔を上げて言った。
「私は、御巫みこと――――――――――――」
それはあの征関惨殺事件の直後に姿を消した―――、女の名だった。