2012年4月――――――
風に桜の花びらが舞う穏やかな日に彼女は戻ってきた。
その肩には一つの竹刀包みを背負っている。
空見刹那―――彼女が半年前、絶望を背負い死相を浮かべてこの地を去った少女と同一人物とは、とても思えなかった。
その少女を一人の少年が出迎えていた。
「おかえり。せつら、
なんか、ちょっと見ないうちに随分大人びたな―――」
「薫も、なんだか、雰囲気変わったね―――」
「まあ、日々戦場に身を置いていれば、ね。
あ、荷物持とうか?」
と言っても彼女の持ち物は竹刀袋一つだけ、である。
「ううん、平気、この子は全然重たくないから―――」
「そうか」
「それよりも、彼の居場―――」
「まあ、せつらは今すぐにでも殴り込みに行きたいところだろうけど、
残念ながら彼の居場所は分からないぜ?
だからまずは俺の拠点へ案内するよ―――」
「ちょっと待って、彼はもう、この街にいないの―――?」
「彼は―――……、、
今はもう彼の居場所を知るのは不可能だ、と思っていい。
それは決して誇張なんかじゃなく―――」
「え?」
「それだけ手の届かない遠い存在になっちまったってことだよ。
ま、遠いといっても、深い深い、地の底だけどね―――」
「じゃあ―――……、
私は彼を捜すところから始めないといけないの……?」
そんな、やっと、やっと戻ってきたのに―――。
「そんなことは無いさ。
こちらから見つけるのは無理でも、こちらを見つけて貰うことはできる」
「えっ?」
「彼をもう一度この輪光におびき出す。
こっちから会いに行けないのなら、あっちからきて貰えばいい。
ま、だから、その打ち合わせも兼ねて、一度俺のアジトへお連れするよ―――。
お姫様」
薫ってば―――、ちょっと見ないうちにほんとに大人びたなぁ……。
なんか、凄っい自信がついたって言うか―――……、
同い年っていうより年上にさえ思えるよ…。
私たちは駅前に彼が待たせていた車に乗り、ほんの少し離れた場所に新しく建てられたホテルへと入った。
ってか、こんな近いなら歩けよっ―――!!!
と、私は思った。
床にはふかふかの絨毯が敷き詰められ、足音すら立たない。
壁や階段は大理石―――四方を囲む磨かれたガラスには曇りも無く、綺麗に光を反射させている。ロビーには大きな男のオブジェがあり、廊下には様々な動物の彫刻が置かれていた。
ホテルジョナス―――輪光再建の折、電光石火で建築された豪華絢爛な一流ホテル。
その経済市場には見合わないほど贅を尽くされた建造物はあからさまな要人奉迎用で、一般市民には全く縁がない。
「え?ここがアジト―――?」
「そそ、今、俺はここで寝泊まりしてる」
「え? なんでこんな高そうなところに―――!?」
「ま、それだけ金を稼いでるってこと」
「えええっ―――……、もしかして宝くじでも当たったの―――?」
「まさか」
私は案内されるままついて行くしかない。
エレベーター。
その密閉された四角い箱の中に踏み込むのを私は一瞬躊躇した。
以前は、当たり前の乗り物だったけれど、なんだかすごい、違和感を感じる……。
そこは私が半年間生活していた場所とは、完全に別世界だった―――……。
「おい、せつら大丈夫か?」
「あ、うん、なんかちょっと面喰らっちゃって―――……」
「はは、歌織さんところは狭いもんなー、、輪光もすっかり都会になっちゃったし、田舎からでてくるとそういうギャップに驚くのかもしれないな」
「う、うん―――……」
というよりここはあまりに人工的すぎる―――……。
エレベーターで上がる度に、大地が離れていくのを感じる。
息苦しさと、不安に、軽い目眩まで覚えた。
彼の生活している部屋―――、そこには数台のディスプレイとPC、ファンの音が低く唸っていた。画面にはよく分からない数字がずらりと並んでいる。
まるで、ちょっとした情報センターのようだ。
「ねぇ、これって、なにしてるの―――?」
「株だよ。
この半年、朝から晩までPCにかじりついた結果がこれだよ。
俺がせつらのサポートをするっていったら金銭面くらいしかないからな―――。
まあ、まだ一億ちょいしか稼いでないけど―――」
「えええええっ―――!?
い、一億―――!?」
「この部屋だって、このホテルで一番安いとこだぜ。
まあ別に贅沢したいわけじゃないし―――、
って、せつら!?
お、おい、大丈夫かよ!?」
億―――……、、、またしても別世界。
「少し休むか?」
「うん―――、、」
色々と目眩続きの状況に私はどさっとベッドに倒れ込んだ。
うわぁ、、、ふかふか―――、っていうか、ふかふか、すぎる―――……。
ここはなにもかもが違う世界だった。
私は目を瞑り、深呼吸を繰り返す―――……。
すり、すり―――、
私の足に誰かが触れた。
っていうか、ここには私と薫しかいない。
彼がベッドの上にあがってくる。
上から抱き締められ、頬にキスされた。
「やめて」
「首だけ」
そう言って彼は私の首にキスを続けた。
それから舌を這わせる。
「ううっ―――…………、やめて、薫」
「嫌ならはね除ければいい―――」
はね除ける。
そんなことは簡単だった。
そして私にその力があることを彼は知っている。
彼は何度も、私の修行を見に来ていたから―――……。
どれくらい経ったのか分からない―――、私の首回りは彼の唾液でべとべとにされ、首の後ろの布団までぐっしょりと濡れていた。
彼は漸く満足したのか、もう一度私の頬にキスをして離れた。
「せつら、何か飲む?」
「―――、水を。
あ、綺麗なやつ……」
「了解、ちゃんとミネラルウォーターを用意するよ、お姫様」
水は生水に限る。
血液を汚さず、私の体を清浄に保ってくれる。
彼が持ってきてくれた水で喉を潤し、私は何度か布団の上で寝返りを打った。
こんな布団なら服を脱いでできれば裸でくるまりたい―――ところだけれど、流石にできない。
「あ、ねぇ、シャワー借りていいかな?
誰かさんのせいで首が臭うんだよね―――………」
「どうぞどうぞ」
素っ気ない返事に私が上体を起こすと、彼はPCと睨めっこをしていた。
既に私に向いていた関心は画面の中に移っているようだった。
相当大きなお金を動かしているようだから―――、大変、なんだろうけど…………。
私は後ろから画面を覗き込んだけど、頭が痛くなりそうだったからすぐにシャワールームへと向かった。そこにはまたしても別世界が広がっていた。
もしこれがシャワールームだというのなら―――、普段の場所は一体なんと言えばいいのだ。
まさに贅を尽くした―――生活。
でも不思議と嬉しくはなかった。
以前の私ならきっと喜んだに違いないんだろうけど―――、
今は歌織さんの庵が恋しくすらあった……。
けど帰るわけにはいかない、彼を取り戻すまでは―――。
薫に言われてネットショップでいくつか服を購入し―――、
彼の前で下着を選ぶのは恥ずかしかったけれど、なんだかもう今更な気もした。
それから私たちはレストランへ降りて食事を摂った。
「せつら肉食えるよな?」
「うん」
煌びやかに飾り付けられた食堂は、とても静かな雰囲気に満ちていた。
既に日は落ちてしまったため無数の蛍光灯が部屋を照らしている。
自然光ならまだしも、私はもうここにきてから何度目か分からない目眩を感じた。
ほんとに、私は一体どこに来たのか分からなくなってしまって、
また気後れしてしまいそうな―――、
でも薫は堂々と席について……。
特に希望はなかったから注文は彼に任せた。
それよりも私は一刻も早く、彼の計画を聞きたかった。
まだ夕食の時間には早いのか私たちの他に客はほとんどいない。
「それで、どうすれば彼に逢えるの?」
「その筋に情報を流すのさ。
ま、言ってみれば、空見飛鳥宛の果たし状を出すようなもんだな」
「果たし状って、、、」
「勿論、ただの匿名では済まされないような、凄まじいやつを、ね。
こう言っちゃなんだけど―――彼はもう完全に闇の住人だ―――、
そんなことをすれば当然、発信主―――つまり君が狙われる」
「それで……?」
「こちらはわざと足跡を残すから、せつらはやってきた連中を返り討ちにすればいい。
そいつらから彼への糸口を探すんだ。
せつらの為に別のアパートを用意した。
俺がせつらの足手纏いにならないように、な。
とっても危険だけど―――でも彼はもう、本当に危険な人物になってしまったんだ。
それに今のせつらはそれくらい平気なんだろ―――?」
「うん、ありがと、それでお願い」
「あとで銀行のカード渡すから、
必要なものがあれば好きなだけおろして買ってくれ」
「ありがと、薫―――、あの、、、、でも―――……、、、、」
「ん?」
「その、、、そんなにして貰っても、私お返し、、、というか、、
薫には見返りが、ないっていうか、、、、、、」
「じゃあ一発犯らせ―――というのは冗談で、見返り、ね―――、、、
まあ全く見返りが欲しくないと言えば嘘になるけど、
俺は見返りが欲しくてやってるわけじゃねーし、気にすんなよ。
むしろ俺はやりたくてやってんだ。
気にされる方が困る」
「でも…………」
「じゃあまた首舐めさせろ」
「え、それでいいの?」
「え、その先もいいの?」
「え、それは、だめ、だけど―――」
「じゃあ首で」
「うー……、、、」
「やったぜ、俺はいつでもせつらの首を舐める権利を手に入れたぞ―――!!」
「薫、なんか楽しそうだね……」
「そりゃさ、今までの俺とは違うもん。
なんたって毎日が充実してるし、まだまだ稼がないとだし、
なにしろ、生きる目標があるからな―――」
「生きる目標……?」
「そう。
この半年、俺はなんとかお前の力にならなきゃって必死だった。
それが今やっと役立とうとしてる。
それに比べたら、今までの俺はまるきり死んでたみたいなもんさ―――、
これからなんだよ、俺は―――」
「そっか、、、うん、ほんとにありがと」
「まあ、彼に振られたら俺はいつでも待ってるから―――って、
やめなさい、剣に手伸ばすのを。
つうかそんなの、食堂にまで持ってくるなよ……」
「ごめん……、でも、これがないと安心できなくて……」
「ま、いいけどさ。
早速今晩から始めるぞ?
自分の身はしっかり護ってくれよ」
「うん。でも薫、私の実力って、知ってるの?
あ、時々見にきてたのは知ってるけど―――」
「歌織さんからは並の男じゃ100人がかりでも倒せないって聞いてるけど?」
「え?歌織さんと話してるの?」
「何ヶ月も前から、な。
せつらの携帯から番号抜いたって、あっちからかかってきたよ」
「そ、そうだったんだ……」
話の合間に2品のオードブルを食べ終え、やがてメインディッシュが運ばれてくる。
「どうぞ」
「うん―――、って何これ!? 柔らかっ―――!!!
ええええっ!?ええええっ!?」
「ちょ―――、せつら泣くなよ」
「えええ、何これ、お”ぃ”ち”ぃ”;;;;;
お肉なのに、こんな分厚いお肉なのに、噛まなくて良いの?;;;;」
「おいおい、、普段いったい何喰ってんだよ―――……、、、」
「なによぅ; 薫こそ普段からなんてもの食べてるのよぅ;;」
「いやいや―――、俺だって普段からこんなものは喰ってねーよw
せつらと一緒だから頼んだんだよ。
でもまあでも驚くに値するな、シャトーブリアン―――フィレ肉の中で最高級の部位だし。
うん、マジうっめぇ」
「ううっ、おいしぃぃ、、、、;;;」
「でも、そんなに喜んでくれたなら嬉しいよ。
それにこれはいつもメニューにあるわけじゃねーし、ラッキーだった。
うんよかった。喜んで貰えて」
「そ、そうなんだ―――……、、ううっ、おしいよぅ、
決めた!これ私の大好物の一つにする!
これ歌織さんにも食べさせてあげたいなぁ―――、
ね、これ幾らするの?配送とかできるかな?」
「ん―――、100g1万超えるけど―――」
「そういえば歌織さん輪光にはこれないんだったぁ―――!」
21時30分――――――、
ホテルから車で15分ほど移動した場所に、そのアパートはあった。
旧輪光時代の遺産―――と言いたくなるようなぼろい安アパート。
「はい、これ203号室の鍵。
住人はせつらだけだから全部屋好きに使っていい。
ま、家具が用意してあるのは203号室だけだけど」
「え、まさか、薫、このアパート買ったの?」
「あ、いや、そんな高くはなかったぞ。
それにこの辺の土地はこれから上がるし、保険もかけたし、
建て直しなら補助金もでるし―――、
もし何かあったらそれはそれで助かるっていうか〜〜、あはは(笑)
ま、このくらい不用心の方が敵さんも攻めて気易そうかなってね」
「なんか……、もう……、いたれりつくせりすぎて、ほんとに、、、、言葉がないよ……」
「じゃあ、キスでもしてくれ」
「それは、無理、だけど―――、ちょ、んんっ―――……、、、」
抱き寄せられた。
そして―――、首に這う舌。
ううっ、気持ち悪いような、気持ちいいような―――……。
拒絶するのも、突き飛ばすのも簡単だけど……、
でも彼にはほんとに感謝していて―――、、、
どんなに感謝しても感謝しきれないくらいで……、、、
だから、彼がしたいというなら、これくらいなら、、、
なげぇ……。
「て、なに、薫って首フェチなの……?」
「そういうわけじゃないけど―――。
へへへっ!」
「え、なに、気持ち悪い」
「ん〜〜(笑) せつらの首っていうか、汗?が美味しくて」
「えええっ―――!?きもっ!!」
「キモは酷いな。
別に俺はえっちな汁を舐めさせてくれても一向に構わないんだぜ?」
「…………」
「なぁ―――……」
「うん?」
「聞くだけ無駄だとは思うんだけどさ―――。
本当に戦うんだよな……?
彼は酷い人間になっちまった……、
せつらのことも忘れちまった……、、
それでも、
本当に戦うんだよな―――?
俺が―――、お前のこと、一生養っても―――」
私は静かに首を振った。
「ま、ちゃんと理解ってたからよ。
じゃあ頑張れよっ―――!!
せつらに何かあったら俺、一生後悔する羽目になるからなっ―――!」
「うん、ありがと―――――――――!!!」
私はハンカチで首を拭きつつ―――、
闇の中へと消えた彼の後ろ姿に、心から、心の底からの感謝を捧げた。
期せずして――――――
伊本薫のお陰で、私の準備は万全に整った。