記念館での戦いから2日後―――……
伊本薫と空見歌織は共にホテルジョナスのレストランフロアのテラスで昼食をとっていた。
春のそよ風が優しく頬を撫で、暖かな午後の日射しが世界を祝福するかのように降り注いでいる。
仕事で忙しい生活、よく働きよく稼ぎ、美味しいランチを食べ、午後の一時をこうやって過ごすのはとても幸せなことだ、と彼は思った。
あとは目の前に座っている女性がせつらだったのなら、もう言うことなしなのだが―――。
既に何度も携帯電話で会話しているとはいえ、本人を目の前にすると緊張せざるをえない。
彼の顔立ちも大分大人びたものの、彼女の前ではやはり未成熟、と言う印象を受ける。
しかも今の歌織は深窓の令嬢もかくやという雰囲気を纏っていた。
ホテルの客達がたびたび彼女に視線を止め、その容姿や所作に見惚れていることに、彼は複雑な思いを抱いた。
ちょっとした詐欺でも見ているようだった。
彼らは知らないから、何も知らないから安易に見惚れることができるのだ。
彼女の性格を知れば令嬢などという雰囲気は見せかけだと分かるだろう。
それに彼女の本当の姿は神楽流という実戦剣術の達人で、神手黎羅という族の頭でもある。
「お墓参りは行かれたんですよね―――、歌織さん」
「ええ」
「どうでしたか……?」
「どうもこうもないわ……、ただ哀しいだけ……。
どうして私は生きているのかしらね―――……」
「…………」
「薫ちゃんは―――……、生命力、って、分かる……?」
「気力―――、みたいなもんですか?」
「そうね、でも私が言っているのはもっと直接的なもので―――……。
私にはね、命が見えてしまうのよ……。
この私の体に流れている命の流れも、ね―――……。
そして私はこれを限界まで希薄にすることができる……。
多分、その先に死、があるんでしょうけど―――……、
でも『無』と『限り無く無に近い』の間には―――この世でもっとも遠い道が横たわっているのよね……」
「命が見えるって、じゃあ例えば死者の霊を見たりなんかもできるんですか……?
俺の命なんかも、寿命が分かったりするんですか?」
「見えない見えない。
そんなインチキ占い師みたいなこと言わないよ。
ただね、
私はずっとこの地に戻ってこれなくて―――……、、
いざ彼の墓の前に立ったらね、
そこにはなにもなかったの、、
ほんとにもう、笑っちゃうくらい、なにもなかったわ」
「すみません、俺なんて言ったらいいのか……」
「ふふっ、ごめんね、私、変なこと言ってるよね」
「いえ、俺の方こそ、下手に話題に出してしまって……、、、すみません……」
「いいのよ。
誰かと話した方が、楽になるってこともあるんだから―――……」
「なら、いいんですけど―――……」
「こういう言葉、知ってる?
並行世界、パラレルワールド―――この世界とは違う、もう一つの世界。
もう一つの、お話。
そこではね、この世界とは違う別の人生を歩んでるもう一人の私がいて、
そしてそこには生きている彼がいて、普通に暮らしているの―――。
この世界ではちょっと残念なことになっちゃったけど―――、その世界では幸せな私がいる。
そんな世界があったとしても今の私には関係が無いし、それこそ私とは違う人間の話……。
でも、そんな夢想だけが、私の唯一の慰め―――……
って、やっぱ私って痛い女ね……。
ねぇ、薫ちゃんはそういうこと、考えたり、しない?」
「まあ、せつらと付き合ったりするのはよく妄想しますけど……」
「もぅー、それは男の子の妄想でしょー!
一途な乙女の夢と一緒にしないでよぅ!」
「あっ、いやっ、、、、そのっ、、、」
薫は顔を赤くした。
正面から否定できなかったからだ。
反撃に、「歌織さんは一途すぎなんですよ」と言おうとして、彼は口を噤んだ。
歌織は空を眺めていた。
広く、青く、澄み渡った空を―――。
愛しい人の死、というものがどれほどの影響を与えるのか、彼にはまだ分からなかった。
本当の意味でせつらを失えばあるいはそれが理解できるのかも知れないが、そんなことであれば理解したくもなかった。
彼はまた、何かを言おうとして、やはり言わず―――、、、
何度かそれを繰り返した彼は、やがて彼女と同じように空を眺めた。
空―――……、、、そこにはなにもなかった、
驚く程になにもなかった。
ただ青が、どこまでも青が広がっていて―――、
空は、その文字の通りに、本当に空っぽで―――……
自分の存在が、命までもが吸い込まれそうな錯覚を覚えて―――……
もしかしたら今歌織さんは、この空っぽの空に心を委ねているのかも知れない、
この大きな空なら、何もかもがきっと、
どんな大きな哀しみでさえも、ちっぽけに思えるから―――、
ふとそう思った。
歌織さんは、もしこの世に“絶対”というものがあるとしたらそれは死だけだと言っていたけれど―――、、
俺とせつらが生きている限り、俺が彼女と結ばれる可能性がない―――とは確かに言えないはずだけれど―――、
でもそんな未来は絶対にない気がして―――……、、
歌織さんは並行世界を慰めにしていると言うが―――……、
俺とせつらが結ばれる、そんな夢のような世界、本当にあるのだろうか―――……、、、
もしあるのだとしたら、俺は―――……
彼は無意識のうちにきつく、きつく拳を握りしめた。
奥歯を噛みしめ、怒りにその体を震わせる。
並行世界――――――そんなもの有り得ない―――……、
そんなものの存在を、俺は、断じて認めるわけにはいかない。
2日前―――彼女は遂に空見飛鳥と接触した。
しかし結果は―――両腕を折られての帰還―――……。
折ったのは、空見飛鳥本人――――――
それは彼に兇悪な殺意を喚び起こす。
絶対に堪えなくてはいけない殺意を――――――……。
並行世界、そんなものは唾棄すべき下らない妄想だ。
もしそんなものの存在を認めれば、俺はこの世界で生きる意味を失ってしまう。
もしそんなものの存在を認めれば、この世界に価値を見いだすことができなくなってしまう―――
せつらの悲しみも、涙さえも―――、
何もかもが―――
俺は―――
俺はこの世界でせつらを笑わせなきゃ意味が無い―――――――――
「もぅ、薫ちゃんてば、また怒ってるの?」
「あっ―――」
空を眺めていたはずがいつの間にか俯き、憎悪に顔を歪ませていた彼は驚いて顔を上げた。
向けられた笑顔が、普段の彼女に戻っていて彼はほっと胸を撫で下ろす。
「そりゃ、怒りますよ。
せつらを傷つけられたんですから―――」
「大丈夫だって、今のせつらちゃんならあんな傷、
地面に寝っ転がって日向ぼっこでもしてれば、あっ〜〜〜という間に治っちゃうんだから―――。
それよりも大変なのはいつきちゃんの方」
2日前―――、記念館からでてきた彼女たちを回収した彼は、すぐさま病院へと向かったのだが、歌織さんが入院させたのは七種いつき一人だけで、せつらの方は応急処置だけでそのままアパートへと連れ帰ってしまったのだ。
歌織さん曰く、こんな怪我すぐ治る、と。
そして重体だといういつきさんの方は―――、かなりの薬物を投与されている挙げ句、マインドコントロールまでされて、まっとうな精神状態ではないらしい。
治療にはかなりの期間を必要とするようだった。
(にしても、骨折がすぐ治るというのもどうかと思うけど―――……)
「俺が心配してるのは、せつらの精神状態の方ですよ……」
「そんなに心配ならアパートに行ってあげればいいじゃない。
もしくはこっちに呼ぶとか〜〜?」
「今の状況じゃ無理です。
まだ俺が彼女のバックアップだって知られるわけにはいかないんで―――」
「保身とかかっこ悪いよ」
「意地悪言わないでください」
歌織さんも理解ってるくせに、可愛い顔してなかなかに意地が悪い。
神手黎羅の特服やハイヤー、宿泊場所の手配と散々こき使っておいて、この言い様。
せつらの願いを叶えて最高級の肉を御馳走したが、身分相応とでも言わんばかりにけろりと平らげてしまった。
勿論、俺が正面に立ってせつらを守れたらこの上なく最高だが、現実にそんな力は無く―――、
もし俺に何かあれば、唯一役に立てる金銭的なバックアップすらできなくなってしまう。
だから俺はこの立ち位置を死守しなくてはならない。
他ならぬせつらのために。
それが俺の戦い―――。
俺の望みは、せつらの目的を完遂させること―――なのだから。
「なんならさ、私がずっと護ってあげても良いよ―――?」
歌織さんの悪戯心いっぱいの笑顔で言われ、俺は内心頭を抱えた。
「せつら以外にそんなことを言われても嬉しくないんです」
「薫ちゃんてほんと一途だよねぇ……、、
あ、せつらちゃんのストーカーだもんね―――、あはっ」
思わずむっとして、歌織さんほどじゃないです、と言い返そうとして俺は再び口を噤む。
それが彼女の心を傷つけてしまうことが理解ってしまうからだ。
目の前の女は、人一番強くて、人一倍傷つきやすいのだ。
ああ、俺ってなんて大人なんだろう―――……
そう思い、溜息がでた。
そして、なんてチキン―――……
やっぱり、溜息しかでない。
第75話:並行世界
終わり