「こんにちは。また寄らせてもらうよ」
 昼少し前に、梅月はほぼ日課と化している弥勒参りに現れた。
 もう慣れたもので、声をかけると同時に戸を開けて、小屋に足を踏み入れる。
 返事は待たない。
 と。
「また来たのか」
 梅月は驚いた。
 普通なら何と言う言い草かと腹を立てるような言葉より、返事が返ってきたことそれ自体に驚いていた。
「どうしたんだい、弥勒、君が気が付くなんて珍しい・・・」
 梅月は慌てて工房の弥勒を見やった。
 そして、返事があった訳を知る。
 弥勒は足で固定した簪に小刀で細工を施していた。
 面ではないから、夜も日も分からぬほどに没頭はしていなかったようだ。
「ああ、今日は簪細工なんだね」
 梅月は、弥勒の手元を覗き込んだ。
「思う通りに打てんのでな・・・」
 弥勒が言っているのは簪のことではなく、部屋の片隅に積まれた出来損ないの山、梅月の写し面のことだろう。
 それ以外は何の問題もなく仕上がるのに、写し面だけが失敗の連続――とは言っても弥勒が納得しないだけで、梅月自身はどれも嫌になるほど自分に似ていると思うのだが――で、最近弥勒の機嫌はあまりよくない。
 さしもの頑固者も、たまには気分転換をしたくなるものらしい。
 もっとも、簪や飾り櫛などの方が、弥勒にとって大きな収入源ではあるのだが。
 面の方は、納得のいく出来でなければ表に出さないだけでなく、弥勒自身が認めた客でなければ売らないので、市に出ても一つも売れないことなど日常茶飯事なのだ。
 それに比べて簪や櫛などは、半ば手慰みに作っているようなものなので、別にどういった客が買おうと気にならないらしい。
 その辺りは弥勒もしっかりしたもので、簪や櫛は吉原の楼に出向くか、吉原の近くに店を出すことが多い。
 吉原の遊女は勿論、更に吉原を目指す客相手に売りさばくのだ。
 確かに弥勒は愛想のない男で、こんな男が商売をしていること自体が七不思議と言われる程だが、なかなかどうして上手くやっているものだ。
 もっとも、もう少し愛想がよければもっと売上げを伸ばすことも可能なのだろうが、自分が生きていく以上の金銭には興味がない――それすら本当にあるのか疑問である――弥勒は売り子を雇うこともしないので、骨董屋などは自分ならもっと上手に高く売りさばくのにと、溜め息を吐くのだった。
 それはさて置き。
「おや、大分出来上がっているのだねえ」
 梅月は弥勒の周りに散らばっている完成品をいくつか手に取ってみた。
「うん、この藤を彫り込んだ柘植櫛は素晴らしいね」
 思わず品定めをしてしまった梅月の背を、ボソボソとした声が叩く。
 手慰みとは言え、作り始めたら会話よりも作品の方が優先なのは、簪細工でも変わらない。
「気に入ったものがあれば、持って行け」
「あ、いや。いくら僕でも女物の櫛は使わないよ」
 苦笑する梅月に、
「誰が君に使えと言った」
 言下に言い放った。
 ふうと息をつき、弥勒が背を伸ばす。
 どうやら簪の細工が終わったらしい。
 小刀をしまい、足から簪を引き抜くと、それも梅月の前に置く。
「馴染みの遊女にでもくれてやればよかろう」
 そう言い捨てて、弥勒は髪を覆っていた布を外しながら台所へ向かう。
 はっとして顔を上げる梅月には目もくれず。
 かまどに火をくべる音が聞こえてきた。
「覚えているのか?」
 返事はなかった。










 「僕は君と、一度だけ顔を合わせたことがあるのだよ」
 梅月は、茶道具を持って戻ってきた弥勒を見上げて言った。
「覚えていないかい?」
「分からん」
 梅月の問いに弥勒は言下に答えて、茶道具を引っ張り出したちゃぶ台の上に置いた。
「そんな情のない答え方をするものではないよ」
 梅月は先ほど出来上がったばかりの簪を弄びながら、呆れたような怒ったような微妙な笑みを口元に浮かべる。
「まあ、覚えていなくても仕方がないとは思うけれどね。君にとっては客の一人でしかなかったのだから」
 その言葉に、弥勒の眉が上がるのが見える。
「客なら忘れるはずがない」
 弥勒の気に障ったようだ。
 いつもはガラス玉のような目が明らかな意思を持って梅月を睨んでいる。
 梅月は首を横に振った。
「いや、面ではないよ、買ったのは。どれぐらい前のことかな、簪を一本買い求めたのだよ、吉原に行く途中でね」
 途端、弥勒の双眸がただのガラス玉に戻った。
「ならば覚えておらんな」
 そう言って、お茶を煎れ始める。
 その様子に、梅月は短く喉の奥で笑った。
 こと面のことになると突然頭に血が昇る。
 だが、自分にとってどうでもよいことだと分かると、これまた突然興味を失うのだ。
 目の前の梅月にも興味を失ったように見える弥勒へ聞こえないように、梅月は袖を口元に当てて呟いた。
「憎たらしいことだね」
 それが聞こえていたとしても、弥勒が歯牙にもかけないだろうことが、更に腹立たしい。
 だが、
「僕ももう一度出会うことがあるとは思っていなかったよ」
 表面上は穏やかに微笑んでみせる。










 たった一度のことだ。
 世は動乱の時期にさしかかっていたが、それでも吉原で隻腕の男など珍しいから、かなり人の目を集めていた。
 しかしその若い男は委細構わぬそぶりで、細工物の簪や櫛を売っていた。
 売っていた物は皆なかなかの出来ではあった。
 さすがに太夫などには渡せはしないが、並の遊女なら皆喜ぶだろう。
 しかしそれ以上に、梅月は片輪の男など初めて見たから冷やかしに尋ねてみると、ボソボソとした口調で売り物は全て自分で細工したものだと答えた。
 思わず、笑ってしまった。
 恐らく職人は別にいて、耳目を集めるために、売り子に雇われた片輪者なのだろう、と、梅月は思った。
 売り子にしては、愛想がなさ過ぎたが、これまで好奇と蔑みの視線だけに晒されてきたのならば致し方あるまい。
 隻腕なのはもちろんだが、何より男は若すぎて、両腕が揃っていたとしてもこんな細工物が作れるとは思えなかった。
 そんな見え透いた嘘を強弁する様に憐れを催して、施しの気分で確か一本の簪を買い求めた。
 見れば見るほど細かい細工で、尚のこと、あの片輪者に細工できようはずもないと笑ったような記憶がある。
 その簪は、その夜を共に過ごした遊女にくれてしまったのだろう。
 その後梅月にその簪を見た記憶はない。










 「その時買い求めた簪はあげてしまったがね」
 今となってみれば少し惜しい気がするね、と、梅月は出されたお茶を一口飲んで言った。
「当たり前だろう」
 そのためにあそこで簪を売っているのだと、弥勒は答える。
 そして、
「なら、役に立つだろう。残りはまた吉原で売る」
 と、出来上がった簪や櫛を入れた小箱を、梅月の方に押しやった。
「何故、僕に? 売り物なんだろう?」
「世話になっているからな」
 弥勒はあっさりと言った。
「世話?」
 思わず首を傾げた梅月に、弥勒はちゃぶ台の上の包みの方へ顎をしゃくった。
「いつもごちそうになっている」
「あ、ああ」
 梅月はようやく合点がいったとばかりにうなずく。
 梅月にして見れば下心あっての行動だから、世話をしていると言うつもりはなくて、言われなければそんな風には思わなかった。
「そんな、気にするほどのことでもないのだけれど」
 梅月は包みの紐を解きながら言った。
「今日はいただき物だしね。僕は僕で思うところもある訳だし・・・」
 と、言ってしまってからはっと気づく。ついつい余計な口を滑らせてしまった。
 しかし弥勒は梅月の失言を詮索しなかった。
 と言うよりも何事もなかったかのようないつもの無表情のまま、包みを解いて現れたおはぎに手を伸ばす。
「ここしばらく倒れていないのは君のおかげなのは確かだ」
 弥勒が面に夢中になっている間に梅月が家捜ししても、かまどの周りには米と味噌ぐらいしかなくて、聞けば我に返ってから食料を入手しに行くらしい。
 我に返ったその時にこそ、食料が必要であるにも関わらずだ。
 確かに、梅月の行動は端から見れば、せっせと食事を運んでいるようにしか見えないだろう。
 弥勒はちゃんと作ればそれなりの腕前らしい話を聞くのだが、そういう梅月の行動がいけないのか、弥勒の料理をご相伴に預かったこともない。
 何を持ってこようと気にかけられてもいないと梅月は思っていたのだが、どうして弥勒は気にしていたのだと気がついて、梅月はこぼれる笑みを袖で隠した。
 それは多分、あまり品のいい笑みではなかろうから。
「ありがとう」
 梅月は改めてきれいな笑みを浮かべて、言った。
「でも、遠慮しておくよ」
 梅月の言葉に、弥勒が視線を向けた。
 言葉はなかったが、不思議に思っているのが分かる。
 梅月は首を横に振った。
「今の僕には必要のないものだから」
「何故」
 弥勒が梅月に疑問の言葉を投げかけた。
 梅月は内心でほくそえむ。
 だが、見た目は何も変わらず、静かに告げる。
「それは、これだけここに通っていたら、吉原になど行く暇はないよ」
「行けばよいだろう」
「どうして?」
「ここには、君を楽しませるものなど何もない」
 こんなところで退屈な時を過ごしていることもあるまい、と、弥勒はボソリと呟いた。
「そんなことはないよ」
 梅月は、湯呑みを置いて弥勒ににじり寄った。
「全く、君はつれない男だな」
 弥勒の腕のない、右側に。
「どうしてこんなにも僕が通って来ていたのか、分からないと言うのかい?」
 分かる気もない相手なのだから分かるはずもないことを知りながら、梅月は切なげに囁いた。
 弥勒は不思議なものを見る目を向ける。
「梅月?」
 その時には。
 梅月は弥勒を組み敷いていた。
 肘から先のない腕では梅月を押し返せるはずもなく。
「これほど君に焦がれている男に吉原に行けとは、さすがに泣けてくるよ」
 嘘で固めた睦言は、だが、真実の響きを帯びていた。
 嘘の中にたった一つだけ真実を含んでいるからだ。
 梅月は腹を立てていたのだ。
 これほどまでに自分が気にかけてやった存在は他にないのに、そんな自分をいなくてもよいものだと言う弥勒に。
 そして、それが事実であると梅月にも分かるだけに尚更。
 感謝しているとは言っても、それは梅月がいくつかの簪や櫛を受け取ればそれで終わってしまう程度のことだ。
 梅月は弥勒の中に爪痕一つ残せてはいない。
 これで明日から梅月が通わなくなったとしても、弥勒は梅月が来なくなったとも思わない。
 ただ面と向き合う毎日に戻るだけだ。

 梅月は弥勒の腰の紐に手をかけた。
 問答無用で解き引き抜く。 
 だが、弥勒には抵抗する気はないようだった。
 わずかに眉尻が角度を変えたが、唯一の左手は、板の間に転がったままだ。
「逃げないのかい?」
 着物をはだけ、下履きの下に手を滑り込ませながら梅月は耳元で問う。
「僕が何をしようとしているのか、分からない訳ではないだろう?」
 脇腹を撫で上げると体は震えたが、弥勒のガラス玉のような目に光が宿ることはなかった。
「好きにすればいい」
 ボソリと呟く。
「本気で言っているのかい」
「ああ」
 迷いのない弥勒の答えに、梅月は敗北を悟った。
 このまま体を蹂躪しても、けして弥勒を振り向かせることは出来ない。
 傷一つ残すことは出来ないのだと分かってしまった。
 梅月は顔を歪める。
 恐らく般若のような顔をしているのだろうと、自分で思う。
 と。
「案ずるな」
 この期に及んで平板な弥勒の声に、梅月が視線を合わす。
 感情を感じさせない弥勒の瞳が、しかし間違いなく、梅月に向けられていた。
「逃げないのは、君のためだけではない」
 どれほど覗き込んでも、弥勒の感情は梅月には読めない。
 だが、
「ならば好きにさせてもらうよ」
 梅月は弥勒の唇に口付ける。
 弥勒の唇はまるで作り物のように冷たかった。










 不思議な体だった――。
 弥勒はほとんど声を上げなかった。
 どれほど肌に跡を残しても、息は上がってくるのだが、ほとんど声は聞こえなかった。
 無理に声を忍んでいる風もなく。
 ただ荒くなる息だけが、弥勒の熱を伝える。
 立ち上がった分身をしごき上げると、あまり自分で慰めることもないのだろう、自然に腰が揺れていた。
 が、やはり声はなく、その双眸はガラス玉のままだった。
 そして意外と言うべきなのか、どうか。
 慣れているとは言えないが、けして男を知らない体ではなかった。
 白濁した液に塗れた指を秘所に潜り込ませると、しばらく使っていないのか最初こそは固かったが、あっという間にほぐれてしまった。
 弥勒の中は熱かった。
 初めてではない、と言う事実に、梅月は裏切られた気分になっていた。
 さすがに押し入った瞬間には、喉を仰け反らせ、声を上げたが、その姿を、他の誰かが見たことがあるのだ。
 余計な力を抜こうとするその努力さえ疎ましく思える。
 きれいなものだと信じていたこと自体が、梅月の勝手な思い込みではあるのだが。
 梅月は弥勒の感じる場所を探し出し、執拗に責めた。
 ドロドロに溶かして追いつめれば、さすがに縋って来るだろうと思った。
 いってしまいそうな気配を感じると強く突き上げ、痛みで快楽を散らし、長引かせる。
「・・・、・・・・・・ッ」
 荒い息に、声が混じり始める。
「どうして欲しいのか、言ってごらん」
「・・・・・・・・・好き・・・に、しろ」
 体を追いつめてさえ、弥勒は梅月に屈しようとはしない。
「強情だな」
 梅月は揺らす動きを止めずに、弥勒の耳元で囁く。
「そういうところがかわいいのだけれどね」
 息を吹き込むと喉が震えた。
 刺激に慣れていない、だが知らない訳ではない体は反応を返すのだが、その瞳は、梅月よりもはるか遠くへ向いたままだ。
 梅月は一つ息をついた。
 止めてしまおうかと思ったが、それでは自分が辛い。
 改めて弥勒の腰を支え、最奥を抉る。
 いかせてやろうとは思わなかったが、梅月が欲望を放ったその時に、弥勒も果てた。
「う・・・」
 唯一の手は、床の上で握り締めたまま。










 一つになっていた体を離し、乱れた着物の裾を整える。
 その前で、弥勒は放り投げられた着物を掴み、起き上がろうとしていた。
 左腕一本で押し上げる上体を支えるため、弥勒が軽く足を開いた。
 脹脛の内側には刃物でつけたらしい傷痕が一面に広がっている。
 その傷痕が、網膜に焼きつく。
 均衡が取れない体で起き上がるのは難儀なのだなと思いながら、梅月は手を貸す気にはならず、ぼんやりと眺めていた。
 そして、
「初めてでは、ないんだね」
 ようやく板の間に起き上がり、柿渋色の着物を羽織る弥勒に言った。
 梅月は期待をしていた。
 弥勒が、少しぐらいは狼狽するなり怒るなり、何かしら反応するのではないのかと。
 しかし、
「ああ」
 弥勒は小さくうなずいた。
「駆け出しの頃だが」
 さらりと言って、腰の紐を締める。いつもの下履きは着ていないため、合わせの隙間から鬱血の跡が見える。
 所有の証ではない。
 少なくとも、弥勒にとってはそのような意味を持たない。
 そうでなければ無造作に髪などかきあげて、首筋に残る跡を見せつけたりはしないだろう。
「――聞いても、よいのかな」
 梅月はようやく声を絞り出した。
 別に、と、弥勒は答える。
「どうしてもよい鑿が欲しかったんだが、金などないし、ただ働きするにもお門違いの鍛冶屋で何が出来る訳でもなし。一人だけ体でいいと言う鍛冶師がいたので、頼んだ」
 まだ子供だったから売り物になったんだな。
 淡々とこともなげに語る弥勒に、梅月は顔を歪めた。
「それこそ吉原にでも売り飛ばされかねないとは思わなかったのかい」
「だから鍛冶屋と直談判をしたんだ」
 だとしても、子供の身では危険であったことには変わりないだろう。
「それにしてもあまりにも軽率だ――」
 梅月はたかが鑿のために、と言う一言をようやく飲み込んだ。
 そんなことを言えば激怒するのは目に見えている。
 その他のことであれば、多少気に障ったとしてもこの場で終わってしまう。
 だが、ここで面を見くびるようなことを言ったら、もう二度と入れてもらえない気がしたからだ。
 面に関することになると、弥勒の見境がつかなくなるのは昔から変わっていないということだ。
 いや、見境がつかない、と言うのは適当ではないかもしれない。
 弥勒の行動には必ず訳がある。
 弥勒自身が訳を認めさえすれば、どれほどの犠牲を払ったとしても、弥勒は躊躇うことがない。
 ただ、端から見るとあまりにも割が合っていないので、見境がないように映ってしまう。
 しかし、それはある意味、他の者には分からぬ、弥勒にとってはゆるがせない絶対のモノがあればこそ、出来る行動なのだ。
 その事実が、梅月の心をかき乱す。
 梅月には、自分の体を差し出してまで欲しいものなどない。
 そもそも自分の命が惜しいがために、家も親も名までも捨ててきたのだから。
 そうして名を捨てた今ですら、欲しがらなくても、大概のものは手に入った。
 弱冠二十歳にも届かぬ内に、富も名声も手にした。
 だが、富も名声も自分の命を繋ぎ止めることは出来ない。
 もしも自分の命を繋ぎとめる術を知る者がいたら、何を差し出しても構わない気がするが、けれど、そんな者はいない。
 梅月にとって、自分以上に大切なものなど何もなかった。
 自分の何より面を優先する弥勒の思いが、梅月には分からない。
 そうして。
 恐れを知らぬ弥勒には、永遠に梅月の思いは分かるまい――。
 梅月はひそりと問うた。
「何故、僕に抱かれたんだい?」
 弥勒は、訳さえあればどんな犠牲も払うが、訳がなければ絶対に動かない。
 その訳を、知りたいと思った。
 いくら何でも簪の数本と弥勒自身が釣り合うはずもない。
 梅月が食事を運ばなくなったとしても元に戻るだけ、面打ちには何ら不都合はないはずで、別に好きでもない男におとなしく抱かれる理由は何もないように思える。
 梅月の熱情にほだされたと言うことも、弥勒に限ってはありえぬことだ。
 いくら考えても、梅月には弥勒の思いが見えなかった。
 梅月は無意識に弥勒を睨みつけていた。
 その鋭い視線に晒されても、弥勒がたじろぐことはなかった。
「肌を合わせれば、俺にも見えない君の何かが、分かるのではないかと思ったのだがな」
 梅月は、さっと血の気が引くのが分かった。
 弥勒は梅月ですら空恐ろしくなるほどの巫子だ。
 震え出す右手を左手で押さえつけて、問う。
「・・・で、何か分かったのかい」
「星が」
 弥勒は小首を傾げた。
 こけた頬に影が落ちて、疲労の色を見せる。
「星が見えた気がしたんだが」
 痛みのせいかもしれない、と、呟いて。
 弥勒の視線が遠くなる。
 幸いだった。
 梅月の体はガタガタと震え出していたから。
「多分、俺は君の写し面を打つには、何か大切なことを見落としている。それが分からん限り、面は完成しないのだろう」
 そう言って、呆然とする梅月の目の前で、弥勒は静かに立ち上がった。
「滝で水を浴びてくる」
 さすがに頼りなげな足取りで、タタキヘ降りようとした弥勒が、後ろへ倒れた。
 袖を後ろから引かれたためだ。
 気がついた時には梅月に背後から抱きすくめられていた。
「あんなことで僕の心が読めるとでも思っているのか、君は」
 何も分かってなどいない、分かるはずがない、と、梅月は繰り返し呟いた。
 その意味を分かっているとは思えないが、分かる前に、弥勒に星を忘れさせなければならなかった。
 身の丈こそ同じ位だが、梅月の腕は見た目優男の印象よりも遥かに力強かった。
 度々食事を抜くような不摂生を続けていた弥勒が振り向こうとして身を捩ってもびくともしない。
「君こそ、心を閉ざしていたくせに」
 弥勒からは表情を覗えなかったが、梅月が尋常でないことだけは気配で分かった。
「梅月」
 それでも弥勒の声音は変わらない。
 梅月を恐れもしなければ、宥めようともしていなかった。
 それが、梅月の神経をかきむしる。
 慮ることをしないくせに、確実に事実を読み取ってしまう腕の中の存在。
 めちゃくちゃにしてしまいたかった。
 そうして、全部忘れさせなければいけなかった。
 自分の奥底に隠した本当の思いに気づかれる前に。
 梅月は整った顔を歪めて、抱きすくめたまま耳元で囁く。
「けして君は僕を受け入れようとはしなかったくせに、肌を合わせただけで他人の心を読めるなど、思わぬことだ」
 梅月のぬばたまの双眸に暗い光が閃く。
 梅月は問答無用で弥勒を工房に連れ戻し、突き飛ばした。
 片腕の弥勒は踏み止まれずに倒れ込む。
「っつ・・・」
 痛みにうめく弥勒に梅月が襲いかかる。
 反射で弥勒は、きっ、と、にらんだ。
 すると、梅月は楽しげに笑った。
 ようやく手に入れた反応。
 それでもまだ足りない。
「いい目だ」
 今にも舌なめずりせんばかりの表情で。
「ぞくぞくするよ」
「・・・離せ」
 弥勒は言ったが、床に張りつけられた唯一の手に力は入っていなかった。
 組み敷かれた体は抵抗はおろか、もがきもしない。
 失望感が梅月の心臓を掴む。
 梅月はせめて弥勒からの反応を欲していたのに。
 弥勒は梅月が隠し続ける真実の一端を奪いながら、梅月には何も渡そうとはしない。
 せいぜい余裕を取り繕って、梅月は歪んだ笑みを浮かべた。
「誘っているのかい?」
 尖り気味の顎を指先ですくって、唇を奪う。
 糸を引く口付けの後、梅月は弥勒の瞳を覗き込んで囁く。
「僕の何かを知りたいというのなら、まずは君が僕を受け入れてくれなければね」
 弥勒の瞳は相変わらずのガラス玉で、梅月自身の顔がよく見えた。
 切れ長の眦が更に切れ上がっている。
 梅月の顔は正に、般若のそれだった。











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