執着 八



 一仕事を終えた弥勒は、そのまま見世を後にしようとした。
 その表情からは、昨夜の出来事を覚えているのかどうかさえ伺えない。
 ただ、事実として、弥勒は仕事を終えてから表に出てくるまで、同じ屋根の下にいるはずの知り合いを気にかける素振りは一度たりとも見せなかった。
 楼主に挨拶をして、まだ店を開ける前の見世を出ようと裏口に回る。
 と。
「おはよう、いい朝だな」
「待っていたよ」
 と、きれいな顔に胡散臭い笑顔を浮かべた男に左右から声をかけられ、弥勒の無愛想な顔は、一際不機嫌になった。
「何故、ここにいる」
 弥勒が気にしていたのかどうかは定かではないが、裏口に回ったのは客として見世に上がっていた彼らと万が一にも遭遇しないための意味が確実にあっただろう。
 それなのに、二人揃っていけしゃあしゃあと裏口で待ち伏せされていては、いくら鉄面皮を誇る弥勒でも不機嫌を露にしようものだ。
 昨夜の反応からしても待ち構えていれば弥勒の機嫌が悪くなるのは分かりきったことで、なまじ常に感情の波がないだけに、一度荒れだすと弥勒自身手をつけようが無くなるのだが、目前の二人はそれ以上の厚かましさで応じる。
「せっかく同じところに帰るんだ、道連れがいた方が道々楽しかろうよ」
「僕は心の洗濯をしに、あの長閑な村に行きたいと思ってね。最近性悪狸とばかりやりあっていたから、鬱屈が溜まっているんだよ」
 弥勒は腹に一物どころではなく抱えた笑顔を冷たい視線で一撫でして、標的を奈涸に定めたようだった。
「骨董屋、君はもう王子に越したのではなかったか」
「おや、知らんのか? 村にはまだ俺の部屋を残してある」
 甲州街道沿いに骨董を掘り返しに行く時には、何かと便利なんでな、と、若旦那然として奈涸がさらりと言う。
 その答えを聞いているのかいないのか、弥勒は梅月に視線を移したが、こちらには何も言わなかった。
 言うまでもなく、身内の連中をとやかく言えない程度には、梅月は相当立派な狸である。
 不自由なのかと疑いたくなるほど口数が少ない弥勒が、口先で敵う相手ではない。
 だから、弥勒は黙って足を踏み出した。
「嫌味の一つも僕には言ってくれないのかい」
 一つ苦笑して、
「全くつれないねえ」
 梅月は、奈涸と共に弥勒と並んで歩き始めた。
 そうして、吉原の門を潜って少ししたところで、
「ちょいと、兄さん達」
 一行に婀娜な女の声がかかった。
「もしや、甲州街道の方に行くのかい? よかったら、あたしも混ぜておくれじゃないかい」
 顔を見るまでもない。
 三味線の包みを抱えた桔梗が妖艶に笑っている。
「一人じゃ心細くてね」
 言われて、梅月がきれいに笑って応じた。
「それはいけない、こんな美しいご婦人が一人歩きなどしては危ないよ」
 桔梗を襲って危ない目に遭うのは無論、襲う相手である。
「さ、どうぞ御一緒に」
 と、梅月達が白々しい芝居をしている間も、弥勒は足を止めない。
 梅月達も足を止めていた訳ではないが、わき目も振らない弥勒とは少し間が開いてしまった。
「面白味のない男だねえ」
 きこえよがしな桔梗の嘆息にも、弥勒は振り向きもしない。
「まあ、弥勒だからね」
 言外につける薬はない、と言う奈涸に、梅月が異を唱える。
「けれど、それが弥勒のいいところでもあるだろう?」
「まあ、裏表だけはないですけどね」
 裏表なく不愛想だと言外に匂わせ、奈涸は足を速めて弥勒の肘を捕まえる。
「そう急くな。どうせ夕刻までに村に着けばいいんだろ」
「店はいいのか」
「涼浬がいるから心配ない」
 まだ目利きは無理だが、日々の商いには何も問題ない、と奈涸は言う。
 そして、奈涸は往生際悪く奈涸を遠ざけようとする弥勒の耳元に口を寄せて囁いた。
「それに俺も面が割れたから、ことが片付くまでは店に近づけん」
「そこまでしてどうして奴に肩入れする」
「肩入れしたつもりはないが…あいにくと、俺は先生を敵に回す気はないんだ」
 詰る弥勒へ、奈涸はさも当然とばかりに言った。
「お得意様だし、今回は破格の報酬が約束されている…と言うこともあるが、正直、あのちょっと化け物じみた方を敵に回す気にはなれん。それぐらいならあの先生を護衛していたと言う術師を敵にする方がまだましだ」
 俺はいろんなものが惜しいんだよ、と、奈涸はきっぱりと言った。
 その気持ちは、誰もが理解できるだろう。
 梅月がその気になったら、一歩も動かずに一群の敵を殲滅することも可能なのだ。
 その上に、けして違わぬ未来を詠む能力。
 娘達を侍らせて女心をくすぐるような句を詠み、ちゃらちゃらしている粋人の姿からは想像も出来ないような莫大な力を秘めている。
 梅月に一片の恐れも抱かぬ者は、多分、片手の指で充分なほどだろう。
 そして、目の前の隻腕の面師が、その一人であると言うことが問題なのだ。
「知らん」
 どうやら恐怖心が欠けているらしい弥勒は、後で梅月がどれだけ怒るか分かっているだろうに、奈涸の手を振り切ろうとする。
 いや、弥勒なりに怒っているのだろう。
 怒っているから、その怒りの源に近寄りたくないのだと言うことは、何となく分かる。
 いつもよりも更に険のある顔つきに見えるのがその証拠だろう。
 だが、奈涸にとってどちらが怖いかと言えば、それは間違いなく梅月だ。
 弥勒はあまり根に持たないと言うか、面以外の大抵のことは、相手にとっては大切なことだったとしてもすぐに忘却の彼方に追いやってしまうのだが、梅月はそうはいかない。
 「恨むよ」などと笑顔で言われたら、さすがの奈涸も生きた心地がしない。
 事実、一人や二人、簡単に呪い殺せる力を持っていて、それを目の当たりにして来たのだから。
 そうでなくとも店を人質に取られたも同然なのだから、奈涸の生殺与奪の権は梅月に握られている。
「とにかく、今は先生の言うことを聞いておいた方が得策だ」
 奈涸は全力で弥勒を取り押さえる。
 ここで弥勒に逃げられた場合、後で恨まれる比率は絶対に弥勒自身よりも奈涸の方が高いことも分かっているから、必死だ。
 二人でもみ合っている間に、梅月と桔梗も追いついてくる。
「せっかくなんだから、楽しく行こうじゃないか」
 追いついてきたと見るや肘を離した奈涸にぽんと肩を叩かれて、呆れも通り越えたか弥勒はいつもの無表情に戻ってしまう。
 だが、それで恐れ入るようなかわいげのある神経の持ち主はここにはいない。
「では、行こうか」
 と、梅月がにこりと笑って歩き出す。
 遅れた来たくせに、と、誰かが呟いたような気がしたが、あえて問い返す者はなかった。




















 甲州街道を西に下り、しばらくしたところで脇道に入る。
 脇道は次第に細くなり、あるところで消失する。
 だが、本当に消えた訳ではない。
 九角の張った結界によって、九角に認められた者以外に対しては未だ遮蔽されているのだ。
 いつかは解かねばならぬのだろうが、今はまだ解かれていなくて幸いだったと言える。
 鬼道の正当な後継者である九角の手による結界は、梅月でさえ、その存在は分かっても、外から干渉することは叶わぬ程強固だ。
 梅月の存在を捕えることが出来なかった御門達にどうこうできるものではない。
 そんなことが出来るぐらいなら、とっくに村に踏み込んで、弥勒を拉致するなり、殺害するなりしているだろう。
 だから、無事に村まで送り届けられれば、弥勒の身柄を心配せずに梅月も暗躍出来るのだが。
「このまますんなり帰してくれると嬉しいんだけれどね」
 そうしたら、譲歩を考えてやってもよい、と、呟く梅月へ、
「無理だな」
 と言って、弥勒が足を止めた。
 天を仰ぎ、それから背後の三人を見やる。
「どうする」
「どうすると言われてもねえ」
「そもそも逃げられるものなのか?」
 弥勒は結界の一歩手前で立ち止まっていた。
 村の結界ではない。村の結界にはまだ遠い。
 確かに、御門にも村の結界を破ることは不可能だろう。
 だが、その存在ぐらいには気がついているだろう。
 結界の入り口よりも手前、そこを通らなければ村の結界には辿り着けぬ位置に、更に結界を張って構えていたのだ。
 あからさまに罠である。
「なかなか懲りない連中だねえ」
 昨日痛い目に遭ったばかりのはずなのに、と、桔梗が三味線を包む布を解きながら呟く。
「一度で懲りるぐらいなら、端からちょっかいなど出さなかろうよ」
 ましてや相手は先生だ、と、奈涸は含みのある口調で言うが、梅月は不問に帰した。
 その代わり、さも当然と言わんばかりに色紙を取り出し、さらさらと筆を走らせる。
「吟詠!」
 朗とした声が残る三人を包む。
 そして、
「吟詠!」
 間を分かたずして梅月は句を吟じ、もう一度三人に術が付与される。
「奈涸」
 にっこりと邪気のなさそうな顔で梅月は微笑む。
 なさそうに見えたからと言って、ないとは限らないのだが。
「祝福と羅刹と、それと君は少し体力が不安だから、ついでに金剛もつけておいたからね。生身は頼んだよ」
「はいはい、分かりました」
 至れり尽くせり、駄々をこねる余地すらない状況に奈涸は太い息を吐きながら、どこからか忍び刀と棒手裏剣を取り出す。
「ついでに、足止めもしていただけると助かるんですけどね」
 自己主張は忘れない。
「分かった。雑魚式は桔梗に任せるよ。数がいるようだけれど、あの程度なら束になってもたいしたことはない。それと、弥勒は桔梗を守っておくれ」
 梅月は、結界の前に立ち尽くしているように見える弥勒に声をかけた。
 するとおもむろに弥勒が振り向いて、問い返した。
「君は?」
 と、梅月が苦い笑いを浮かべる。
「やはり騙せないな」
 弥勒は面師であり、傍観者だ。
 本人、全く気づいていないようだが、見ることにかけてはかなり高い能力の持ち主だ。
「どうしたんです?」
 撥を構えた桔梗が尋ねる。
「この結界の施主は、恐らく御門だ」
「それは…」
 奈涸の顔つきが変わった。
 強力な術者の結界は、張った当人にとってより都合のよい舞台となる。
 梅月よりは弱いと言っても、それは比べる相手を間違っていると言うべきだ。
 仮にも一族郎党をまとめようと言う陰陽師、そしてこの梅月の護衛を任される者なのだ。当然それなりの術者だと考えるべきである。
「どうやら本人は来ていないようだがね、御門の用意した術具で創世された結界のようだ」
 常人ならぬ目で結界を見つめていた梅月が告げる。
「御門ならば尚のこと、僕を傷つけることは出来ない。僕から離れなければ、そう滅多なことは出来ないよ」
 奈涸はそういう訳にはいかないから、出来るだけの防御策は打っておくけれどね、と、梅月は告げる。
「だが、厄介であることには違いない。僕はこの結界の破呪に注力する。だから後は全部任せるよ」
 まるで放り出すかのような口振りであったが、事実、この結界自体に比べれば、片手間仕事なのだと理解できない者達ではない。
「なるべく早くにお願いしますよ」
 奈涸は手早く髪を結わえながら言った。
 桔梗はもはや臨戦態勢だ。
「では、行こうか」
 一行は結界の中に足を踏み入れた。



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