執着 九



 「お初におめもじ仕り…」
 結界に足を踏み入れた途端、二十人程の食客達に守られた中年の男が慇懃無礼に声をかけてきた。
 だが、
「吟詠!」
 梅月はその声を遮って、句を吟じる。
 避ける暇もあらば、いかにも浪人風の食客達の内、七人が、梅月の凍結術を受けて姿を雪だるまに変じる。
 見た目こそほのぼのしているが、かけられる方はたまらない。
 そして恐らく、そのような術を受けるのは初めてなのだろう、呪詛から外れた食客達の顔が恐怖に引きつった。
 いくら召し抱えられた家が術者の家だと言われても、せいぜい家中で役にも立たない祈祷でもしているのかと思っていたのだろうから、驚くのも無理はない。
 まして梅月は、いかにも怪しげな呪言を唱えた訳でもなく、ただ句を吟じただけである。
 それなのに半数が雪だるまに変えられたのだ。浮き足立ちもしよう。
 そして、梅月は涼やかな笑みを浮かべて、冷酷な言葉を吐いた。
「どうせお前のことなど僕は覚えはしないのだから、挨拶など必要などないよ」
 途端に、男の顔色も変わる。
「これは嘆かわしや。高みに立ち、民人を導くべき御方ともあろう方が、何という情のない御言葉か」
「余計な気遣いは無用」
 梅月の気配が変わる。
 洒脱な粋人の気配から、傲慢な支配者のそれへ。
「今立ち去るなら命だけは助けてやろう。そして二度と僕の前にその薄汚い姿を見せるな」
 その声音は、従わざるを得ない響きがこもっており、耐性のない食客達が慄く。
 しかし、男だけは梅月の言葉に抵抗を示した。
「…おいたわしや、星見の君ともあろう御方が」
 符を取り出した男の周囲が微かに光り出す。
 式神の出現だ。
 その数、十を越え、まだ増えるようだ。
 梅月には記憶がないが、恐らく御門配下の陰陽師の中では比較的位が上の者なのだろう。
 しかし、梅月は聞く耳を持たずぴしゃりと言った。
「御託はいらぬ。とく去ね」
 だが、それで引き下がるぐらいなら、いくら御門の結界の中とは言え、こんなところまでのこのことは出向いては来ないだろう。
 男は傲慢に言い放つ。
「どこの馬の骨とも知れぬ下郎共と交わられて御目が曇っていらっしゃるとお見受け申す」
 応じたのは、奈涸だった。
「下司に下郎と言われるのは納得いかんな」
 うっそり笑って忍び刀を抜いた。
「やかましいわ、下郎を下郎と言って何が悪い。特にそこな片輪者! 星見の君が汚れる! 下がりおろう!」
 奈涸の挑発に激昂した男は、梅月の逆鱗に触れてしまった。
「僕が手を下すまでもない」
 梅月の両眼に凍てつく光を宿し、奈涸と桔梗に告げ、男に背を向けた。
「二人とも、手数をかけてすまないが、後はよろしく頼むよ。命の保証などいらないから」
「全く言うに事欠いて何て物言いだい。それじゃあ式の扱いも高が知れるねえ」
 桔梗も相当に気分を害したらしい、柳眉を逆立てていた。
 むしろ、罵られた当の本人である弥勒の方がよほど平然としている。
「誇り高き鬼神達よ、あたしが解放してあげるから、そいつの喉笛噛み切っちまいな!」
 襲いかかってくる式達に向けて、胸元から取り出した呪符を投げつける。
「呪詛返し!」
 一方、奈涸も動き始める。
「飛水十字!」
「ぐわっ」
 奈涸が放った手裏剣は、正確に先頭にいた男の右の肩を貫く。
「わっ」
「いつの間に!」
 手裏剣に気を 取られていた男達が我に返った時には、まだ距離があったはずの奈涸が食客達の最前線に肉薄していた。
 一足に刀の間合いを潰し、大上段に構えた男のみぞおちに左肘を当て、腰の小太刀に右手を伸ばす。
「ぐふっ」
 小太刀の柄を掴んだ瞬間、奈涸はみぞおちに当てた肘に体重を乗せ、食客を吹き飛ばす。
 みぞおちに一撃を食らった相手は、構えていた刀を取り落とし、腹を押さえて悶絶する。
 食客達が体勢を整え直す間も与えずに奈涸は駆け抜け、奪った小太刀で手近にいた二人の食客の首筋の辺りを撫で斬った。
 奈涸が次の食客に襲いかかろうとした瞬間、背後に置き去りにした二人が首筋から噴水のように血飛沫をあげて、どう、と地面に倒れ伏した。
 恐怖と痛みによる絶叫で、空間が満たされた。
 二六十年と言う長きに渡った大平の世の中で、武士といえども実戦に立つ者は大幅に減じた。
 いくら道場で剣を振ったところで、実戦の修羅場とは比べ物にならない。
 一方の奈涸達は幾多の修羅場を乗り越えて生き残った者達だ。
 大上段に構える道場剣法の相手に、更に一瞬の躊躇があれば、奈涸には充分過ぎるほどだ。
 名前の通り流水の如き動きで恐怖に目を見開いた食客の額を切り裂き、横に飛ぶ。
 防御を前提としない忍の剣術は、一撃離脱が基本だ。
 けして大きく刀を振りかぶることもない。
 素早く相手の懐に入り込み、狙うのは急所だけだ。
「うわああぁぁっ」
 しかし、横に飛んだ奈涸に、大上段から刃が襲い掛かってきた。
 その太刀筋を半歩左に飛んでかわし、前のめりになった相手の右腕に小太刀を振り下ろした。
 勢い余って小太刀はがっちりと相手の右上腕に食い込み、相手の骨に当たって止まった。
 引こうとしても深く食い込みすぎてびくともしない。
「チッ」
 奈涸は舌打ちをし、相手の肩を踏んで無理矢理小太刀を引き抜く。
 足を離すと相手は鮮血のほとばしる傷口から白い骨を覗かせて、地面をのた打ち回る。
 奈涸には、骨が見えるほど斬ってしまった傷口を見て、加減を誤ったと後悔する余裕がある。
 多人数相手の乱戦の場合、いかに自分の消耗を少なくし、相手の足止めをすることの方が大切だ。
 とどめなど後から刺して回ればいいことだ。
 ちらりと小太刀を見やると、脂はそれほどではないが、やはり骨に当たった衝撃で刃が毀れてしまっている。
 その、背後で。
「ぎゃあっ」
 新たな悲鳴が響き渡った。
 肩越しに振り向くと、最初に小太刀を奪った男が目を押さえて転げまわっていた。
 その左目には、小刀が突き刺さっている。
「油断するな」
「すまん」
 何事もなかったかのように新しい鑿を取り出している弥勒に、奈涸は笑顔で応じた。
 あれほどの血飛沫の中、返り血一つ浴びていない奈涸は、恐怖の眼差しを一身に集めている。
 その視線の意味を理解して、奈涸は四人の血を吸った刀を無造作に投げ捨てながら、凶悪に笑って見せた。
 女形のようなきれいな顔をしているだけに、悪夢のように恐ろしい。
 同時に、奈涸の左手が閃く。
 新たに手裏剣を食らった食客の悲鳴が結界の中に満ちる。
 これで、梅月の呪詛を逃れた食客達の内七人までが戦闘不能状態に陥っている。
 残るは六人。
「さあ」
 奈涸はこれ見よがしに刀を構えて、声を張り上げた。
「どうする、最後まで抵抗するか? 俺はどっちだって構わんぞ。まあ、今全部片づけておいた方が、後々楽か――」
 笑いを含んだ脅迫に、食客達は震え上がった。
 奈涸としては、出来ればここで逃げ出してくれた方がありがたい。
 表面には出さないが、やはり多勢に無勢、次は相手ももっと警戒して守りを固めてくるだろうし、奈涸も先ほどと全く同じ速さでは動けない。
 無論、そんなことはおくびにも出さないが。
 幸いと言うべきか、
「ば、化け物!」
 誰かのその一言で、雪崩を打って無事な食客達が逃げ出そうとした。
 誰だって命は惜しい。
 だが、
「痴れ者共が! 何のためにお前らを抱えていると思っているのだ! たった一人を相手に手傷も負わせず逃げるなど許さぬ!」
 食客達の行く手を、小鬼が遮った。
「ひっ」
 前門の虎、後門の狼、どちらがマシかと食客達が悩むその瞬間、
「よそ見なんかしてるんじゃないよっ、あんたの相手はあたしだろ!」
 桔梗の声が凛と響く。
 食客達が進路を決め兼ねているのをいいことに、奈涸は桔梗達に視線を走らせて、短く口笛を吹いた。
 左手で三味線を支え、右手に符を構え、全身に闘気を纏う桔梗は、まるで咲き誇る大輪の花だ。
 弥勒はその傍らで鑿を構えているが、桔梗共々傷一つない。
 先ほど奈涸の援護をする余力があったように、弥勒が物理的に桔梗を守らねばならないほどの敵ではなかったようだ。
 一方、陰陽師の男はと言うと、あれほどいたはずの式神は、既に男の左右を守る二体と、食客達を脅している一体の合わせて三体までに減少しており、全身に小傷を負っている。
「全く、その程度の腕でよそ見なんかしてる場合じゃないだろう」
「な、何故だ…宗主の結界の中で、何故女郎風情がこれほどの力を…ぐっ」
「減らず口だけは一人前だねえ」
 見えない手が、男の頭を叩く。
 無論、桔梗の式神だ。
「そりゃあ、あんたが弱いからさ。その程度の力であたしにたてつこうなんざ、千年早いよ」
 もっとも力が弱かったから、死なずに済んでるんだけどねえ、と、桔梗は呟いて、語を継ぐ。
「それと、あたしは女郎じゃないよ。御門の名に免じて一度だけは見逃してあげるけど、今度言ったら容赦しないよ」
 きらりと本気の光が瞬く瞳に、男は言葉を飲んだ。
「くっ…」
「さ、どうするんだい。あんまりこの山を血で汚したくはないんでね、これに懲りてもう二度とちょっかいを出さないって名にかけて誓うなら、ここで止めといてやってもかまわないよ」
 もうあたしに敵わないってことは、充分分かったろう? と、桔梗は妖艶な笑みを口元に浮かべて、憐れむような声音で言った。
 名をかけた誓いは契約だ。
 もしも破れば、桔梗が相手ではその時は命がない。
 この場を見逃してやると言っても、桔梗はただで開放する気などなかった。
 村に仇なす争いの火種は、少しでも摘み取っておかねばならないのだから。
「それとも、ここで全部終わりにしちまうかい?」
 と、桔梗は符を胸元に納めて撥を構えた。
 こっそり奈涸の方をうかがうと、まだ六人残っている。
 特に傷など負った様子はないが、そろそろ支援してやらなければ辛いのだろう。
 男の呪力は思った以上に弱く、いくら呪詛返しをしても、命に関わるほどの力にはならなかった。
 呪詛返しだけで片がついてしまえばそれに越したことはなかったが、どうやら自ら引導を渡してやらなければならないらしい。
 遠い昔に分かたれた血脈とは言え、父の血を引く者の命を自らの手で断つことはさすがにためらわれたのだが、どうやらそうも言っていられないようである。
「馬鹿は死ななきゃ治らないって言うからね」
 覚悟を決めて、弦に撥を強く押し当てたその瞬間。
「きゃあっ」
 空間が大きく軋みを上げて揺らいだ。
 続いて何かが爆発したような音が響き渡る。
 術に意識を集中していた桔梗が悲鳴をあげて倒れ掛かるのを、とっさに弥勒が鑿を捨てて支えた。
 撥が弾かれて遠くに飛んだ。
 倒れたのは桔梗だけではない。
 誰もが突然の衝撃に頭を抱えて自らを守る。
 揺らぎは短時間で納まった。
 そして先に立ち直ったのは、最初から守勢に入っていた方だった。
「覚悟せよ!」
 陰陽師が矢継ぎ早に呪を唱える。
 小さな火弾が、倒れてなお符を取り出して応戦しようとする桔梗に降り注ぐ。
 だが、
「弥勒!」
 桔梗の前に弥勒が立ち塞がった。
 火弾のほとんどを叩き落としたが、やはりいくつかは防ぎきれずに受けてしまう。
 しかしその傷はかろうじて伏姫の鑿の祝福で補える程度で済んだ。
 弥勒は立ち上がった桔梗に言う。
「確実に倒せ」
 見れば、陰陽師は両手に符を構え、大きな術を放とうとしているようだった。
 火弾は形勢を逆転するための小手先の技だっただけに、体を張って防げたが、まともに大きな術を喰らえばいかな術に耐性を持つ弥勒と桔梗でも無事では済むまい。
「くっ」
 いち早く体勢を立て直した奈涸が、陰陽師の元へ走る。
 走りながら棒手裏剣を取り出す。
 直接斬り伏せるのに、間に合う距離ではないことは分かっている。
 玄武の力を解放するには、陰陽師と弥勒達の距離が近すぎる。
 かと言って、その場で手裏剣を投げても届く距離でもなかった。
 少しでも距離を詰めなければならない。
 が、
「急急…」
 奈涸の手裏剣がぎりぎり届くかどうかの距離で、呪が完成しようとしていた。
 考えるよりも早く体が動く。
 立ち上がった桔梗の術は間に合わないと見て取るや、奈涸は迷わず手裏剣を放っていた。
 しかし、
「ぎゃっ」
「人様んちの庭先に勝手に結界なんざ作って好き放題してんじゃねえぞ、おっさん…って、わっ」
 無造作に陰陽師のケツを蹴り上げた風祭が、自分の鼻先を掠め飛んだ棒手裏剣に後ろに跳び退る。
「大袈裟だな、澳継」
 続いて現れたのは九桐だ。
「…坊や、どうしてここに」
 思わぬ人物の登場に符を構えたまま、桔梗が呆然と呟く。
 だが、それには答えず九桐は奈涸に尋ねる。
「奈涸、こいつら強いのか?」
「そんな訳なかろう。俺が一人で七人も倒せるようではたかが知れる」
 奈涸は肩を竦めて答えた。
「そうか、それはつまらんなあ」
 と、九桐はこの血生臭い場面では胡散臭く感じられるほどの爽やかな笑顔で言う。
「ならば残り六人、全部こちらに譲ってくれ。腹ごなしぐらいにはなるだろう」
 ひゅんと杖が空を裂く音が、皆の耳を叩いた。
 九桐は回転の勢いを簡単に殺して、とん、と、杖を地面につけた。身の丈よりも長い杖を軽々と扱って見せる九桐に、いまだ立っている食客達は青ざめる。
 奈涸に容赦するつもりがないのはすでに明らかであり、笑顔こそ爽やかだが、九桐の双眸が不躾な侵入者に対する怒りをたたえていることを、基本的に図々しく出来ている食客達も気がついた。
 だが、九桐を知る味方は、最初から九桐もそれほど期待をしていなかったことに気がついている。
 でなければ、使い慣れた槍ではなく、ただの六角杖など持ってくるはずもない。
 手加減するつもりが嫌と言うほど見て取れる。
「こちらは二人で充分だ。澳継はその陰陽師と雪だるまを縛り上げとけ」
「えー、つっまんねえっ。俺にも一人二人分けてくれよ」
「いいだろう、たまには譲れ」
 九桐と風祭のやり取りは全く緊迫感がないが、だからこそ恐ろしい。
 だが、食客たちが逃げる隙はなかった。
「では、参る!」
 問答無用で九桐は杖を振りかざし、踊りかかった。
 正に電光石火。
 杖を変幻自在に操る九桐の一振りで一人が意識を失い倒れていく。
「澳継、倒れたのも縛り上げておけ!」
 振り向きもせずに指示する九桐に、風祭は、
「何で俺が…このためにつれてきたのに、下忍達はどこ行きやがったんだよ…」
 と、ぶつぶつ文句を言いながら、鮮やかな手つきで縛り上げていく。
「出来ればもっと早くに来てもらえるとありがたかったのだがな」
 奈涸は結局一度も使うことのなかった愛刀を鞘に収めながら、残る敵を息一つ上げずに掃討した九桐に言う。
「そうしたいのは山々だったんだが、結界になかなか入れなくてな」
 桔梗と弥勒の傍にやってきた九桐は苦笑して応じた。
「どこか入り込める隙はないかとこの辺をうろうろしていたところ、あの地震のような揺れが来て、皆の姿がうっすら見えたので、澳継のありったけの気をぶち込ませて無理矢理入り込んだんだ」
 間に合ってよかった、と、やはり爽やかに笑う。
「ああ、それであの大きな音か」
 奈涸はようやく得心がいったとばかりにうなずいた。
 しかし桔梗が慌てて風祭に問う。
「そんな力技で入り込んで来たのかい。坊や、怪我はないかい」
 結構強固な結界だったから、と、まるで母親が子供を心配しているような様子で問うが、風祭はいつものように反発する。
「んな、心配されるようなことじゃねえよ。それと、いい加減坊やってのはやめろよな!」
 ぎゃんぎゃんと噛み付く子犬を構っている桔梗を尻目に、ただ一人手負いの弥勒が、九桐に問う
。 「何故、君達がここに」
「あ、ああ、若が、この結界の存在に気づかれてな。今、村の傍で結界を創生するような戯け者は先生絡みしかなかろう、と言うことで、暇つぶしがてら、もう二度とこんな真似をする気が起きんように、我々が仕置きに来たと言う訳だ」
 簡単すぎて暇つぶしにもならんかったなあ、と、九桐は肩に杖を担いで伸びをする。
「で、当の梅月先生はどこへ行きなさったのかな」
 九桐に問われ、桔梗と奈涸がはっと辺りを見回した。
 だが、まだ街道から外れてそれほどたたない山道は、まだ身を隠しおおせるような大木はないのに、梅月の姿がどこにも見えない。
 と、弥勒が突然歩き出した。
「弥勒…?」
 誰もがその動きに首を傾げる中、弥勒は動き始めた時と同様に突然立ち止まり、桔梗を呼んだ。
「桔梗」
「何だい」
「俺はこの辺りの位相がずれているように感じるのだが、君は何か感じないか」
 弥勒は明日の天気の話でもしているような口調だったが、残る全員の顔が引きつる。
 慌てて桔梗が弥勒の傍らに駆け寄り、そうして弥勒の視線の先を見やる。
「…桔梗、どうなんだ」
 黙りこんでしまった桔梗に、九桐が声をかける。
「結界があるよ、確かに」
 桔梗は、あえぐように言った。
「だが、ここら辺は俺達が破って来た結界の内側だろう?」
 根本的に術師ではないがため、その意味がよく理解できない九桐は首を傾げる。
 と、
「まだ、結界は破られてはいない」
 弥勒が平板な声で告げる。
「外側の結界が綻びた瞬間に、君達が介入して来たが、多分そのまま修復されてしまったのだろうな。だから、下忍達が消えてしまったのだ」
 正確には、君達が位相のずれた結界に飛び込んできたのだ、と、弥勒は言う。
「この内の結界を核として外の結界を作ったのだろう。だから、内の結界をどうにかしないことには外の結界も完全には破れぬからくりだ。…そうだろう、桔梗」
「恐らく」
 弥勒の説に否やはないのだろう、桔梗はただうなずいた。
「結界の内側にまた結界を作るなんて、どうしてそんな面倒なことを」
 奈涸は思いついた疑問を口にして、そしてその答えを自分で見つけた。
「罠、か…」
 そうして、結界があるという虚空を睨みつける。
「だから! さっきから何言ってんだよ! 何がどうなってんだか分かりやすく説明しろ!」
 一人全く理解できていない風祭が、短気を起こして声を荒げた。
 かと言って、それぐらいで恐れ入るような面子ではない。
「外側の結界は、内に閉じ込めるためのもの。内側の結界は、外からの侵入を拒むもの。あたし達は閉じ込められたんだよ」  桔梗が硬い表情で告げる。
「ふむ、行くもならず、引くもならず、か」
 九桐はきれいに剃り上げた形のよい頭を撫で上げながら呟く。
「それで先生は」
「梅月は内の結界の中にいる」
「まさか先生はもう捕らえられて…」
 心配げな口調とは裏腹に、どうやら腹の中では金勘定をしているらしい奈涸の言葉に、弥勒は吐き捨てるように応じる。
「あれがむざと捕まるようなタマか」
「では、何故?」
 九桐の問いに、弥勒は言下に答えた。
「この結界を破るため」
 端的に過ぎて、術師である桔梗以外の人間はまた首を傾げるはめになった。
「すまないが、もう少し分かりやすく説明してくれんか?」
 先ほどとは別の意味で眉間を押さえた九桐に、弥勒は明らかに面倒くさそうにだが、答えた。
「外から守る結界は、内側からの方が破り易い」
 色々なものが抜け落ちた説明は、だが、一人を除いてかろうじて意味が取れた。
「では先生はご自分で内側の結界に入って行ったと言うんだな」
 奈涸に問われて、弥勒は無言でうなずく。
 そうすると伝えられた訳ではないが、弥勒の中には確信がある。
「無論、あわよくば俺達を片付けて梅月をつれて帰るつもりだったのだろうが…」
「弥勒、先生は無事なのか」
 武芸の腕だけでは突破できない世界の話に焦りを隠せずに、九桐が尋ねる。
 しかし、弥勒は相変わらずの平坦な声で応じた。
「梅月が手に入ったと言うならば、とっくに俺達は片付けられているだろう」
 弥勒の言葉足らずはいつものことである程度の諦めが周囲にはあるが、この時ほどらいらさせられたことは少ないだろうと思われる。
 事態は急を要しているのだ。最初から全部説明して欲しいと誰もが思うが、それを弥勒に望むだけ無駄だ。
「桔梗、どうしたらいいんだ」
 九桐はとうとう桔梗に話を振った。
「結界の核を壊せば破れるけれど…でも、その核は当然内側にあるはずだよ」
 外の結界に入れたのにもかかわらず、内の結界はその存在すら感じ取ることが難しいと言うことは、彼らは内の結界にとっては招かれざる客と言うことだろう。
 外敵から守るための結界は、当然外からの攻撃に強く出来ている。内にいる者に招かれなければ、入り込むことも難しい。
「手の出しようがないってことか」
 奈涸が盛大に溜め息をつき、九桐は思わず天を仰いだ。
 桔梗は胸の前で手を握りしめ、唇を噛み締めた。
 そんな彼らの様子を見ていた風祭が、いらいらと言い出した。
「なあ、どうすんだよ、ぼさーっとここにつっ立っててもしょうがねえだろ!? 外から壊せないなんてわかんねえじゃねえか。もっかい気、ぶつけてみたらどうだよ」
 ここにいる全員分叩き込みゃどうにかなるんじゃねえの、と、もうすでにやる気満々の風祭を桔梗が止める。
「およし。さっきは隙ができてたところに叩き込んだからたまたま無事で済んだけど、完全な結界に下手に気をぶつけたら全部こっちに跳ね返ってきちまうよ」
 だが、答えたのは弥勒だった。
「それしかなさそうだな」
 と、虚空に手を伸ばし、目を瞑る。
「ちょ…弥勒! 人の話を聞いてたのかい!?」
 桔梗が慌てて着物の背中を引くが、
「少なくとも外に隙が出来たのだ、核である内にも隙がなくはなかろう」
 と、取り付く島もない。
「何をする気か知らないが、俺は巻き添えはごめんだぞ」
 と言う、身勝手とも思える奈涸の言葉には、
「せいぜい離れていろ」
 それで間に合うかどうかは知らんがな、と、言い捨てた。
「よくわかんねえけど、何か手伝えることがあるならするぜ」
「いらん」
 風祭のありがたい申し出も、けんもほろろだ。
 奈涸は九桐と顔を見合わせ、溜め息をつき、それぞれ立ち尽くす桔梗の手と風祭の襟首を取って、出来る限り弥勒から離れる。
「確かに、結界は生きているのだな」
 何もないように見えるのに、ある一点で前に進めなくなったことを確認して、九桐が顎を撫でながら呟く。
「二人が入ってこられたこと自体が奇跡に近いんだよ」
 どうなってもあたしは知らないよ、と、桔梗は顔を覆った。
 その瞬間、再び空間が揺れた。
「きゃっ」
 地震とは明らかに違う、空間のひずみを確かに感じる。
「伏せろ!」
 叫んだのは、九桐だった。
 死線を潜り抜けて来た者の勘が、最上級の警告を発していた。
 全員声もなく地に伏し、頭を腕で庇う。




















 一方四人を遠ざけた弥勒は、相変わらず目を閉じたまま、全ての感覚を指先に集中させ、虚空に手を滑らせていた。
 今も尚、弥勒には面しかない。
 例え、戦場でどれほど術師としての力を発揮しようとも、梅月に巫子なのだと諭されても、弥勒にとって弥勒自身はどこまでも面打ち以外の能を持たない人間だった。
 そして、それで充分だった。
 だが、少なくともこの事態は、自ら望んだものではないとは言え、確かに弥勒の存在が引き金になってしまったのだ。
 一方の当事者である梅月はともかく、残る四人を無事、戻してやる責任があるだろう。
 だから、弥勒は面師の自分に出来る最大限のことを成そうとしていた。
 すなわち、弥勒は木目を読むように気を読もうとしていたのだ。
 木目を読み違えれば、軽く刃を立てただけで木片は真っ二つになってしまう。
 逆に真っ二つにするには木目に沿って刃を立てればよい。
 弥勒は、結界を木片に見立てて木目を読み取ろうとしていた。
 壊せるかどうか分からないが、隙が出来れば、後は梅月が何とかするだろう。
 そして、もしも失敗して自分が倒れれば、御門とやらは目的を達したことになる。
 であれば、この結界も用無しになり、自ら解呪することになるだろう。
 どちらに転んでも、事は解決するのだから、やってみるだけの価値はある。
 だが、その考えを弥勒は口にしなかった。
 告げる必要を感じなかった。
 ただ、今自らに成し得ることを成せばそれでいいのだ。
 一言で言えば、面倒だったからなのだが。
 そして、弥勒はソレを見つける。
 指先に集中した意識にひっかかる、何か。
 術師としての訓練を受けていない、受ける気もない弥勒には説明できないが、だが、本能が告げる。
 弥勒はゆっくりと目を見開き、指先の位置を確認する。
 無言で肩掛けから鑿を取り出し、もう一度指先で位置を確認する。
 弥勒が虚空に鑿を突き立てる。















 刹那、閃光が迸り。
 ぱりん、ぱりん、と、玻璃が割れるような軽い音が鳴り響いた。



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