「お邪魔するよ」
村に入ってから桔梗達と別れた梅月は、当然のように村の外れにある弥勒の工房を訪れた。
いつものように声をかけ、戸を開けた途端、
「帰れ」
容赦ない一言が浴びせかけられる。
見れば、工房の隅で肩掛けを外そうとしていた弥勒が、梅月に冷たい視線を向けていた。
猫の目のように底光りする瞳は、だがすぐに外される。
「そんな、つれないことを言わないでおくれ」
梅月は苦笑する。
「それに悪いけれど、今日はとてもじゃないが帰れるほど体力は残っていないんだ」
それは、事実である。
意地で村までは自力で歩いてきたが、ここで一度気を抜いたら、しばらく動けなくなるのは目に見えている。
だから、本来であれば九桐や風祭を送ってくれた九角に礼を言うため、まずは館へ回るのが筋のところを、真っ直ぐ工房にやって来たのだ。
一気に呪力を使ってしまったのだから梅月の今の状態は当たり前と言えば当たり前なのだが、強力な術者のくせに比較的体力もある弥勒には理解できないことなのかもしれない。
弥勒は、とにかくいろいろと規格外の存在である。
「館にでも厄介になれ」
拒絶を告げる低い声と共に、戸口に張られた障壁が厚くなる。
弥勒の城である工房に入るためには、彼自身の許しが必要だ。
少なくとも、拒絶はされていない状態でなければ、梅月といえども入り込めない。
全く無意識の内に弥勒は結界までも創生している。
思わず梅月は溜め息を吐きそうになって、踏み止まる。
ここで弥勒の機嫌を損なうことがあれば、今回は本当に入れてもらえない気がしたからだ。
弥勒は、そっけないが少し甘いところもある。
一度上がり込んでしまえば翌朝までは叩き出されないで済むのが常だ。
とにかく、お茶の一杯でいいから工房に入り込もうと、梅月は猫なで声を出す。
「弥勒、頼むよ」
返事は、ない。
弥勒は肩掛けを棚に置き、そのまま更に奥へ引っ込んでしまう。
「冷たいことだね」
梅月はくたりとその場に膝をついた。
そろそろ本当に体力の限界だった。
着物が汚れてしまうと思いながら、戸に寄りかかって天を仰ぐと、抜けるような青空が広がっている。
遠くに子供達のはしゃぐ声が聞こえた。
先程までの戦闘など夢かと思う長閑な風景だが、体の疲労がなかったことにはしてくれない。
見上げた空には星が瞬く。
昼間であろうと梅月の目には星が見える。
だが。
今はそれだけだ。
星は、梅月に未来を告げない。
これまで見えない未来などなかった梅月にとって、両目を塞がれて歩かされているのも同然だ。
本来であれば、心細さと不安に打ち震えているところであるが、今はその不安を感じることさえも出来ないほど疲労していたのは、ある意味で幸いであったかもしれない。
そのまま立ち上がる気力もなく、ぼんやりと空を見上げたまま座り込み、いかほど経っただろうか。
人の気配にゆるゆると顔を上げると、戸口に立って見下ろしている弥勒と目が合った。
「いい加減にしろ」
いつも通りの無表情だったが、声にわずかだが呆れが滲んでいた。
「いつまでも軒先で蹲っていられては迷惑だ」
捨て犬でもあるまいし、と、弥勒は嫌味を連発する。
だが、梅月の面に生気が戻って来る。
「みっともないから入れ」
「入れてくれるのかい」
「茶を飲んだら出て行け」
身も蓋もない言葉だったが、梅月の表情が柔らかく綻ぶ。
「ありがとう」
「根負けしただけだ」
珍しいことに、微かに溜め息さえ吐いて。
別に梅月は粘っていた訳ではなく、本当に体力が尽きて身動き出来なかっただけなのだが。
立ち上がろうとして、体を支えきれずに地に手をついてしまう。
と、
「立てんのか」
「体力など使い果たしてしまったよ」
一晩寝れば治る程度だけれど、と、すぐに乱れた息の下告げると、右脇の下に手を当てられ、引き立たせられる。
その力強さに、梅月は驚く。
「…御門の結界を破壊した後だとはとても思えないね」
正直に告げると、
「鑿の一振り如きでいちいち体力など使い果たしていられるか」
何を言っているのだと言わんばかりの表情で、弥勒は言い捨てる。
「早く来い。茶が冷める」
言うが早いか踵を返し、さっさと工房へ戻ってしまう。
一人取り残された梅月は、危なっかしい足取りで後を追った。
結局、梅月はその夜弥勒の工房に泊まることになった。
お茶を飲んだ後に、引き起こされても立てもしない梅月を見て、弥勒はようやく本当に梅月が体力を使い果たしているのだと納得したらしい。
さすがに隻腕の弥勒には、自力で立てない相手をこの村外れの工房から館までも運ぶことは出来ず、諦めたようだった。
「情けない」
「君のように体力がある術師の方が特異なんだよ」
敷いてもらった自分用の布団に横になりながら、梅月は枕元に立つ弥勒に言い返した。
だが、その表情は満足げだ。
――館から人を呼んでまで、弥勒は梅月を叩き出そうとはしなかったから。
何一つ、余計な物は置きたくないと言い放った弥勒の工房に少しずつ増えて行く、梅月の足跡。
それは、自分の居場所など何処にもないのだと信じていた梅月にとってはとても幸せなことだった。
「明朝、自分で歩けるようならとっとと帰れ」
と、釘を刺されたが。
「分かっているよ」
梅月は目を閉じる。
「明日はきっと、大丈夫だから…今日はもう眠るよ」
「俺はまだしばらく起きている」
「そう…お休み」
それには答えず、弥勒は梅月の枕元から離れた。
梅月は目を閉じる。
とにかく今は眠りたかった。
夢も見ぬほどの深い眠りに――。