執着 十ニ



 久方ぶりに目通りが叶った母は、真琴が近寄ることも許されない御簾の向こうにいて、どのような表情をしているのか見えなかった。
 と言うよりも、物心ついた時から真琴は母の顔を直接見ることはなく、どんな顔立ちをしているのかさえ覚えていない。
 ただ、顔も姿も見ずとも、母が常に脅えていることだけは分かっていた。
 真琴の誰よりも鋭敏な感覚は、隠そうともしない感情に痛めつけられる。
 母は、常に自分の腹を痛めた子を恐れていた。
「母上」
 いくら乳母や女中達にかしずかれても、やはりどこか腫れ物に触るような気配は隠しきれない。
 まだ十になるかならぬかの年端もゆかぬ子供であった真琴は、どれほど恐れられようと母と言う存在を求めていた。
「もう少しお側にお寄りしてもよろしいですか?」
 秋月の家が、公家の中でも特別な家だとは知っていたのでどこか諦めもあったが、せめて、御簾ごしでももう少し近くにいたいと、広い座敷に面した廊下に座らされた真琴はいつも尋ねた。
 しかし、
「なりませぬぞえ、次期様」
 答えたのは、御簾の脇にいつも控えている老女である。
 実家からついてきた母の乳母だと言う。
 実は、真琴は母と直接言葉をかわした記憶がない。
 真琴が覚えている限り、必ず乳母やは御簾の向こうの母の傍らにおり、真琴が一歩たりとも近づくことも、直接言葉をかわすことも許さなかった。
 秋月のような家ともなれば、婚姻は本人の自由意志など二の次、三の次だ。
 少しでも強い星見を生み出すために、最も相応しい血筋の者が生まれながらに婚約者と定められ、時が満ちれば嫌も応もなく娶わせられる。
 真琴の母は、かつては帝の血筋も入った霊的家系として知られていながら、今は落ちぶれた家から無理矢理に嫁がされてきた人だった。
 そんないきさつが秋月を嫌わせ、そのとばっちりを受けた結果であったなら、まだ真琴も救われただろう。
 例えば、乳母やが二人の間を裂いているのだと思い込めたなら。
「それならばせめてお声だけでもお聞かせ下さい」
「おひい様へは全て私がお取り次ぎいたします」
 この乳母やは、ただただ、おひい様大事だけが取り柄の女だ。
「貴い御方が直接お言葉をかわすなど、それは無作法だと何度も申し上げましたでしょう、次期様」
 だが、そんな誤解は少なくとも真琴はしようがなかった。
 母はその血を見込まれて秋月に嫁に来ただけあって、わずかばかりといえども力の持ち主だった。
 生まれながらに強大な呪力を持ち、幼く未熟であるが故にまだ完全に呪力を御しきれぬ真琴の心には、母の悲鳴が常に流れ込んで来ていた。
 母は、いつも真琴を前にすると脅え叫んでいた。
 ――化け物、と。
 母はいつも、化け物を産み落としてしまった己の身の上を嘆き、悔やんでいた。





 いつも通り、座敷に一歩も踏み入れることも、一言もかわすことも出来ずに母への目通りを終えた真琴は、広大な庭の片隅で膝を抱えていた。
 秋月の本宅はその家格からすればありえぬほどに広大で、庭も迷子になるほど広かったが、その中でも庭木が生い茂って何処からも見えにくいそこは、真琴の絶好の隠れ場所だった。
 そこでいつも通り一人で膝とやるせない思いを抱えていた真琴は、近寄ってくる人の気配に顔を上げた。
「あの、化け物が!」
 びくり、と、真琴は体を震わせ、気配を消した。
 聞こえたのは、叔父の声だ。
 多少の星見の力は持っていたために、真琴の父と当主の座を争ったのだと聞く。
 そのせいか、一族の中でも真琴への当たりが一番きつく、いつでも真琴の揚げ足を探しているような男である。
「星見、先見のくせに、言霊まで操るなど」
 自分はまた何かしてしまったのだろうかと、真琴は考え込む。
 最近、自分の力に自覚が出てきたため、思いつくままに人の死期を口にしたり、癇癪を起こして言霊で使用人を傷つけたりはしていないはずだ。
 それでも無意識に何かしてしまったのかと考えてみる真琴の耳に、今度は叔母の声が届いた。
「あなた、落ち着かれませ」
「落ち着いてなどいられるか。アレが生きている限り、我が子に出る幕はないのだぞ」
 自分にとって恰好の隠れ場であるここは、他者にとっても同様なのだと真琴は知った。
「アレさえいなければ、後は有象無象でしかないものを・・・」
 真琴には同腹の兄弟はいないが、異腹のそれは数人いる。
 その誰もが呪力と言うほどでもないわずかな力しか持っていない。
 だが、それは今密談をしている叔父夫婦の子供達も対して変わらないはずだ。
 真琴は、星見になどなりたくない。
 自らの命を削らねばならない星見と言う存在の真実を知っているからだ。
 しかし、その真実を垣間見ることも叶わぬ者には、大きな権力を握ることになる星見――秋月家の当主の座は、喉から手が出るほど欲しいものらしい。
 真琴にとっては、全く理解不能だったが。
「また一服盛るか・・・」
「どうせまた失敗するに決まってますわ」
 お止めなさい、と、叔母がたしなめる。
「仕方ございませんわ、アレは計算づくで秋月が産み落とした化け物ですもの」
 ほほほ、と、叔母の嘲り笑う声に、真琴は両手で耳を塞いだ。
 だが、心の底からの声は、耳を通さずとも真琴の心に届いてしまった。
「実の親すら恐ろしがって近寄らない、人の皮を被った化け物」
 真琴は瞼をきつく閉じ、氷の彫像の様に動きを止める。
 好きなだけ罵詈雑言を吐いて満足し、叔父夫婦が戻って行くまで。
 凍りつかせていたのは体だけではない。
 心も、だ。
 そうでなければとても正気を保てなかった。
 叔父夫婦が離れ、他に人の気配がないことを確認してから、真琴は隠れ家を飛び出し、めちゃくちゃに叫びながら走り回る。
 そうしなければ、母を、叔父夫婦を、いや、自分以外の全てを呪いたい衝動を抑えきれなくなってしまう。
 自分が呪えば全てその通りになってしまうことを、もう真琴は知っており、それは許されぬことだとも知っている。
 そこまでは分かっていても、思うことすら許されない思いを静かに昇華する術など、幼い真琴に知りようはずもない。
 ただ狂ったように動き回り、体を苛め抜いて何も考えずに眠りにつくことぐらいしか、出来なかった。
 ために、また物狂いと陰口を叩かれることになっても。
 しかし。
「次期様!」
 背後から呼ばれて、真琴は走るのを止めた。
 その声で、何をしても許される贄が来たのだと知る。
 真琴は振り向いて微笑んだ。
 母親譲りだと言う美しい顔に仏のような笑みを口元に浮かべ、だが、瞳には狂気を宿らせて、相手を待ち受ける。
「次期様、ここにおわしましたか」
 水干姿の御門は、息を整える間もなく真琴の前に片膝をつく。
 見上げた御門を、真琴は爪を立てて力一杯ひっぱたいた。
 御門の頬に赤い蚯蚓腫れが浮く。
 いくら子供の力とは言え、加減の一つもする気もないのだからかなり痛いはずだ。
 だが、御門は何も言わずに頭を垂れる。
「ご無事でようございました」
 真琴が問う。
「お前は僕が好きか」
「はい、次期様は私にとって大切な方でございます」
 御門は何故とも問わずに答えた。
 いつものことだからだ。
 そうして、真琴は御門のきれいに整えた鬢を掴んで容赦なく引きずった。
「僕は嫌いだ」
 髪を引っ張られて倒れた御門を、真琴は蹴る。
「嫌いだ、皆」
 御門は抵抗もせずに真琴に蹴られている。
「嫌い」
 蹴りながら、真琴は音もなく泣く。
 自分が涙を流していることにも気づいているのかどうか。
 しばらくして、蹴りが止んだので御門が顔をあげると、放心した表情で座り込んだ真琴の姿があった。
 疲れ切ってそして心の昂ぶりも昇華したのだろう。
「次期様…」
 御門が手を差し伸べる。
 だが、
「触るな…」
 真琴はその手を払った。
「僕は誰も信じない…誰も好きになんかならない…」
 だが、そこで限界が訪れる。
 真琴の体がぐらりと傾ぐ。
 地面に倒れ込む前に、その小さな体を御門が受け止めた。
 薄れ行く意識の中で、真琴は確かに聞いた。
「それでよろしいのです、次期様。御身様は秋月の『星見』。欠けることのない『星見』であるために、誰にも心を許されてはなりませぬ…」 

十三

十一

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