執着 十三



 「うわあぁぁっ」
 梅月は自分の声で跳ね起きた。
 訳も分からず手が触れた何かを握り締め、肩で息をする。
 薄暗がりの中に見える風景は自分の屋敷でないことだけは確かだったが、すぐに思い出せない。
 一体何を自分はしていたのかとぼんやり考えていると、
「離せ」
 不機嫌な声に横面をひっぱたかれて、梅月はようやく本格的に覚醒した。
 慌てて声のした方を見ると、こんな時でも無表情な弥勒の顔がある。
「起こしてしまったかい?」
 自分で問うて愚問だと思った。
 何しろ叫んだ当の自分の目が覚めるほどの絶叫だ。
 隣で寝ていた弥勒はいい迷惑だっただろう。
「ああ」
 だが、弥勒はその点を責めることなく、再び告げた。
「そろそろ離せ」
「何を…?」
「腕だ」
 視線に促され目を落とすと、さっき握り締めた何かは弥勒の左腕だった。
 指先に自分のものではない鼓動を感じる。
「もう少し…もう少しだけこうしていていいかい? こうしていた方が落ち着くようだ」
 弥勒は答えなかったが、振り払わないことを了承と受け取って、梅月は指先に意識を集中する。
 昂ぶった意識があっという間に静まって行く。
 一人ではないことが快いと感じるようになったのは、龍斗に出会ってからだ。
 それだけでも、彼らと――弥勒と出会えたことを感謝するには充分だ。
 優しい彼らは、きっとどうして梅月があんな悲鳴を上げたのか、尋ねてくれることだろう。
 話すことで気が楽になることもあるからと。
 だが、弥勒はそれさえも尋ねない。
 それが梅月にとってどれほどありがたいことか、弥勒は分かっていないかもしれないが。
 だからだ。
「…昔の、夢を見てね」
 黙って聞いていてくれるから、きっとこうして自分のことを喋ってしまうのだ。
「僕にも随分繊細な子供時代があったのだと、思い出したよ」
 今はすっかりふてぶてしくなってしまったがね、と、自嘲しても、弥勒は、
「そうか」
 と、言うだけだ。
 そこに憐れみはない。
 それが梅月の心を楽にさせる。
 梅月は、握り締めていた弥勒の腕を離して、改めてその左手を両手で押しいただき、呟いた。
「戻りたくない…」
 鑿を握る弥勒の左手は硬く、存在感を持っていた。
「戻ってたまるものか…あんな家に。僕のことは化け物だとしか思っていないくせに、いないと都合が悪くなった途端、摺り寄って来る」
「君が決めることだ」
 梅月が顔を上げると、弥勒と目が合った。
 弥勒は相変わらずの感情を感じさせない顔つきで、梅月を見返している。
 我知らず、梅月の口から言葉が零れる。
「一緒に来てくれないか。そうしたら、何とかあの家でもやって行けそうな気がするのだけれど」
「断る」
 言下に弥勒は答えた。
「そんな即答しなくても。少しは考えてくれてもいいのではないかい?」
「考えるまでもない」
 梅月の頬が引きつる。
 だが、弥勒は忖度する様子もない。
「どうして? 何の不自由もさせないよ。工房だって別に建てさせるし、誰にも手など出させないよ」
 出来るだけ優しい声音でかき口説いてみたが、弥勒には迷いがない。
「面を打つにはここがよい」
 知っていた答えだ。
 それでも梅月の中で何かが弾ける。
「面、面…いつだって君は面ばかりだね」
 梅月はにこりと笑って弥勒の手を離し、そしてその首に手をかけた。
「ねえ、このまま絞め殺したら、君は僕のものになるのかな」
 まだ絞め殺すには全く至らないが、少し手に力を込めてみる。
 しかし、弥勒は平板な声で言い放った。
「無理だ、君には殺せない」
「ひ弱な僕には無理だと?」
 梅月は更に両手に力を込めた。
「そうじゃない」
 さすがに弥勒の表情が変わったが、それでも首を絞められている割には随分冷静だった。
「誰も俺を殺せない。俺自身でさえ。俺を殺せるのは面だけだ」
 さもなくば、利き腕をなくした時に死んでいる、と、弥勒は言った。
「………そうだね、その通りだ」
 普通なら、片腕を斬り落とされた時点で助からなかっただろう。
 職人の命である利き腕を失いながら、それでも命長らえたのは、多分、それが神につけられた徴だからだ。
 ぱたり、と、梅月の手が布団の上に落ちる。
「君を、面から奪うことは出来ないのか」
「無理だろう」
「それで君はいいのかい、弥勒。面に縛られたまま一生を終える気なのかい」
「そんなことは考えたこともない」
 弥勒はまるで何事もなかったかのように、布団に横になった。
「それが俺だ。君が君であるようにな」
 弥勒は寝返りを打って、梅月に背を向ける。
 程なくして、規則正しい寝息が聞こえてきた。
 梅月は、その背中を見つめたまま、まんじりともせず夜明けを迎えた。

十四

十ニ

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