執着 十四



 「おや、先生はもう帰ったのか?」
 昨日の弱りようからして、今日一日ぐらいは養生しないと無理だと思ったんだがな、と、三和土に立った奈涸が言う。
 しかし、
「帰した」
 と、日当たりのいい縁側に布団を広げながら、こともなげに弥勒は答えた。
 確かに、工房には気配さえも残っていない。
 随分前に出ていったものらしい。
 いや、叩き出したの間違いか。
 まだ午前で、遊び人で知られる梅月の活動時間ではないことは重々承知しているから、奈涸は苦笑せざるを得ない。
「それで、これからどうするんだ」
「別にどうも」
 奈涸の問いに、弥勒はちゃぶ台の上の湯呑みを片付け、急須に白湯を注ぎながら簡単に答えた。
「いらんのか」
 三和土に立ち尽くしたままの奈涸に、新しい湯呑みにお茶を煎れ終えた弥勒が声をかける。
 本人に自覚があるのかどうかは判然とせぬが、どうやら機嫌があまりよくないらしい。
 弥勒はまるで感情と言うものの持ち合わせがないかのようだが、実際のところそういう訳でもないことを奈涸は知っている。
 ただあまりにも感情の波の幅が狭すぎて、周囲に分かりにくいだけだ。
 いや、ことによると一番弥勒の感情の揺れに気がついていないのは、弥勒自身かもしれない。
 気がついていないと言うよりは、頓着する気がないと言うべきか。
 何にせよ、商売人として他人の気持ちを見抜く必要がある奈涸がかなり注意深く観察してようやく分かるぐらいだから、相当に分かりにくいことだけは間違いないが。
「ああ、貰うよ」
 奈涸は音も立てずに工房に上がり込み、湯呑みが置かれたちゃぶ台の前に座った。
 脇に、持参した少彦の酒を置く。
「せっかく長屋から探し出して来たのにな」
 先生なら気前よく買って下さっただろうに、と、奈涸は実に残念そうに呟いて、お茶を一口啜った。
 明らかに二番煎じの番茶の味がした。
「……先生でないと出端を煎れてくれんのか、お前は」
 思わず嫌味を吐いた奈涸に、弥勒は微かに右の眉尻を上げて応じた。
「君は今まで一度も文句など言わなかったはずだ」
 その言葉に、思わず奈涸は愕然として呟いた。
「もしかして、言えば換えてもらえたのか」
「言われもせんことを何故やらねばならん」
 面倒な、と、弥勒は眉間に縦じわを寄せた。
「言っても無駄だと思っていたから言わなかっただけだ。換えてくれ」
 驚愕の事実に、奈涸は思わず飲み差しの湯呑みを差し出す。
 骨董の中でも焼き物に最も興味があるおかげで、そういう場に出ることが多い奈涸は、梅月ほどではないにしてもお茶の味にはうるさい方だ。
 だが、弥勒はにべもない。
「次に煎れる時は換える」
 縦のものを横にもしない弥勒の発言、だがとても弥勒らしい言葉に、思わず奈涸は安堵の溜め息を吐く。
 むしろ、言われたからと言って素直に諾と言う弥勒の方が、奈涸には違和感がある。
 龍斗を除けば、間違いなく弥勒との付き合いが最も長く、けして浅くもない奈涸が違和感を感じるのだから、何かが変わっているはずだ。
 奈涸はつらつらと昔のことを思い出してみる。
 確か、弥勒があんまりにも出がらしの番茶を出してきたので文句を言ったことがあった。
「以前、俺が出がらしに文句を言った時は、まだ飲める、とか言っていたような気がするが」
「君はしつこくないからな」
 そう言って、弥勒は無表情に二番煎じを啜った。
 思い込みではなかったらしい。
 梅月はよほど粘ったのだろう。
 すべからく一日千秋の如き弥勒を根負けさせたのだから。
 しかし。
 いや、と、奈涸は思う。
 例えば自分がひたすら粘ったとして、弥勒が根負けしただろうか。
 何となくだが、しなかったような気がするのだ。
 梅月にとって弥勒が特別な存在であることは傍目にあからさまで、それと比べると随分分かりにくいが、弥勒にとっても梅月は何か特別なのだ。
 さもなくば。
 奈涸は弥勒の首に視線を走らせる。
 弥勒の首には、くっきりと指の跡が残っていた。
 御門の結界から帰還した時にはなかったもので、その後弥勒は梅月以外には会っていないはずだ。
 だとすれば答えは一つ。
 奈涸や龍斗のような、弥勒よりも体術に優れた者が相手ではなく、実戦には最も向いていない梅月なのだ。
 いくら弥勒が隻腕とは言え、振り払えない相手ではない。
 もしも何とも思わぬ相手なら、いくら生き死ににすら無頓着な弥勒といえども、首を絞められておとなしくなどしているまい、と思う。
 奈涸自身、弥勒にとって特別な位置にいることは分かっているが、多分、奈涸の位置と梅月の位置は、同じ特別でもまた別なのだ。
 奈涸は思わず太い息を吐いた。
「今日これから、いや、しばらくの間、人に会う予定はあるか」
「別にないが」
「もしも表に出る用事があるなら、いや、あろうがなかろうがしばらく首にさらしでも巻いておけ」
 奈涸の心からの忠告に、弥勒はこともなげに答えた。
「別に見られたところで…」
 しかも、跡が残っていることを弥勒がちゃんと知った上で、無造作に晒していたことを知り、奈涸は再び太い息を吐いた。
「…いちいち勘ぐられる方が、お前は面倒だろう」
 すると、
「確かに。気をつける」
 と、弥勒は得心がいったとばかりにうなずいた。
 あくまでどちらがより面倒くさくないか、と言う判断基準でしか捕えていない弥勒に、思わず奈涸はちゃぶ台になつく。
 もっとも、そう知っていて、奈涸もわざとそういう言い回しをしたのだが。
 分かっていても、唯人とは一線を画する弥勒の感性に、脱力を禁じ得ない。
 その時だ。
 弥勒がぼそりと言った。
「元々あちらの問題だ。あちらで何とかするだろう」
 奈涸は慌てて起き上がって、まじまじと弥勒を見る。
 弥勒は相変わらず能面よりも感情を感じさせない表情をしていた。
「は?」
 口から出てきたのは間の抜けた声だけで、一体弥勒が何を言い出したのか意味を取りかねたのだ。
 だが、そんな奈涸の様子など一切忖度せず、弥勒がぼそぼそと抑揚に乏しい声で呟いた。
「出来るのは、せいぜい背中を押してやるぐらいだ。君も、俺でも」
 奈涸は眉を寄せた。
 ようやく思い当たった。
 中断してしまった奈涸の問いに、弥勒は今になって答えたのだ。
「…難儀なことだ」
「全くだ」
 ようやく絞り出した言葉に、渋い表情で弥勒がうなずく。
 奈涸の真意を分かっているのかいないのか、全く計りかねるほど弥勒は無表情なままだ。
 奈涸は三度、溜め息を吐いた。

十五

十三

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