執着 十五



 弥勒に叩き出されて渋々屋敷に戻って来た梅月は、落ち着く間もなく来客を告げられた。
「御門?」
「はい、なかなか立派な身形の方ですが・・・」
 名前を聞いた途端にくいと眉を上げた梅月の剣幕に驚いて、じいやが人相風体を説明しようとしたが、
「ああ、知っているよ。ただ意外だったのでね。一人かい?」
「はい」
「では、客間に通して、お茶でも出して置きなさい」
 梅月はいつものきれいな笑顔を浮かべて指示を出し、じいやを追い払った。
「また随分といい頃合いに来たものだ」
 低く呟く。
 梅月の動きは逐一見張っているとでも言いたげだ。
 梅月はことさらゆっくりと煙管に火を点け、紫煙を燻らせた。
 星は、詠めない。
 物心ついた時から詠めた物が全く詠めなくなってしまい、視力を失ったかのようなそんな心細さはやはり振り払えない。
 だがそれは、己が力で自らの望む未来、最善ではなくともよりよい未来を引き寄せられるということなのだと、自分に言い聞かせる。
 そしてそれこそが、人が人である証なのであろう。
 梅月の力は、けして『星見』だけではない。
 魑魅魍魎の跋扈する政の世界をこの年まで生き延びた才覚もあるはずだ。
 梅月は唇から煙管を離して引き結ぶ。
 手近にあった火鉢を引き寄せ、煙管の火種を落とした。 
「負けはしないよ」
 そう呟いて。
 裾を払って立ち上がり、客間へと向かった。





 「星見の君におかれましては、御無事で何より」
 たっぷり半刻は待たせて現れた梅月に何事もないかのように平伏した御門へ、梅月は冷ややかに言い放つ。
「よくも僕の前に顔が出せたものだね」
 梅月は汚らわしいものを見る目つきで応じた。
「どうやら、僕が思っていたよりも随分と厚い面の皮をしているようだ」
 恥を知れ、と、言外に告げる梅月に、御門はうそぶいた。
「何をおっしゃっていらっしゃるのか分かりかねまする」
「まず言うべきことがあるだろうと言っている」
 梅月は言った。
「僕の友人達に迷惑をかけたことに対する謝罪はないのかい」
 しかし、
「損害を被ったのは、こちらだと思いますが」
 御門は真顔で応じた。
「特に大陰は、まともに動けるようになるまで随分かかりましょう。あれではいざと言う時に星見の君をお守り出来ませぬ」
 と。
「それだけかい」
 梅月が目を眇める。
 だが、御門はしらりと言ってのける。
「私にとって大切な方は星見の君ただお一人。その他のことまではとても気が回りませぬ」
 御門の言い分が、どれほど傲慢で勝手なものか、今の梅月にはよく分かる。
 自分がもはやかつての自分ではないことは、梅月自身がよく知っている。
 そして、変化することは、悪くないことだとも。
 己が変わらなければ、未来も変わりはしないと知ったからだ。
 未来を変えたいと望むなら、まず己が変わらねばならない。
 その瞬間、一つの顔が脳裏に浮かぶ。
 自らが変わることを望まず、それ故に変わらぬ未来を受け入れてしまっている男。
 梅月の先見の力を全く必要としない男。
 並の者ならあそこまで思い切ることは出来ない。
 だからこそ、梅月にとっては彼が特別なのだ。
 そして、正反対の意味で、御門は梅月にとって特別だ。
 梅月が秋月の星見でなければ、その存在の意義すら保てぬ男。
 御門の時は、梅月が出奔したその時点で止まってしまっている。
 御門にとって、秋月を出奔する以前の真琴こそが、星見たる秋月真琴のあるべき姿であり、霞梅月と言う存在は邪魔なだけだ。
 御門にとっては未来は元より、今この時すらも不要なのだ。
 しかし、時を見通す梅月にも、時を巻き戻すことは出来ない。
 出来たところでする気もない。
 だから梅月にとって御門は、今や不倶戴天の敵である。
「自業自得を僕らに擦りつけるな。陰を性とする大陰に、陽たる男性の形を与えて送り込んできたのはお前だ」
 大陰は、現世においては本来女性の形を与えられる。
 ところが、陰性に相反する陽たる男性の形を与えられたのだから、その力の全てを十全に発揮するには至らなかったはずだ。
 無論、梅月の身を慮っての手加減であったことは想像に難くない。
 それはさすがに忸怩たるものがあったらしい。
 御門は眉を顰めて呟いた。
「全く、あれほどの力を持っていることが分かっておれば、まともな大陰は元より、更に二、三体送り込みましたものを」
 だがすぐに、御門は優しく微笑んだ。
「星見の君は、あの面師をお傍に置かれることをお望みなのでしょう」
 梅月は、努めて無表情を装った。
 内心では、誘惑の嵐を退けることに懸命だったが、表情には出さなかったと思う。
 ことが弥勒に関わることだけに、慎重にならざるを得なかった。
 そんな梅月の内心を知ってか知らずか、御門が言った。
「いかがでしょう、あの面師が秋月に入れるよう、私が皆様を説得すると申し上げたら」
 それは、想定していた申し出だった。
 御門が譲歩したように思われるが、その実、上手くいけば梅月の身柄を押さえた上に、梅月に対して人質を取ることが出来る。
 弥勒の存在をどう思っているかは不明だが、梅月の身柄を押さえることを至上命題とすれば、御門にとっては一石二鳥の案である。
 だが。
「話にならないね」
 梅月は首を横に振った。
 途端、御門がさっと顔色を変えた。
「私には皆様を説得出来ぬとおっしゃられますのか」
 秋月に対する自らの影響力を侮られたと取ったようだ。
 梅月は秋月に残る親族達の力を思い返す。
 先代がわずかばかりましな部類であったが、真琴が元服する頃にはもう、力が枯渇しかかっていた。
 他の親族は言わずもがな。
 恐らく、未来見についても御門の秋月に対する貢献は多大なものがあろう。
 碌な力を持たぬ親族よりはよほど、御門は秋月の中で発言力を得ているだろうことは容易に想像出来る。
 しかし、
「そう言うことではない」
 御門の視線は秋月にしか向いておらず、弥勒にも意思があるなどとは微塵も思ってもいないのだ。
 その視野の狭さに、梅月は怒りよりもむしろ哀れみを感じる。
「お前がどう思おうと、秋月が何を言おうと、その前に彼が今の暮らしを変えはせぬ」
 梅月は静かに言った。
 梅月自身、こんな事態になるずっと前から、梅月の屋敷へ移り住むよう散々口説いていたのだ。
 しかし弥勒はけして肯ぜず、今も鬼哭村に工房を構え続けている。
 弥勒は動かないと言った。
 ならば、けして動くまい。
 御門がどんな手を使って引きずり出そうとしても。
 どれほど梅月が傍らにあって欲しいと望んだとしても。
 だから梅月は首を横に振るのだ。
 その気になれば言霊で人心まで縛ることも可能な梅月をして、縛ることが出来ない数少ない存在の一人が、弥勒だ。
 何故梅月にさえ弥勒を縛れぬのか、その理由は梅月にも分からない。
 だが事実として、弥勒は面以外の何者からも自由なのだ。
「僕自身も、あの碌な能力も持たぬくせに欲の皮ばかりが突っ張った親族の中に戻る気はない。だからお前の提案は、交渉にもなり得ぬ話だ」
「しかしっ」
「そう急くな」
 言い募ろうとする御門を梅月は軽くいなす。
「交渉の余地が全くないとは、言わぬ」
 意味ありげに視線を投げると、御門が居住まいを正した。
 ここが正念場と察したのだろう。
 何しろ梅月が初めて交渉を受け入れる姿勢を示したのだ。
「秋月が欲しいのは、『星見』の力だけだろう。力だけならば、貸してやらなくもないよ」
「それは…」
「僕は霞梅月のまま。秋月では今まで通り表向きの当主を立てておけばいい。そして僕でなければ手に負えぬような先見が必要な時のみ、力を貸してやってもよい」
 梅月はきっぱりと言った。
「僕に出来る譲歩はそこまでだ」
 御門が大きく目を見開いた。
 わずかに肩が震えている。
 先ほどとは逆に、御門にとっては話にならない程度の譲歩なのだろうが、梅月にはそれ以上一歩も引く気がないことを悟ったのだろう。
「どうしたね」
 表面ばかりは優しい声音で尋ねる梅月へ、御門は感情を押し殺した声で言う。
「これはしたり。ご助力をいただこうにも、京と江戸とでは時がかかりすぎまする」
「お前なら式神の一つも飛ばせば問題なかろう…と、言いたいところだが、心配はないよ。それほど遠くない内に、江戸は東の都となる。その時には秋月も京より下ることになる」
「…ご存知でしたか」
 梅月は、にこりときれいな笑顔を浮かべた。
 梅月が詠めぬのは、自分が深く思い入れているこの顛末だけである。
 それ以外の事柄ならば、詠めぬ星は今もない。
 いや、その気になれば出奔する前よりも、より先の事を正確に詠み取ることが出来るようになっている。
 共鳴する相手を得、力ははるかに増している。
 星見の度に命を削る梅月にとっては諸刃の剣であったが。
「そもそも大抵は僕の星見に頼らずとも、お前の先見で事足りよう」
 それほど難しいことを彼奴等が知りたがるとは思えぬな、と、梅月は遠く西方を見やる目つきをした。
「…全て御見通しと」
「やはり秋月には話が通っているのだな。だからお前は焦っているのだろう?」
 幕府に朝廷、それに島津本家辺りならば秋月の名前ぐらいは聞いたことがあろうな、と、梅月は皮肉な笑みを口元に刻む。
 御門が小さく溜め息を吐いた。
「それだけ御力を増す媒介とあれば、あのような下賎の輩に肩入れなさるのも無理からぬことではありますな」
 御門の言葉に、梅月は目を眇めた。
「口を慎みたまえ。不愉快だ」
 だが、御門は従わなかった。
 弥勒と言う存在は御門にとって本来取るに足らぬもので、梅月が執着しているからこそ意味があるだけに、弥勒に対する理解は浅い。
 そして、梅月の弥勒への思い入れに対する理解も、また。
「どこの馬の骨ともつかぬ者のようですが、確かに彼の者の抱える純粋な陰気と『場』は魅力です。あれがお側にあれば、星見の君の御力の増しようも得心が参ります。星見の君のものでさえなくば、私が捕えておりましたでしょう」
 弥勒をただの媒介としか捕えていない御門の言葉が、梅月の神経を逆撫でる。
「僕のものなどではない、彼自身以外、彼の主にはなれぬ」
 しかし梅月は努めて平静な声を出した。
 普段はほとんど意識することすらない自制心を総動員して、暴発しそうな怒りを身の内に留める。
「言うことを聞かぬとおっしゃるならば、いっそ心など奪ってしまえばよろしかろうに」
 だが、そんな梅月の内心を知ってか知らずか、御門は梅月を追い詰める。
「彼の者の『場』は、魂とは切り離されたもの。むしろ今の魂を引き剥がし、そうして従順で、あの『場』と陰気を使いこなすことの出来る魂を依り憑かせれば――例えば、陰を性とする神将のいずれかを依り憑かせれば、従順で何よりも力溢れた式となるは必定。さすがは星見の君、御目が高い」
 と、それが至上の策であるように――事実、御門にとっては至上の案なのだろうが――一人悦にいる御門の前で、梅月は刹那、言葉を失った。
 自分を主と慕い、従順な視線を向ける弥勒の姿を脳裏に描いてみる。





 ――――――――――ぞっとした。





 「戯言を抜かすな!」
 梅月は恐怖のあまりに弾かれたように立ち上がり、腹の底から叫ぶ。
「僕が欲しいのは彼の形代ではない! 彼ではない何かなどいらんのだ!」
 冗談ではなかった。
 いくら姿形は変わらぬとて、それはもはや弥勒ではない何かだ。
 たった一つなのだ。
 梅月に媚もせず阿りもせず、かと言って梅月を恐れもせず、憐れみもせず。
 そんな魂の有り様こそに惹かれていると言うのに、その魂を捨てろと言うのか。
 梅月の握り締めた拳は、関節が白くなっていた。
 だが、そんな梅月を前にして、御門は平然と言い放った。
「なれば、体は私が頂いて、あれの魂は御渡ししましょう。魂のみとなれば、永遠に御身の傍らに寄り添いましょう」
 かっ、と、目の奥で火花が散った。
 その瞬間、かろうじて暴発を抑え込んでいた理性の箍が弾け飛ぶ。
「貴様…」
 梅月は殺意の光を両眼に浮かべた。
「死ね! もう貴様などいらぬ! この世からとく去ね!」
 その、声は。
 口から零れ出た言霊を、そのまま実現化する力に満ちていた。
 それこそが言霊を操る梅月の本来の力である。
 別に、句や詩と言う形を与えずとも、言霊はただその音のみ、形のみで力を秘めている。
 梅月の声は、純粋な言霊の力を解放する。
 言霊は、その音が、形が届く限り、その言葉を理解する者に対して力を揮う。
 いや、音も形もなくとも、梅月ほどの言霊使いであれば心に浮かべただけでも力を発現させてしまうのだ。
 だからこそ、梅月は句を短冊に書きつけると言う非常に限定された方法のみに言霊の力を封じてきた。
 さもなくば、梅月のちょっとした感情の揺らぎで簡単に他人を傷つけてしまう。
 今までは心の片隅に、かつて兄のように慕った男に対して、梅月にも多少の躊躇いがあった。
 だが、はっきりと御門を敵と認識し、心の底から目障りな敵の消滅を願う梅月は言霊の力を全て解放した。
 もしも梅月が先立って客間に結界を張っていなければ、無関係な使用人にさえ悪影響が出かねぬ程の力が、客間の中に吹き荒れる。
 まして、目の前で正面から梅月の意思を不意に叩き付けられた御門は、いくら彼が実力のある陰陽師であるとは言え、生きて帰れるはずがなかった。
 しかし。
「やはり、な」
 自らの言霊の力に封印を掛け直しながら呟く梅月の前に、一枚の形代がはらりと舞った。
 今まで梅月の前にいたのは、御門の式神だ。
 だが、式とは言え、語られた言葉は御門の意思そのものだ。
「舐められたものだ」
 梅月は怒りを湛えた双眸を半眼に閉じる。
「僕の力を侮った対価は支払ってもらうよ」
 梅月が畳の上に落ちた形代を拾い上げた瞬間、一組の男女の断末魔の叫びが梅月の耳に響いた。
 と、同時に、形代が砂に変じ、さらさらと形を失っていく。
「神将二人か…もう一人ぐらい削ぎ落としておきたかったけれど、まあ、今はこれだけでよかろうよ」
 くっと、梅月は口元を笑みの形に歪めた。
 言霊の力は音なり形なりが届きさえすれば力を発揮する。
 御門は、式を打って梅月の屋敷と空間を繋げた。
 その御門の繋げた空間を伝って、今度は御門自身に梅月は呪いの言霊を放ったのだ。
 梅月の耳に届いた男女の絶叫は、呪いの言霊から御門を守るために、身を呈して守った十二神将のいずれかのものだろう。
 御門自身であってくれれば話は簡単になるが、残念ながら男の声は御門のものではなかった。
 無論神将の体は仮の器でしかなく、大陰のようにしばらく復活に時間がかかるだけであろうが、時さえ稼げればよい。
 それに、いくら神将が体を張って庇ったとは言え、心の底からその死を願った梅月の呪いを受けては、御門といえども全くの無事ではあるまい。
 だが。
「これだけ僕を怒らせたのだ。その報いは受けてもらうよ」
 梅月が呟く。
 その美しい顔に、夜叉の面をつけて。

十六

十四

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