※この回は、弥勒の過去を思いっきり捏造しておりますので、ご注意下さい。


執着 弐十



 肩越しに見やると、御門がうつむいている。
 動く気配もない。
「御門」
 別れを告げたからには一刻も早くこの場を離れたいと言うのに、動かぬ御門を非難の意を込めて梅月は呼ぶ。
 すると。
「なりませぬ…心を残しては」
 地を這うほどに低い声が絞り出される。
「心を残してしまっては、全く意味がない!」
 叫んで御門は弥勒へ視線を投げつけた。
「貴様のせいだ! 貴様のせいで我が君は完全無欠なる星見の力を手放さなければならなくなったのだ!」
「御門、何の世迷言を! 早く来い!」
 背筋を駆け抜ける嫌な予感に梅月が声を荒げたが、その声すらも御門の耳には届いていないようだった。
 血走った御門の目が、狂気の光に染まっている。
「貴様が、貴様さえいなければ、我が君は誰も心にかけることなどなかった!!」
 御門はまるで虫が炎に引き寄せられるかのように、立ち尽くす弥勒の傍へ歩を進める。
「星見の君は、誰も愛してはならぬのだ!」
 尽くしても尽くしても、けして振り向かれることなく、あまつさえ家ごと打ち捨てられたやる方ない思いが結界の中に満ちる。
「我が君が誰も愛さなければ、私は耐えられたのに!」
 血を吐く如きの叫びだった。
 だが、実に理不尽で一方的な思いだ。
 それは愛などではない。 
 執着、いや、妄執と言うべき狂った思いに、百戦錬磨であるはずの誰もが一瞬竦んだ。
 その一瞬が、命取りであった。
「お前さえ死ねば我が君は真の星見で在れるのだ!」
 御門が懐剣の鞘を払った。
 術が跳ね返されるのならば、腕力に物を言わせるしかない。
 生粋の術師である御門は腕に自信などなかったが、相手が身動きもままならぬのならば話は別だ。
 真っ先に動いたのは奈涸である。
 問答無用で騰蛇の肩を踏み台にして跳んだが、いかんせん距離がありすぎた。
 投げた苦無は御門の袖を掠めたが、その動きを封じることは叶わない。
「おやめ!」
「吾子様、なりません!」
 奈涸よりは近くにいた桔梗も駆け寄ろうとしたが、先ほどとは逆に六合に抱き止められてしまう。
「御門、止めろ!」
 梅月が言霊を放ったが、御門の動きの方が早かった。
「死ね!」
 凶刃が弥勒へと振り下ろされる。
「ええい、お放し! 弥勒!」
 桔梗の声に金属同士が擦れ合う高い音が重なった。
「え…?」
「な…」
 梅月と桔梗が大きく目を見開いた。
 奈涸さえも呆然と立ち尽くす。
 御門の懐剣を弥勒の五十猛が受け止めていた。
「下らんな」
 弥勒の薄い唇が動いて言葉を紡ぎ出す。
 振り下ろした刃を受け止められた御門が叫んだ。
「何故、動ける!?」
 術が切れた訳ではない証拠に、鑿を握る手首の戒めは、青い火花を散らして弥勒の肌を焼いている。
 しかし、弥勒は苦痛の色も見せずに、告げる。
「俺は梅月に見捨てろと言った。それでも梅月が自らの意思で選ぶのなら、仕方のないことだ」
「動くなと言っているだろう! このっ、動くな!」
「しかし、強いて受諾させながら、自ら反故にし、己の欲望を満たさんとする手駒にされるのはまっぴらごめんだ」
 恐怖に駆られたように喚き続ける御門を真正面においてさえ、弥勒は眉一つ動かさない。
「どうして…?」
 梅月が呆けたように呟く。
 梅月の結界の中とは言え、結界に入る前に施されてしまった御門の術は、まだ確かに生きていた。
 名は、その存在の根幹を示す最も短い呪である。
 名を取られて逆らえるほど、御門は生半な術師ではない。
 そのはずなのに。
「多少は俺の周りを嗅ぎ回っていたようだが、大した調べではなかったようだな」
「弥勒万斎! 動くな!」
「それは俺の名ではない」
 鸚鵡のように繰り返し叫ぶ御門へ、弥勒はぴしゃりと言って五十猛を払う。
「わっ」
 元々荒事など慣れていない御門は、払われて簡単に尻餅をついた。
「敵を知り、己を知らば、百戦して危うからず。それが戦の基本だと軍師殿が言っていたが、お前はその基本を疎かにしたようだ」
 倒れた御門の前に立ちはだかる弥勒が、口元を歪める。
 どうやら笑ったらしい。
 梅月は、背中を冷たい手で撫でられたように体を震わせた。
 禍々しさを秘めた嫌な笑い方だった。
 そうして。
「弥勒万斎と言う面師が江戸にあった」
 唐突な語り出しに、全員が首を傾げた。
「弥勒は面を打ち始めると寝食忘れるような男だった」
「今更何を言って…」
 まるで他人事のような語り口に、ようよう立ち上がった御門が目の前で吐き捨てたが、弥勒は構わずに語を継ぐ。
「面師としての名はそこそこ知れていたが、それ以上に変わり者で知れた碌でなしで、人付き合いなどほとんどなかった。妻は呆れ果て、男を作って逃げた」
 奈涸が視線だけで梅月に問う。
 梅月は首を横に振った。
 梅月がどれほど強請っても、弥勒はけして過去を語ろうとはしなかった。
 恐らくは、誰もが始めて聞く弥勒の過去である。
 が。
「他に暮らしの面倒を見てくれる身寄りはなく、当たり前のように早死にした」
 あくまで淡々と語られた言葉に弥勒以外の者は目を剥く。
 弥勒は確かに生きている。
 それでは、今、弥勒の口から語られる『弥勒』は一体何者なのだ。
「実は弥勒には子が一人あった。その子供に残されたのは、わずかの金と面打ちの道具、そして門前の小僧で身につけた面打ちの技だけ。子供は食うために面を打ったが、あまりにも幼すぎた。子供の新作を誰もが父親の遺作だと思った。自分が打ったのだと言っても、誰も取り合ってはくれなかった」
 抑揚の少ない低い声が、闇に吸い込まれて行く。
 いくつもの篝火を焚いて充分に明るいはずなのに、梅月は足元から闇に侵食されていく錯覚を覚える。
 只一人、弥勒だけが変わらずの無表情で語り続けている。
「いつしか子供は大人になり、弥勒万斎と言う面師が死んだことは忘れ去られ、子供は、自分の新作の箱書きに弥勒菩薩の図を描くようになった。父親がそうしていたようにな」
 梅月が口を開いた。
 声が震えた。
「まさかその子供が…」
「俺だ」
 弥勒の答えは明快だった。
 また、うっそりと微笑う。
 そんな弥勒を、御門は化け物を見る目つきで見て、叫んだ。
「それでは、お前の名は!」
「物心つく前に逃げた母の記憶はなく、父は死ぬまで一度たりとて俺の名を呼んだことはない。二人きりであれば名などいらん」
 だから、と、弥勒が告げる。
「俺には名がない」
 桔梗の口から小さな悲鳴が漏れた。
 それは梅月達のような術者にとってはありうべからざることだ。
 名は、その存在を定義し、安定させるもの。
 この世に存在するありとあらゆるものが持たねばならぬもの。
 それが言霊であり、ために全ては名に縛られる。
「だけど、あんた、弥勒って!」
 桔梗が叫ぶ。
 そちらを一瞥だけして、弥勒は言った。
「借り物だ。本当に何もないと不便でな。だが、自分で『弥勒万斎』とは箱書きしたことさえ一度とてないな」
 奈涸が唸る。
 思い返すに弥勒の箱書きは弥勒菩薩の図だけで、落款もなかった。
「だから俺はただの面師だと言っているだろう」
 名さえ持たぬ、ただ、面師であると言う存在――
 梅月は全てを悟る。
 いくら偶然に目覚めた力とは言え、術師である弥勒が簡単に名乗るのは、それが自分の名ではないからだ。
 名を持たぬから、御門は元より、梅月さえも弥勒を縛れなかったのだ。
 無限と言えるほどの場を持ち、力を揮いながら、気を制御出来ぬのを不思議に思ってもいた。
 弥勒はこの世に確かに存在しているのに、名を持たぬ故に弥勒は、何者でもなく、同時に全てであるのだ。
 弥勒自身だけが、それを知っていたのだ。

弐十壱

十九

■ 外法帖小説一覧 ■

■ 地図 ■