執着 弐十壱



 そうして弥勒は、御門に相対し、五十猛を構えて言った。
「さあ、これでも俺を縛れるものなら縛ってみろ」
 その声は、共に修羅場を潜り抜けた桔梗や奈涸でさえも聞いたことがないほどの、深い憤りを帯びていた。
 そう、弥勒は表情にこそ出さなかったが、怒り狂っていたのだ。
「どうした、縛らんのか」
 弥勒の全身から発する鬼気に気圧されているのか、動かぬ御門へ弥勒は一歩踏み出した。
「ならばこちらから行くぞ」
 その途端。
「な、何だ…?」
 陰に属する神将達がまず声をあげた。
 弥勒を中心として、陰の気が渦を巻き始めている。
 最初は小さな渦だった。
 だが次第に大きくなり、力そのもので成り立っている神将達を引き寄せ始める。
「ぎゃあああぁぁぁ!」
 弥勒を中心に渦巻く陰気は、陰を性とする神将達を全て巻き込んだ。
 そして、
「吾子様、いかがなさいましたか」
「あたしの中の陰気が…引き寄せられる…」
 倒れそうになる桔梗を六合が抱きかかえる。
 その隣で、奈涸が膝をついた。
「まさか、実体のある俺達の陰気さえ引き寄せてるのか?」
「よせ、弥勒!」
 枷を持たぬ故に限界を知らぬ弥勒の力が、この場にある全ての陰気を取り込もうとしていることに、梅月は気づいた。
「限界を超えたら、器が壊れる!」
 いくら枷を持たぬ弥勒の魂に限界がなくとも、実体を持つ以上、魄には自ずと限界があるはずなのだ。
 だが、弥勒は聞く耳を持たない。
 それとも陰の気に遮られて、本当に聞こえていないのか。
「これで終わりだ」
 五十猛を構える弥勒の前で、太裳が御門の傍らに駆けつける。
「主!」
「舞楽、蘭陵王」
 弥勒の唇が言霊を放つ。
 その刹那、昏い閃光が結界に満ちた。
「弥勒!!」
「真・玄武変!」
 爆風に吹き飛ばされて倒れた梅月の上に、奈涸が覆い被さる。
 随分長い間、力の暴風が吹き荒れていたように感じられたが、実際はほんの瞬く間のことだったのかもしれない。
「先生、そろそろ大丈夫そうですよ」
 まだ玄武の姿のままの奈涸に促され、梅月は目を開けた。
 辺りは真の闇と、息をすることも憚られるほどの静寂に包まれている。
 梅月は懐から懐紙を取り出し、手妻で火をつけた。
 そのわずかな光だけでも、美しく整えられていた庭は惨状と言って差し支えない有様になっていることが分かった。
 庭土は抉れ、篝火は勿論、草木も全て薙ぎ倒されている。
 思わず息を呑むと、闇の中から桔梗の声がした。
「先生! 奈涸! 無事かい!?」
 二人顔を見合わせ声のした方へ駆け寄ると、一番深く土が抉れているところに、狐火を引き連れた桔梗が膝をついている。
「ああ、よかった、無事だったんだね」
 さすがに土埃に塗れてはいるが、怪我らしい怪我はしていないらしい桔梗の様子に、梅月はほっと息を吐く。
「六合が庇ってくれたからね。それより弥勒の手当てを手伝っとくれ」
 桔梗の前には弥勒が仰向けに倒れていた。
 見回すと、少し離れたところに御門がうつ伏せに倒れていたが、神将の姿はない。
 ただ、その背にちぎれた紙屑が散らばっているだけだ。
 陽を性とする神将達に庇われた御門の生死は見た目では分からなかったが、もはや梅月にとっては取るに足らないことだった。
 梅月はすぐに視線を弥勒へと戻す。
 鑿を握ったままの弥勒の左腕は、血に塗れている。
 特に御門の術による枷をつけられた手首の辺りの傷がひどいが、枷そのものは四散したようだ
 これも無事だったらしい三味線を取り出す桔梗の横顔が緊迫している。
 玄武から人の身に戻った奈涸も、どこに持っていたのか治療のための道具を取り出す。
「弥勒、聞こえるか」
 止血を施す奈涸の呼びかけに、答えはない。
 三味線をかき鳴らし回復の術をかける桔梗の加勢をしようと短冊を取り出した梅月の背に、掠れた声がかかった。
「星見の君…ご無事でございますか…」
 その声に。
「おや、生きていたのかい」
 梅月は肩越しに振り向いて、微笑んだ。
「死んでくれればもっと面倒がなかったのにね」
 しぶといことだと、続けた言葉は、ある意味感嘆に満ちていた。
「生きていたところで僕と君との取引は無効だけれど」
 梅月の言葉に、両腕で体を支える御門の表情が歪む。
 どうやら自力では立ち上がれないらしい。
 だが、
「それでも…」
「くどい」
 食い下がろうとする御門を、梅月はきっぱりと切って捨てた。
「神将を盾にしただけあって、随分元気があるね。余りにも聞き分けが悪いなら、僕にも覚悟がある」
 言いながら、梅月は懐から小柄を取り出し、鞘を払った。
「非力な僕では誰も殺められはせぬが、己を殺めることぐらいは出来るんだよ」
 と、刃を喉元に押し当てた。
「我が君!」
 血を吐くような叫びにも、梅月は顔の一筋動かさない。
 奈涸と桔梗は一瞬梅月に視線を向けたが、すぐに弥勒へと戻す。
 梅月の決断にけして口を挟まぬという意思表示なのだろう。
 その態度に、梅月はひとまず心の中で感謝する。
 梅月は瞬間目を伏せ、そうして御門に迫る。
「さあ、どうする」
「………承知いたしました」
「成約だ」
 絞り出した言葉に、梅月の言霊が枷をかける。
「この約定は僕自身によってなる。例えお前達の代が変わろうと、違えたならば僕と言う星見は失われるものと思え」
 梅月はぱちりと小柄を納め、懐にしまった。
 一分の隙もないことを悟って気力も奪われたのか、御門は力なく項垂れて、そのまま倒れ伏した。
 その姿を冷ややかに見下ろして、
「いつまでも僕の視界の中で寝ていられるのも不快だな」
 と、梅月が短冊に何事か書き付け、三体の式を呼び出した。
「二人はそれを客間に連れて行って、手当てをしてやれ。残りはこの辺りの後片付けを頼むよ」
 言いつけられた式は音もなく動き出す。
 その行方を確かめることもなく、梅月は弥勒の手当てをしている桔梗達の傍らに歩み寄る。
「様子はどうだい?」
「もう命の心配はありませんよ」
 とは言いつつ、まだ三味線を構えたままの桔梗が応じる。
 弥勒はどうやら自力で座っていられるほどには回復したようだが、五十猛を握り締めた左手の指を解こうと、奈涸が悪戦苦闘している。
 五十猛、とは言っても、刃を失い、柄だけしか残っていない。
 本来の術具である面の代役としては、弥勒が集めたありったけの陰気に耐え切れなかったのだろう。
「弥勒、まさか指が…」
 弥勒の武器の中では最も頑丈な五十猛が跡形もなく吹き飛んでしまったのだ。
 梅月の懸念は無理からぬことであったが、
「いえ、恐らくは緊張で硬くなっているだけだと思いますが…どうだ、弥勒」
 答えたのは奈涸で、ようやく柄を取り上げた後に弥勒へ問う。
「とりあえず腱は切れていないようだ」
 弥勒は、ゆっくりとだが指を一本一本動かした。
 一同がほっとする中、弥勒は次に肘と手首を曲げ、肩まで回した。
 それには周囲が蒼白になる。
 痛みは生半可なものではないはず。
 それなのに、弥勒は表情一つ変えない。
 痛みすら、麻痺しているのかもしれない。
「弥勒、お止め。それじゃ傷が広がっちまうよ」
 桔梗が血に汚れるのも構わずに肩を押さえたが、弥勒は、
「腱さえ切れてなければ問題ない」
 相変わらずの無表情で呟いた。
「腕一本斬り落とされる痛みに比べれば大したことではない」
 思わず誰もが言葉を失った。
 実際に右腕を失っている弥勒の言葉は、諌めることも、混ぜっ返すことも出来なかった。
 息を詰めるような沈黙の中、奈涸が太い息を吐いた。
「それでも見ているこちらの心臓に悪い。やめろ」
 と、腕を押さえて再び止血を始める。
 それでようやく、空気がほぐれた。
 後の始末は奈涸で充分と見て取ったのか、桔梗は三味線をしまいながら、梅月に言う。
「先生、あちらが待っているんじゃありませんか」
「あれも多少手当てはしてやらなければならないからね。少しぐらい待たせてちょうどよいぐらいだ」
 言って、梅月は目を伏せて小さく頭を下げた。
「すまない。巻き込んで君達には随分迷惑をかけた」
 それが聞こえたか否かは判然とせぬが、奈涸は弥勒の腕に包帯を巻く手は止めずに問うた。
「まあ、少なくとも命に被害は出ませんでしたからね。それで希望が叶ったならよろしいんじゃありませんか」
 無論、この御代は高くつきますがね、と、奈涸は不敵な笑顔を浮かべる。
「覚悟してるよ」
 梅月は苦笑して、改めて奈涸と桔梗、そして弥勒を見回す。
 それでも失いたくなかったんだ、僕は――初めて得た仲間と言うものを。
 口の中だけで呟く。
 恐らく、告げることはない思いだ。
「ところで、弥勒も早くどこかに移して、きちんと治療した方がいいんじゃありませんか」
 奈涸が、梅月を現実に引き戻す。
 白かったはずの包帯は、既に赤く染まりつつあり、元来よくない弥勒の顔色が、更に悪くなっている。
「そうだね。早くちゃんと治してあげないと、あっさりあの世に行っちまいそうだからね」
 簡単に行かせてなるもんか、と、桔梗に厳しい口調で言われ、弥勒が視線を上げだが、口に出しては何も言わなかった。
「それならば」
 と、梅月が手を叩くと、先程後始末を命じた式が現れた。
「この三人を離れに案内しておくれ。それと、彼らが必要な物は、何でも用意するように」
「は」
 式は短く答え、弥勒達を案内していく。
 かなり危うい足取りながら、弥勒は自分の足で歩いていた。
 それであの二人がついていれば、まず問題はないだろう。
 三人の後姿を見送りながら、梅月は心の中で呟いた。
 ――守るのだ。
 ――何をしても。自分自身を売り渡しても。
 自分自身以外に大切な物などなかった梅月にとって、それは人生がひっくり返るほどの決意である。
 自らと引き換えにでも守りたいと思えるような存在が出来たのだと思う梅月の口元は、きつく引き結ばれていた。

弐十弐

弐十

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