「あ、神谷さんの欠場、載ってるよ」
開けっ放しの扉から部室に足を踏み入れた途端、名前を呼ばれて神谷は顔を上げた。
見ると、後輩共がテーブルの上にスポーツ新聞を広げている。
呼ばれた訳ではなかったらしい。神谷がロッカーの前で着替え始めても、それが神谷だとは気づいてない。
鈍すぎる後輩共に内心で舌打ちしながら、神谷は着替え始める。
話題の記事には、神谷も目を通していた。
県予選の初戦で右膝を痛め、四回戦を欠場した自分の状態が心配だと書き立てる記事が、うざくて、斜めに読んだだけで捨ててしまった。
本来、目立ちたがり屋だと言う自覚はある。
だから自分のことが記事になれば、よほど叩かれでもしない限りはいつもうれしいものなのに、今回に限ってどうしてイラつくのか理由が分からなくて、どうも座りが悪かった。
「けっ、たかが怪我ぐれぇで…」
「何、言ってんだよ」
ピクリ、と、着替える神谷の肩が揺れる。いわゆる『耳ダンボ』状態だ。
その声は聞き間違いようがない、と言うか、後輩の中で神谷を正面切って毒づく勇気があるのは白石しかいない。
一方、それをなだめるのはその時々だが、今回は平松の声が白石の語尾に重なった。
まあ、いつもの会話だ。
そしていつもなら、神谷が光速で白石をどつくところだ。
それがこの二人のコミュニケーション方法なのだから仕方ない。
白石はケンカ慣れしているから、やはりケンカ慣れしている神谷にはどつきがいがある。
協会のお偉いにバレたら面倒だが、殴ろうが蹴ろうがダメージの少ない――懲りないとも言い、たまには懲りろとも思う――白石を神谷がどついても、誰も何も言わない。
試合中に神谷が白石の胸倉をつかんで内緒話をしていても、味方さえもどついているとしか思わない辺りは困った話である。
それはさておき。
神谷はこの時も勿論、白石をどつくつもりで振り向いた。
白石を思いっきりどついたら、心のモヤモヤも晴れるかもしれない、と言う、八つ当たりも多分に含まれている。
飛んで火に入る夏の虫だ。
が、硬く拳を握った瞬間、聞こえた言葉で神谷の動きが止まった。
「今、神谷さんまで抜けたら掛川はキツイよ。トシがいなくて確実に得点力が落ちてるんだから。実際、昨日だってけっこう危なかったじゃないか」
テーブルの周りで額を寄せ合った後輩共は、背後で凍り付いている神谷にまるで気がつかずしゃべり続ける。
「でもなー、すごいよな。たかが地方予選なのに新聞に載っちゃうんだから」
「そりゃ、神谷さんだから。ユースの指令塔になろうかって天才プレーヤーの怪我だもん」
「何が神谷だ、俺様だってユースの正GK…」
ゴン、と、平松が白石に拳骨を食らわせる。この期に及んで、まだ後輩共は神谷の存在に気づいていない。
「ホントに、トシは突然スペインに行きたいなんて言い出すし、神谷さんがいなかったら、今頃掛川はどうなっていたか…」
「だよなー、神谷さんあっての掛川だもんなー」
神谷の口が、何か言いたげに開いた。
しかし、すぐにへの字に口を引き結び、ジャージをつかんで、神谷は開きっぱなしのドアからグラウンドへ滑り出た。
外は雲一つない快晴だった。
照りつける日差しに、目を細める。
今は、その青空にさえムカついた。
青空は、神谷にとって一番深い記憶と結びついている。
「天才、か…」
自分が『天才』などと呼ばれるようになったのはいつからだろう。
少なくとも選手権の時、そんな風に言われた記憶はない。
それはそうだ、その言葉がもっと似合う奴を、みんなが知っていた。
今も、『天才』が自分の形容詞としてふさわしいとは思えない。
それが似合うのはただ一人。
久保嘉晴。
去年の今頃は、あれほど騒がれていたと言うのに。
確か、『帝王vs天才』などと言う記事も雑誌に載ったはずだ。
あの頃、世間にとって掛川というチームは『久保の掛川』だった。
けして『掛川の久保』ではなかった。
久保が認められるのはうれしかった。
久保は確かに、『天才』の名に恥じない、プレーヤーであり、キャプテンであり、監督であり、コーチだったから。
けれど、久保ばかりが誉めそやされるのが悔しかったのも事実だ。
だから必死で練習した。追いつくために。いつか追い抜くために。
それは今も変わらない。
でもそれは『神谷の掛川』などと言われたかったからではなかった。
あの頃、『久保の掛川』と言われる久保の気持ちなんか考えたこともなかった。
自分が、そういう立場にいなかったから、思いつきもしなかった。
褒められて、うれしくないことがあるなんて。
自分自身が認められる事と、自分の夢が認められる事が別ものだなんて。
そんな事、知らなかった。
「けったくそワリィ」
吐き捨てて、神谷が歩き始める。
グラウンドを横切って、部室とは反対側にあるフェンスへと。
できるだけ早く、部室から離れたかった。
しかし痛めたてホヤホヤの右膝は、神谷の思うようには動かない。
何もかも思うようにならない現実を、痛めた右膝が象徴しているようだった。
イライラしながらようやくフェンスに辿り着いた途端、崩れるように座り込む。
無理矢理急がせた右膝が、休息を要求していた。
「くっそ、このバカ膝が」
ズキズキ痛む膝に毒づいても、痛みは引かない。
膝の間に顔を埋めて、小さく呟く。
「…間違ったのか? 間違ってるのか、俺は? 叶えたいのに。お前と見た夢を…」