それは、よくある事故だった。
足へ向かってしまったタックルを避けて、神谷がボールごと跳ぶ。
宙で放ったパスは、きれいに前線へと繋がった。
プレーヤーとして評価が上がれば上がるほど、マークはきつくなる。
まして、掛川から要注意人物が一人減っている今、浮いたマークを投入してくるのは当然のことだ。
何しろ評価されるようになったのはつい最近の事とは言え、神谷の実力はとうの昔に高校レベルを超えてる。
並の高校生では一人二人のマークでは足りない。
そんなことは誰よりも神谷が一番理解しているし、マークを自分に寄せることも仕事の一つだった。
だから、運悪くタックルが足に向かってしまったところでどうと言うこともない。
自分が避ければいいだけのことだ。
しかし、この時は本当に運が悪かった。
着地の瞬間、敵が止まり切れずに飛び込んできたのだ。
運が悪いのは、飛び込まれた方か、飛び込んでしまった方か。
恐らく双方共だが、ダメージは飛び込まれた方が大きかった。
「ヤバ…」
骨が鳴る鈍い音がした瞬間、呟いたのはどちらだったか。
フィールドに右膝を抱えて倒れた『掛川の闘将』神谷の姿に、スタンドから悲鳴に似た声が上がる。
だが、試合は止まらない。
横になった神谷の視界で、ゴールバーを大きく越えたボールが、青空に吸い込まれた。
ワンプレイが終わって、ようやく試合がストップする。
「神谷っ」
真っ先に駆け寄ってきたのは、大塚だった。
「大丈夫か!?」
大塚は、神谷の必要以上に意地っ張りで見栄っ張りで、何だかんだと言いつつ責任を放棄できない性格を熟知している。
その神谷が人前で転がったままでいるなど、大丈夫な訳がないから真っ先に駆けつけたのに、つい、大丈夫かと言ってしまう。
そんなどうでもいい矛盾に気を取られる辺り、自分はかなり動転していると、大塚は自覚した。
果たして、神谷は右膝を抱えたまま、うめく。
「畜生、着地に失敗した…」
神谷の言葉に大塚が答えるより早く、衝突した相手が反応した。
「神谷選手、怪我したんスか!? オレが、神谷選手にぶつかったから!? ど、どうしよう、神谷選手に怪我させたなんてっ。でもわざとじゃないんスよっ。オ、オレは、わ…」
「気にすんな、よくある事故だ」
神谷に怪我をさせたことで、真っ青になってパニックを起している相手を前にして、むしろ大塚は冷静になった。
何より、神谷神谷と連呼されるのが耳障りで、相手の言葉尻をひったくる。
その時、下から袖をつかまれた。見れば、神谷が自分の袖をつかんで上半身を起こしていた。
「神谷、立てるか」
「…手、貸せ」
大塚が右側から体を支える。
だが、神谷は自力で立てなかった。
この頃になると敵も味方も関係無く集まって来ていて、スタンドも騒然としている。
レフェリーの要請でタンカが出てくると蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
タンカが出て来る前に、神谷は指示を出していた。
自分の代わりに一年の坪谷をレフトハーフに入れ、ゲームメイクは大塚に任せる。
心配そうな顔に囲まれてタンカに乗せられ、医務室へ連れ去られる前に、神谷は大塚の腕をつかんだ。
「何だ、怪我人。さっさと退場しろ」
憎まれ口を叩く大塚に、
「攻めろ」
と、神谷は一言だけ、言った。
神谷が連れ去られて、掛川イレブンは半ば呆然としていた。
しかも最後の一言はあまりに端的すぎて、ほとんど謎だ。
その時、大分上の方から声が落ちてきた。
「守りは僕に任せて。その代わり、みんな攻めることだけ考えて」
そう檄を飛ばすのは、いつも穏やかなことで知られる赤堀だった。
DFとしては県内で三本の指に入る彼は、人の考えを読むことに長けていた。
神谷の意図に最初に気がつくのはいつも赤堀で、神谷の言葉を少しだけ分かりやすく通訳するのも彼だった。
「大塚も、守りは忘れて。要はこっちが攻められなければいいんだから」
この辺りで大塚も神谷の言いたかったことを理解する。
「あのヤロ、俺をディフェンシブにしたのはどこのどいつだ」
「それは、後で本人に言ってね」
大塚と赤堀はすばやく視線を交わした。
アイコンタクトを身につけている掛川イレブンの中でも、中学来の親友である二人だから、一番思うことが伝わる。
そして、互いに同じことを考えていると確信する。
思わず知らず、表情が険しくなった。
大塚の怖い顔はいつものことだが、この時は赤堀までもが怖い顔をしていた。
試合再開の為にそれぞれのポジションに戻っても、それは変わらなかった。
二人には、神谷の危惧が見えてしまった。
そして、気持ちが切り替えられないでいるイレブンの表情で、それが当たっていることを確信してしまった。
掛川イレブンにとって、神谷は常にチームの中心にいるべきプレーヤーであり、いなくなることがあるなど考えてもいなかったのだ。
だが、この一年、孤軍奮闘しなければならなくなった神谷を支え続けた二人は違った。
いつ、誰が出られなくなっても不思議はないのだ。
それを去年、思い知らされた。
神谷がチームの要であることは揺るがしようがない。
けれど、それと神谷に頼り切ってしまうことは、全く別だ。
神谷がいなくなっても『掛川』の持ち味が失われてはいけない。
県の三回戦でそれが出来なければ、今後はもっと神谷一人に負担がかかっていくだろう。
選手権の決勝のように。
去年のインハイ予選の、久保のように。
そこまで考えて、赤堀は身震いした。
久保のように、神谷まで永遠に失いたくない。
命はあっても、サッカーが出来なくなる可能性なんていくらでもある。
実際、この試合で神谷の危惧が実現してしまえば、神谷は今後も試合に出続けようとするだろう。
膝の状態がどんなに悪かろうと。
神谷は何も言わないが、この最後のインハイ予選を負ける訳にはいかないと考えているだろうことは聞くまでもないことだった。
それは、センターサークル付近でボールを受けた大塚も同じ思いだった。正直、いきなりゲームメイクを考えるのは辛い。
それでもやらなければならない。
神谷を休ませる為には。
「畜生、見せてやろうじゃねえか、俺様の実力」
呟いて、大塚は前線にパスを送った。