ふっ、と、神谷が息を吐いた。
「別に大塚だけが悪い訳じゃねえさ。前に出したパスが戻って来るんじゃしょうがねえよ」
神谷はフェンスに背を預けて晴れ渡る青空を仰いだ。
「誰か一人が悪いってだけなら、こんな悩まねーよ」
いや、本当は自分が悪いのだと、神谷は思っている。
そして神谷がそう考えていることを、大塚と赤堀は知っている。
「ゲームメイクもな、本当なら馬堀辺りに任せたいんだけどな…」
監督もコーチも置かず、自分達だけでチーム作りをすると決めた。
あの時、選手の育成に関する責任も負った。
「怪我してさ、実はラッキーとも思った。サッカーやれねえのがキツイけど、これで大手を振って、奴らに任せられるって。でもな…負ける訳には、いかねえから」
確かに、決断の時には一人ではなかったけれど。
一人になってしまった時に、そのまま突っ走ったのは、自分。
ならば、現状に対する責任は負わねばならない。
そしてそれこそが、最大の問題だった。
神谷は頭をばりばりとかいた。
「ったく、平松とかよ、どうして田仲を押しのけてでも点を取ろうとしねえんだよ。今なんてその田仲がいねえんだぜ。チャンスじゃねえか。それなのにボールを持ってもセンタリングを上げることだけ考えてやがる。何で昨日、大塚が2点も取ってんだよ」
勿論、神谷も一人で全てをやってきたなどとは思っていない。
そうなら、今、大塚と赤堀は神谷と並んでいないだろう。
また、『掛川』というチームが完成しているとも思わない。
まだ発展途上のチームなのだ。
とは言え、『発展途上』では済まされないほどにバランスが崩れていることが、神谷には見えてしまった。
神谷自身が、フィールドから消える事によって。
こういう事が、以前にもあった。
ちょうど一年前。
久保が、フィールドから、消えて。
久保のいない『久保の掛川』を立て直すのは、気の遠くなるような作業だった。
みんな、久保に依存しすぎていた。
神谷自身も含めて。
それは、二度と久保がフィールドに立つ事はないのだと、心と体に刻み込むことだった。
そうしなければ、もういない久保を頼ってしまう。
久保の不在を覚え込ませるまでに、数ヶ月を要した。
そう仕向けたのは神谷だった。
そしてそんな神谷を支え続けた大塚と赤堀も、時間が戻りかけていることに気がついた。
『掛川』がまた、チームの要という以上に、神谷に依存していることに。
訪れる、沈黙。だが、吹き抜ける生暖かい風が、沈黙を連れ去った。
「俺は…間違ってるのか? 何か、間違ったか。俺達は――」
神谷の呟きに、大塚と赤堀は押し黙り、神谷から視線をそらす。
二人共、知っていた。神谷の言う『俺達』が、この三人ではないことを。
「確かによ、褒められたら悪い気はしねえよ。って言うか、俺はおだてられりゃ木に登るタイプだからさ。勝って、褒められりゃ嬉しいし、楽しいさ。でも、俺だけが褒められたって仕方ねえんだよ」
答えはない。
独り言のような神谷の呟きは続く。
「俺達は、全員がそれぞれの持ち味を最大限に発揮できる、楽しいサッカーをやりたかった。一試合でも多く楽しいサッカーをしたいから、勝ちたいと思う。…勝つためだけのサッカーに。勝つことでしか俺達の正しさは証明できないしな」
神谷の脳裏に、一つのセリフがよみがえる。
『君が、久保に見えた』
神谷は、久保ではない。
久保になれるとも思わない。
あんな化け物は、なろうと思ってなるものではないのだ。
だが自分は無意識に、同じものになろうとしているのではないか。
同じ目的を目指すのではなく、同じ手段を取ることで。
そんなこと、出来るはずもないのに。
時間が戻ってしまったのか。
神谷の時間だけでなく。
あまりにも鮮烈すぎて、誰もが彼を忘れられないが為に、彼を知らない者まで巻き込んで。
神谷は鈍く痛む右膝を抱えて、目を閉じた。
「だけど、俺達の正しさを証明する為に、勝つためだけのサッカーなんかしたくねえんだよ。勝つために、誰かに頼り切って、そいつが抜けたら勝てなくなる…楽しくないサッカーしかできないチームなんか作りたかった訳じゃないんだ」
赤堀は、何も言わずに空を見上げる。
青空に大きな白い雲が一つ、浮いていた。
「頼られるのは、いい気分だよ、正直なとこ。でも、俺がいなくなっただけでオタオタするようじゃ、そんなんじゃ、ダメなんだ…」
淡々としているからこそ、血を吐くような呟き。
一年前のあの時から、神谷をただ見守るだけでは済まさないと、大塚も赤堀も決めていた。
二人分の夢を抱えて歩む決心を、神谷がしたように。
だから必死で言葉を探す。けれど、出てきたのは――、
「明日、ぜってえ槍降るな」
「何だとぅ?」
「お前がヘタに落ち込んでっと座りがワリィの。……お前らの理想は高すぎんだよ」
大塚も、フェンスに体を預けて青空を見上げた。
さりげなく、大塚が複数形で呼んだ事を、神谷は気づいたか。
「オーダーを入れ替えて、同じチームでありながら、全く別のチームのように機能する、っていうには、もっといろんなパターンを作っていかなきゃいかないし、それにはもっと人数がいるよね。特に、ゲームを組み立てられる人間が」
「でも、まだ掛川にはそれだけの人数がいねえ。その理想に共鳴する人間を増やすには、勝って見せなきゃいけない。勝つ楽しさ、ってんのもあるからな。勝たなきゃいけなくなると、人間、確実性を頼りたくなる。点を取ったら守りたくなる。そうすると勝つために勝つサッカーになり易いな」
赤堀と大塚の理性的な言葉に、神谷は頭を抱える。
「言ってくれるな。分かってんだよ、んなことは」
大塚は、視線だけを神谷に落として言う。
「思うんだけどよ、お前らの理想って、ワールドカップで優勝するより難しいんじゃねえ?」
「そうかもねえ」
うんうんと頷く赤堀を、神谷は恨めし気な目で見上げた。
「言ってくれるじゃねえか」
「今更、お世辞言ってもしょうがないでしょ」
「言って欲しいなら、言ってやるぞ」
「いらん」
「でも、大丈夫だと思うよ」
ぶすくれる神谷へ、赤堀が笑いかけた。
もっとも赤堀の表情は、笑ってもいつもとほとんど変わらないのだが。
「僕は掛川に入らなければ、自分が試合で点を取れるなんて思わなかったからね。でも今は結構クセになってるから、点を取るの。やっぱり、点を取るのは気持ちいいよ。ま、僕の場合、守るの好きなんだけどさ、自分で点が取れるもんなら取りたいよね」
「そらそうだ。俺だって中学ん時は自分がMFになるなんて夢にも思わなかったぜ。そんなこと、出来ねえと思ってたからな。それが出来ると教えてくれたのは、神谷、お前だ」
大塚の顔が、少し赤い。
しかし、神谷は涼しい顔で切り返した。
「…マジで明日、槍降るかも」
ずっと空を見上げていた大塚が、体ごと神谷に向き直った。
「慰めてやってるっつうに、どうしてお前はそう恩知らずかなぁっ」
「お返しだっ。…それに、俺が教えた訳じゃない。俺も、教えてもらったんだ」
大塚を手先で振り払いながら、神谷が遠い目をした。
「俺は…自由に好きなようにサッカーをやりたかった。個人技優先のはずのクラブでも好きなようには出来なかった。その願望に、形を与えてくれたのは、久保だ」
がりがりと、神谷は髪をかき回す。
「俺は、久保の夢を叶えるつもりだった。でも、この怪我をして初めて、久保の夢を叶えるどころか、離れてるんじゃねえかと不安になった。久保がいる時は、久保が誉められると、うれしいし、自慢だったし、でも負けるもんか今に見てろよ、なんて思ってた。だけど今んなって、俺だけが持ち上げられるとイラついてよ。久保もそうだったんかな、なんて思い始めて。アイツのこと、何一つ分かってやってなかったって、今更思い知らされて…遅えよな」
最後は、声に自嘲が滲んだ。
けれど、返って来たのはいっそ朗らかな声で。
「そうなんじゃない? 悩んでたでしょ」
赤堀がいつもの笑顔で神谷を見下ろしていた。
「仕方ねえだろ、そんな難しいことを自分でぶち上げちまったんだからよ」
大塚は、苦笑気味だ。
「知ってたのか?」
憮然とした神谷の問いに、赤堀は首を横に振る。
「まさか。今、そうだろうなって、思っただけ」
「んな、誰かの事を全部分かるなんてあるはずねえだろ。中学校からの付き合いでも、俺は強の事、全部知ってる訳じゃねえ」
「大塚は分かりやすいけどね。でも、全部なんか分からないよ」
「第一、久保はあんだけの大がかりな隠し事してた訳だからな。何もかも、隠してただろうよ。…一つバレたら、全部バレるかもしんねえから」
「そう、だな…」
それでも、自分だけには言って欲しかったと思ってしまうのは、思い上がりなのだろうか。
自分だけは、久保にとって特別だったと思いたい、この気持ちは。
神谷は無意識にTシャツの袖を握り締めていた。
指の関節が白くなるほどに。
その手をそっと見やって、大塚が赤堀に視線を送る。
「僕は神谷が言うから、そう思ったんだよ。久保はやっぱり、一番神谷の事を信用してたはずだから」
そして赤堀は毅然として言った。
「やっぱり僕達は神谷にも教えてもらったよ。いろんな事をね。それに、神谷だけじゃない。僕も久保が形にした夢を叶えたいと思うよ。そりゃ、役者不足かもしれないけど」
「そんなこと、ある訳ねえだろ」
神谷が、笑う。まだ少し翳りのある笑顔で。
「赤堀がいなけりゃ、どうにもなんない場面がいくつあったよ」
「ほう。じゃ、俺は?」
面白がる大塚に、神谷は余裕で切り返した。
「俺は正直者だからなあ、お世辞は言えねえな」
「けっ、このひねくれ大魔王が。かわいくないねえ」
「ヤロウにかわいいなんて言われたかねえよ」
大塚と神谷はにらみ合い、次の瞬間吹き出した。
つられて、赤堀も笑い出す。
ひとしきり笑った後、大塚が突然言い出した。
「そろそろ、あんなこむつかしい夢に巻き込んでくれた面が見てえな」
「あっちはいつも見てるんだろうけどね、あの雲の上辺りでさ」
赤堀の言葉に、神谷が即答する。
「見てる訳ねえだろ」
「そうかな」
「どうせあっちでもサッカーやってんに決まってんだ。こっち見てる暇なんかねえだろ」
「違いねえ」
「ったく、いい御身分だよな、こっちはこんなに悩んでるってのによ」
今度はうっすらと笑った。全てを明るく笑い飛ばせるほど、まだ傷は癒えていない。
いや、一生癒えることはないのかもしれない。
けれど、それなら今度は、同じ過ちは繰り返さないだろう。
神谷は一人で抱え込まないだろうし、大塚や赤堀は神谷に抱え込まさせないだろう。
今日のように。
大塚が、伸びをしながら言う。
「久々に久保にグチたれに行くか」
「そうだね」
「じゃ、シゴキは明日っからだな」
「は?」
「は?」
立ち上がる神谷の呟きに、二人同時に首を傾げる。
すると、神谷はしてやったりの表情になった。
「決まってんだろ。昨日みたいな試合見せられたら、自覚が出るまでシゴくしかねえ。大会中だって関係ねえよ。それで負けたら元も子もない」
返す言葉を失って、口をあんぐり開ける二人のうち、神谷は大塚の肩を叩いた。
「お前もな、まだしばらくゲームメイクやってもらわなきゃいけないんでな。しかも促成栽培だからな。仕方ねえから高校ナンバーワン指令塔の俺様が、直々に手取り足取り教えてやる」
ありがたく思えよ、と言って、ニヤリと笑う。
「んな、聞いてねえぞ、コラッ」
「行くならさっさと行こうぜ。チンタラやってる時間はねえからな」
「イジメ反対! 横暴反対!」
「神谷ぁ」
「畜生っ、心配して損したっ」
大塚の唸り声を背に、神谷はしっかりした足取りで歩き出す。
その目は、青空に向かっていた。
誰よりも青い空と眩しい日差しが似合う、『背番号10』を追いかけて。
Over The Dream 夢の向こうに
本当の君がいる
Over The Dream 夢を越えたら
本当の君に会える
Over The Dream...
『OVER THE DREAM』より
Words & music by 西村 麻聡
song by FENCE OF DEFENCE