それぞれの想いを胸に擦れ違う言葉
ぎこちなく踊り続けた
嵐の予感に
芹沢は、自宅のキッチンに立ち、魚をさばいていた。
芹沢は自他共に認める生活臭がしないタイプだが、プロのスポーツ選手たるもの、外食ばかりでは体が持たない。
一人暮らしをしている以上、ある程度の自炊は必要であり、元来、家事一般をさほどめんどくさいとは思わぬタチでよかったと思う。
健康管理を怠って、見合いなど持ち込まれてはたまらない。
だが、いい魚が入ったからと、刺身包丁を握っている姿は、ただのマメさを通り越したものがある。
元々、日本有数の漁港である清水の出身で魚にはうるさいとは言え、洋包丁だけでは物足りなくなって新しい包丁を買い込んだのは割合最近のことだ。
魚を三枚におろして、アラはガスレンジにかけてある鍋に放り込む。
夕食は大概鍋だ。一番いろいろな食材を食べられ、余計な油分を摂取せずに済む…等々、鍋に勝る料理はない。
身は、刺身にする。後は大根を白髪に切ったツマの上に、盛りつける。
芹沢が、そんなことまでする原因は、リビングで新聞を読んでいる……フリをしている。
「斉木さん」
「んー」
「メシ食いますか」
「ああ…」
生返事を返す斉木は、新聞の経済面に没頭しているように見える。
仮にも経済学部の学生であるからそれは不思議なことではなかったが、芹沢は斉木が30分もページをめくらずにいることをに気がついている。
斉木が悩んでいることは知っている。
だが、それは芹沢でなくても分かることではあった。
悩んで当然だ。これからの進路を決めようと言う時期なのだから。
けれど。
斉木は芹沢に何も教えてくれない。
相談してくれ…とは、さすがに言えない。
斉木にしてみれば、芹沢はまだまだ頼りないガキでしかないのだろう。
斉木は、自分のことなどそっちのけでとにかく誰彼かまわず思いやる。
その分、自分のこととなると、どツボに嵌って思い悩むのだ。
芹沢にしてみれば、憤懣やるかたなかったりする訳だが。
芹沢のことだけ、考えてくれればいいのに。そうでなければ自分のことだけ。
そうすれば、芹沢はいつもいつも周囲に目を光らせている必要もない。
けれど、斉木は大人で、そこまでエゴを剥き出しにはしない。
恐らく、出来ないのだ。
人の相談にはほいほい乗るくせに、自分のこととなると一人で抱え込む。
そして――。
斉木が何も言えないというのなら、相手も言えないということを、斉木は知らないのだろう。
言いたいことがある。
言わなければならないことがある。
けれど、一人悩む斉木に、更なる悩みを押し付けることは出来ない。
芹沢の気持ちは決まっているけれど。
いるのだ、絶対、斉木が。
必要なのだ、どうしても。
芹沢は心の底から求めている。
でも、斉木は――?
歯がゆくて、仕方ない。
今、斉木は食事をしていても完全に上の空だ。
ただ惰性で手と口を動かしているだけ。
食べさせる人間がいなかったら、きっと平気で絶食してしまうだろう。
いや、そうなれば斉木の世話をしようと言う人間は、女も男――サッカー部員はキャプテンに餓死されたらかなり困るだろう――も多いだろうが、芹沢にはそれが我慢ならなくて、強制的に自分のマンションに連れてきている。
拉致と言うのが一番正しい状態だろう。
言われて恐れ入る芹沢ではないが。
恋人の世話を自分以外に焼かせたくなくて何が悪い。
芹沢は、自分と自分の大切な人間以外には、いくらでも無関心になれるタチである。
だが結局は不安がそうさせていることを、斉木は気がついているだろうか?
いつだって自身満々のフリをしているが、芹沢だって不安になるのだ。
失えないものを持ってしまったとの瞬間から、人は弱くなる。
「斉木さん」
「あ?」
黙々と食べ続ける斉木に、芹沢が問う。
「どのチームからオファー来てるんです?」
「………内緒」
いつもの問いにいつもの答えが返ってくる。
そうして芹沢は、いつも通りの反応をしてしまう。
「何でですか! それぐらい教えてくれてもいいでしょう!?」
「もうちょっとしたら、話すから」
「もうちょっとって、いつですか」
「どうしたんだ、お前」
「どれぐらい前から『もうちょっと』って言ってると思ってんですか」
「…今度はホントにちょっとだから」
斉木は、芹沢から視線をそらした。
そんな態度に、芹沢は焦燥を覚える。
本当に、捨てられてしまうのではないかと。
まさか、飽きられてしまったとか。
転がり出したよくない妄想はとめどない。
もしかしたら、斉木はとんでもなく遠いチームと契約しようとしているのでは。
――そんなことになったら、間違いなく斉木を監禁してしまうだろうな、と、芹沢は熱いんだか冷静なんだか分からない頭で思う。
斉木が斉木である以上、芹沢だけにかかずらっていられないことは分かっている。
こんなまっすぐな人間を、嫌える人間はさほど多くはない。
でも、芹沢は。
斉木だけのものなのだ。
相談してくれなんて言わない。
いや、相談してくれれば、芹沢だって仮にもプロだ。情報ぐらいならいくらだって集められる。
でも、話してくれるだけでよかった。
斉木の考えが少しでも分かれば、芹沢は待てる。
安心して、決断できる。
八つ当たりだってかまわなかった。
それで斉木の憂さ晴らしになるのなら、全然。
目の前で悩みいらつく姿を、指をくわえて見ているだけより何倍マシか分からない。
八つ当たりでいいから、芹沢を必要だと言って欲しかった。
だが、斉木は何も言わない。
再三の芹沢の訴えにも口をつぐみ、ただ考え込んでいる。
あまりにもしゃべらないからいろいろと探りも入れているのだが、はっきりした情報は流れてこない。
直に会った時にボコられるのも覚悟の上で、内海にまで愚痴り倒していると言うのに。
だから、悪い想像ばかりが先走る。
一人で寝た夜に、うなされてしまったなどと言う話は、大きな声では言えない。
大概自覚したつもりだったけれど。
こんなにも嫉妬深くて独占欲の強い己の性格に、芹沢は我がことながら呆れた。
まるで底無しの沼だ。
今だって本当は。
片時だって離したくはない。
いつだってどこにいたって。
そばにいて欲しい。
自分だけの斉木であって欲しい。
そんなことは出来ないと、分かっているけど。
自分の腕の中だけに閉じ込めてしまえば、斉木は斉木でなくなる。
そんなのは、嫌だ。
一言のねぎらいも出せぬ握りしめた手と手
つくり笑いする裏側で探り合う心
だから。
こんなにも嫉妬深いタチを自覚しつつ、その一言だけは飲み込んでいる。
『俺のチームに来て下さい』
それは、言えない。
芹沢のチームには、神谷がいるから。
それはかつて、それぞれに想い追った相手だからではなく。
神谷と斉木が同じチームにあれば、斉木が、その能力の全てを生かすことは出来なくなるからだ。
神谷と斉木が、最も能力を発揮できるポジションは、同じなのだ。
だから斉木は中学の時、神谷を毛嫌いし、潰そうとしたのだろう。
それはある種の防衛本能だったに違いない。
斉木には言葉に出来なくとも分かっていたのだ。
神谷は己の存在を脅かす者だと。
確かに斉木のやりようは褒められたものではなかっただろうが、全面的に否定も出来ない。
芹沢だって、自分を脅かす者が現れたら、平常心ではいられない。
それは、サッカーばかりでなく、人生の全てにおいて。
生きとし生ける者の、どうしようもない宿命だ。
だが、それはかつての話だ。
大人になり、ある意味で誰よりもものが見えている斉木は、もし今、神谷と同じチームに入ったなら、何も言わずに身を引いてしまうだろう。
器用な斉木ならコンバートも容易だろうし、恐らく、神谷のサブにされても文句も言わないだろう。
しかし。
それでは。
斉木誠と言うプレーヤーを、飼い殺しにしてしまう。
芹沢にとって、斉木からサッカーは切り離せないものだった。
それで、斉木に惹かれる人間が増え、嫉妬で苦しんだとしても、それでも。
元より、己の腕だけで抱えきれるものなど少なくて。
そして、自分の腕だけには到底納まらない人であるからこそ。
芹沢は、斉木に惹きつけられるのだ。
それで世間の人間がどう言おうが、知ったことではない。
芹沢は、いつだって斉木だけを見ているから。
その、相反する想いは、いつでも不安を呼び起こす。
だから自分のそばにいる間だけは、斉木に自分のことだけ見ていて欲しい。
けれど今、斉木は芹沢の隣にいても、心ここにあらずだった。
ローソファーに並んでくだらない番組を眺めているだけで、その内容など、何も頭には入っていないだろう。
笑うべきところで笑わず、何でもないところで笑い出す。
そんなにも、悩ましいことなのか。
辛いことなのか。
神谷と同じチームでプレイしたいと言う一心だけで、プロに殴り込みまでかけた芹沢には、その辺りがいまいち理解できない。
一つこれと決めてしまえば、それまでではなかろうか。
もちろん、それで斉木に手の届かないところに行かれたら困るのだが。
――実はサッカーをやめるつもりだとか。
とんでもない話で。
ただの想像で全身が粟立つ。
だから、話して欲しいのだと、芹沢はようやく思い至る。
斉木が話してくれなければ、芹沢は意見を述べる権利さえない。
芹沢でなくてもいいのだろうか、斉木は。
芹沢は斉木でなくてはいけないのに。
もしも、芹沢でなくてもいいと言うなら。
芹沢はどうしたらいいのだろう――。
「斉木さん」
「ん?」
摺り寄って名前を呼ぶと、意外なほど柔らかい声が返ってくる。
だが、それは次の芹沢の言葉で凍りつく。
「マジな話、どういうつもりなんです?」
「何が」
「オファー」
あるんでしょ、と、問う前に、斉木はそっぽを向いた。
むっとして、芹沢は無理矢理下から覗き込む。
すると、斉木は立ち上がってまで執拗な質問から逃げようとした。
そんな斉木の腕を、とっさに芹沢は思い切り引いた。
「うわっ」
バランスを崩した斉木を、芹沢が胸に抱き込む。
「離せっ」
「嫌です」
腕を解こうとする斉木の耳元で、芹沢が囁く。
いつもなら、そこで斉木は諦めるのだが、今日は様子が違った。
「うっとうしいんだよ」
「って」
胸を抱き締める右手を力加減なくつねられる。
思わず腕の力が緩んだところを逃げ出され、慌てて逃げるシャツの裾をつかみ、背中から押し潰した。
「苦し…どけっ」
斉木は跳ね除けようとするが、背中からのしかかられては手も足も届かず、こんな時は体格差がモノを言う。
その事実にプライドを傷付けられるのだろうか、人を殺せそうな視線を芹沢に当てたまま、斉木は唇を噛んだ。
そんな斉木の横顔に、思わず芹沢はのどを鳴らす。
無意識に手が、斉木のあごへ伸びる。
「やめ…」
唇を合わせて、抗議の言葉を封じる。
卑怯なことをしている自覚はあった。
だが、一度走り出した感情は、ブレーキが効かない。
シャツの下に手を滑り込ませて背筋の感触を楽しむ。
組み敷いた体のこわばりがそのまま伝わってくる。
同じように、想いも伝わるだろうか。
芹沢がどれだけ斉木を必要としているのか――。
「このっ…、俺はそんな気分じゃないんだよ」
潤んだ目でにらまれて、凄まれても。
「俺は、そういう気分なんですよ」
「や…っ」
芹沢は、斉木を貪る。
伝えたくて――必要なのだと。