「失礼しました」 強化部長室のドアを閉めて、渋い顔が見えなくなった途端、斉木はふうと溜め息をついた。 その瞬間。 「よお、斉木」 「わっ」 肩を叩かれ、思わず飛びすさる。 「内海…」 一見にこにこと笑う内海を前に、斉木は肩を落とした。 「…奇遇、の訳ないよな」 「ったり前じゃん」 内海は相変わらず目だけが笑っていない怖い表情のまま、斉木に言う。 「どうする、コーヒーかなんか飲むか?」 「奢ってくれる訳?」 珍しい、と、斉木は酷いことを言うが、 「ああ、今日は経費で落ちるからな」 と、内海はもっと酷いことを言う。 「やっぱりな…」 「経費だからいっそ高級懐石とか行っちゃう?」 「ウチはそんな金、ないだろう…」 「ははは、違いねえや」 軽口を叩き合いながら、斉木と内海は駐車場へと向かう。 その道すがら、 「あ、斉木さん、内海さん、コンチワー」 チームの若手に挨拶されたりもする。 今やキャプテン、副キャプテンとしてチームの中心になりおおせた二人である。中学の頃から必ずキャプテンマークをつけてきた二人の人身掌握の術は、一見で分かるものではないが、確かに彼らの才能であった。 「おす」 と、軽く手を上げて挨拶を返し、何事もないかのようなそぶりで若手の前を通り過ぎる。 その様子を見る限り、誰もこの二人がこれから重大な話をしようとしているとは思わないだろう。 そして、二人はクラブハウス近くのあまり流行っていない喫茶店に入る。 店内でも最も奥の、目につきにくい席に陣取って、ブレンドが来るのを待つ。 「で」 ブレンドが来てすぐに、斉木は話を切り出した。 「俺を説得しようったって、無駄だぞ」 すると内海は、ブレンドを一口飲んで答えた。 「まー、誠ちゃん、そんないきなり身も蓋もない」 人を食ったような答えに、だが、斉木はにこりともしなかった。 「でも、当たりなんだろ」 「そりゃあ、そうでもなけりゃあのタイミングで俺があんなところうろついてる訳ないだろ」 「で、内海は何て言われて来たんだ」 「斉木を放出する気はないから、翻意するよう説得しろって言われて来たんだけどな、さて、どうしましょうねー。いきなり説得拒否されちゃったんですけど」 「って言うか、よく内海がそんな話に載ったな」 斉木もブレンドに一口口をつけた。 ブレンドと言うよりはアメリカンコーヒーに限りなく近い薄さに、この店が流行らない理由を悟る。 「ん、一応、形だけは作っとかねーとよ。説得はしましたって言う」 長い付き合いである。 お互いに相手の性格など知り抜いている。 だが、球団としてみれば、その付き合いの長い内海の説得に賭けたくなるほど、斉木の申し出は唐突であり、態度は強硬だった。 そうギャラの出せる球団ではないが、そもそもギャラや監督の方針に不満があるとか、そういう分かりやすい理由ではないだけに、球団としては義理人情に訴える以外に翻意させる方法を思いつかなかったのだろう。 しかし、 「俺ほど斉木の説得に向かない人間はいないと思うがな」 内海はさらっと言ってのける。 「…向いてないって言うか、する気ないだろ」 「だって、したって無駄だろ」 「ああ」 呆れたような内海の言葉に、斉木は言下に頷いた。フロントが聞いたら激怒しそうな会話だ。 「一応、理由聞いておくわ」 後で説明できないと困るし、と、内海が促す。 「どうしてもやりたいことがあるから、かな」 斉木が小首を傾げながら答える。 「やりたいことって、何よ」 「一からチームを作るのって、面白いと思わないか」 「思わねえな」 「内海、冷たい」 「俺はそこまで苦労したくねえよ」 カチャン、と、音を立てて、内海はカップをソーサーに戻した。 「ま、模範解答はここらにしといて、ぶっちゃけ、芹沢だな?」 「ああ」 斉木はうなずいた。自分が笑っていることに、斉木は気づいていないだろう。 「あいつが持ってない力を、俺は持ってて、その力が今あいつに必要だって、俺には分かってるんだ。行くしかないじゃないか」 それから、釘を刺す。 「言うなよ」 「言えるか、こっぱずかしい」 内海はバリバリと頭を掻いた。 ――にやけてんじゃねえよ。 はずかしげもなくのたまう親友に、内海は心の中で悪態をついてから、現実を突きつける。 「怪我のこともある。J2の劣悪な環境じゃ、いつお前の左膝、爆発してもおかしくねえだろ」 「ああ、それだけはちょっと気がかりなんだよなぁ…」 斉木が試合中に無理なスライディングを食らって左膝を痛めたのは、2年前のことだ。 幸い靭帯は無事だったので今はあまり以前と変わらないところまでコンディションも戻ってきたが、完治するものではない。 今は納まっているが、J2の質の悪いピッチや、レベルが低いゆえの荒っぽいプレイ、そのプレイを確実に取り締まれないレベルの審判など、J1とJ2の差は、いろいろな意味で世間が思うより大きい。 それは、J2から昇格したチームの過半数が、J1に残れても低迷するか、結局J2へ降格してしまう現実からも明らかだ。 「正直、J2なんて行っちまったら、お前の才能じゃ二度とJ1に戻って来られねえんじゃねえ」 「その可能性は、高いと思ってる」 斉木は、神妙な表情になった。 斉木がけして楽観視している訳ではないことは明らかだった。 それは確認するまでもないことではあった。 斉木にJ1とJ2の差が理解できていないはずもない。 それにしてもあっさりと答えたものだった。 さすがに、内海の気に障る。 「可能性は高いって、お前、それでいい訳?」 「それでもサッカーが出来ることには変わりがないし」 内海の責める口調に、斉木は微笑んだ。 「残り少ない選手生命、みすみす投げ捨てるのかよ。代表も間違いなく落とされるだろうし」 斉木はもう27才だ。30才になったらロートル扱いされる日本サッカー界の中では、すでにカウントダウンが始まっていると思われる年だ。 「うーん、代表は諦めるしかないだろうな」 芹沢でさえ、J2にチームが降格した時点で日本代表から外された。 才能と言う言葉をテクニックに限って言えば、斉木の代わりなどいくらでもいる。 「でも、残り少ないなら…余計にあいつと一緒にサッカーやりたいんだ」 斉木は笑った。 「俺はあいつの力になりたいんだよ」 きっぱりと言い切られて、 「うっわ、性質悪ぃ。ホントに説得不可能かよ」 「ああ」 斉木は素直にうなずく。 「ったく、しょうがねえなあ。キャプテンがシーズン途中で移籍を志願するなんて聞いたことねえぞ」 内海はバリバリと頭を掻いた。 「大丈夫だろ。お前いるし」 「それに、指令塔はどうしてくれんだよ。お前、キャプテンと指令塔と同時にいなくなるなんて、セカンドステージ、どうやって戦えと」 「若手も育ってきたし…いざとなれば内海だってできるくせに」 「いやだね、俺はボランチが性にあってんの。ったく、若手で埋められる穴なら、どうして俺に説得命令なんかくるんだよ。埋められねえから説得しろって言われてんのに」 こんな急な話じゃどっかからか引っ張ってくるのも難しいし。 内海はブツブツと文句を垂れる。 斉木は頭を掻いて、すまなそうに言うが、 「すまん、これは俺のわがままだ。でも、押し通す」 出てきた言葉は微塵も譲る気はないことを示していた。 「へえへえ。せいぜい頑張れや」 「ありがとう、内海」 「気色悪ぃからよせよ」 けっ、と、吐き出されて、斉木は声を立てて笑った。 「じゃあ、俺はこれで」 と、席を立ち、内海の横を通り過ぎようとした時に、右手が斉木の前に差し出された。 「お互い選手寿命があるうちに戻って来いよ」 「内海…」 「そしたらお前が作ったチーム、コテンパンにしてやるから」 「そう簡単にやられやしないよ」 斉木は内海の右の手のひらをパンと叩いた。 乾いた音が、店内に響く。 「それに、ロートルだと言われようがろうが何だろうが、俺はそう簡単に現役辞めないぜ。しぶとさだけには自信があるんだ」 ハイタッチを交わした後に先に手を引っ込めたは、差し出したのと同様、内海の方だった。 「じゃあな」 振り向きもせずひらひらと手を振り、会談の終了を告げる。 「元気で」 今度こそ斉木は、喫茶店を後にした。 |