ガシャン! と、キッチンで何かが割れる音がした。 「芹沢!?」 斉木が慌ててキッチンを覗くと、怖い顔をした芹沢が、右手で皿を振り上げていた。 足元に破片が散らばる。 落としたのではなく、叩き付けたのは明らかだった。 「芹沢! よせ!」 斉木は粉々になった皿の破片を踏まないように回り込み、芹沢の右腕を押さえる。 「危ないだろ!」 「あ…斉木さん…?」 右手を掴まれた瞬間、芹沢が我に返る。 「あ、すみません。今片づけ…」 我に返った芹沢は、急いで振り上げていた皿を流しに戻して、破片を片づけようとする。 だが、それを斉木が止めた。 「いい、俺がやる」 「でも…」 「いいから。お前はシャワー浴びてもう寝ろ」 苦々しげな斉木の言葉に、芹沢が俯く。 「……し」 「何?」 「どうせ眠れないし」 目の下に隈のできたその顔で笑うと、憔悴しているのが際だって見えた。 「いいんです、眠れないから。自分でやります」 憔悴した笑顔で言われて、はい、そうですかと言ってしまうほど、斉木も愚かではない。 「いいから。眠れないんなら横になってるだけでいいっ。先に行ってろ!」 怒鳴りつけ、キッチンから叩き出す。 「さ、斉木さん…」 「片づけたら、話があるから、それまで横になってろ」 げし、と、尻に蹴りを入れて、斉木は芹沢を追い出した。 その迫力に押されたのか、素直に寝室へ向かう芹沢の背中を確認し、溜め息をついて斉木は割れた破片を集め始めた。 斉木が寝室に入った時、芹沢は、ベッドの上に膝を抱えて座っていた。 焦点があっていない視線は、ドアに向いていたが何も見てはいないのだろう。 事実、斉木がベッドの隣に座って、肩をゆするまで、芹沢は斉木が入ってきたことにも気づいていないようだった。 「芹沢」 「あ…、斉木さん」 「大丈夫か?」 「何がですか?」 芹沢は笑ってみせるが、やはり力がない。 斉木は思わず溜め息をつく。 「俺には、そんな風に強がらなくていいんだぞ」 「強がってなんか…」 「ま、それは置いておいて」 きりがなくなりそうな気配に、斉木は強引に話題を転換した。 「お前に話しておかなきゃいけないことがあるんだ」 「何です?」 「…今、移籍の交渉をしてる。それが何とかまとまりそうなんだ」 「は? 移籍?」 完全に寝耳に水だったのだろう。芹沢は大きな目を丸くしている。 「誰が、どこに」 「俺が、お前のとこに」 斉木は芹沢の目を見たまま告げる。 いともあっさりと。 「は?」 一方の芹沢は、何を言われているのか理解できていなかった。 「移籍…」 オウムのように繰り返して、ようやくその意味が浸透したのだろうか。 「な、何ですか、それは!」 芹沢の顔から血の気が引いた。 「そんな…ダメです。止めて下さい、今からでも遅くないから!」 斉木の肩を掴んで、揺さぶる。 「そんなのダメです。J1からJ2に移籍しようなんて、気でも狂ったんですか!」 「狂ってなんかいないさ」 そっと、斉木は自分の肩を持つ芹沢の手に、己の手を重ねる。 「俺にはお前にない力があって、お前はその力を必要としているはずだ」 「でもっ、ダメだ、そんな…」 「俺では役者不足か」 「違…っ、そんな、だって苦労するって分かってるのに…っ!」 「苦労したっていいんだよ。俺は、お前とサッカーがしたいんだ」 斉木は両手で挟むように芹沢の顔に添え、正面を向かせる。 「お前と戦うんではなくて、今度は一緒にサッカーしたいんだ」 そう告げたその瞬間、芹沢の頬を涙が伝った。 斉木は安心させるように笑いかける。 芹沢に、自分の思いは全て伝わっていることを確信したから。 「で…も…」 芹沢はまた俯いて肩を震わせる。 「俺が必ずお前をあるべきところに戻してやる」 宥めるように、自分よりも広い背中を撫でる。 「だって、斉木さん、膝…J1に、戻れ…ないかもしれないのに…」 「いいんだよ、お前が気にすることはないんだ。俺が決めたことなんだから」 斉木は、声を押し殺して泣く芹沢の頭を胸に抱きしめた。 「俺の残りのサッカー人生、全部お前にやるよ」 完全無欠の天才は、そうであったがために、心のどこかが子供のまま残ってしまった。 そんなアンバランスな心の有り様まで全てひっくるめて、愛している。 「もしかしたら、もうあんまり残ってないかもしれないけど」 「う……っ」 芹沢は斉木の胸に縋りついて、本格的に泣き出した。 斉木の前で、初めて見せる涙だった。 「ごめんなさい…、ごめんなさいっ」 声を震わせ、必死で詫びる芹沢の背を、斉木は黙って優しく叩く。 言葉は、ない。 これ以上の言葉は、いらないから。 斉木は、隣で熟睡する芹沢の寝顔を見つめていた。 泣き疲れて眠ってしまった芹沢は、憑き物が落ちたような穏やかな寝顔を見せている。 斉木としても、そんな芹沢の表情は久しぶりに見るもので、思わず安堵の溜め息が漏れる。 その表情を見て、斉木は心底よかったと思う。 渋る球団との交渉は何とか終息に向かっているが、まだまだこれから、今度は世間での一騒ぎが残っている。 だが、それでも。 人目を何より気にしてしまう性分の自覚が斉木にはあったが、今回ばかりは何も気にする気にはならない。 人目より、大切なものがあると、気が付いたから。 やはり随分甘えていたのだと、知る。 だから、心の中で何度も呟いた言葉を、口にする。 「俺がお前を守るから、だから、何も心配するな」 芹沢の耳には届くことのないそれは、自分自身への誓いだった。 サッカーに関して言えば、シーズン中の移籍はけして珍しいことではない。 だが、斉木誠のレンタル移籍は少なくともサッカー界の中でも特別なニュースとして流された。 戦力外通告を受けた訳でもないJ1リーグの中心選手が、J2への移籍を自ら志願し、実現に漕ぎ着けたのだ。 その逆ならともかく、非常にまれなケースであると言えた。 『今回の斉木選手の移籍については、皆さん本当に驚いていると思うんですが、一体どのような考えで移籍に踏み切ったんでしょうか?』 『新しいチームを、一から作ってみたかったんです』 何度も何度も同じことを聞かれたが、その度に斉木は笑って答えた。 『ただそれだけです』 それだけを、答える。 本当のことは、誰も知らなくていい。 芹沢も知る必要はない。 自分だけが知っていればいいこと。 自分が望み、選んだ道なのだから。 だから、笑ってみせる。 それは、夜明けの太陽のように、曇りのない笑顔だった。 |