結局、その試合は4-1で終わった。
前半の貯金が効いて圧勝ではあるが、斉木の運動量が落ち、芹沢が最前線を退いた後半は1-1である。
極普通の数字であるが、チームにとっていかに二人の存在が大きいかを端的に示している。
斉木と芹沢がいなければ、まだまだ並のチームだということだ。
試合後のミーティングは、当然その辺が中心になる。
しかし、
「斉木、芹沢」
監督によるごくごく簡単な総括が終わった途端、待ち構えていたトレーナーが二人を呼んだ。
正確な状態は隠しているが、斉木が怪我をしていることだけはチームメイト達にも伝えてある。
「すみません」
「ああ、行って来い」
監督がうなずけば、二人が途中で抜けることには特に異論は起こらない。
もっとも、ここで異論など起ころうものなら、芹沢がキレたかもしれないが。
「残りはみっちり絞るぞ」
「ええーっ」
コーチに宣告されてブーイングを上げるチームメイトの様子に苦笑しながら、芹沢がミーティングルームのドアを閉める。
その途端、
「斉木、大丈夫か」
心配そうなトレーナーの声に振り返れば、斉木が壁に右手をついて、左手で膝を押さえている。
左膝はガクガクと震えている。
「…くっ」
目を閉じて、歯を食いしばる斉木の顔色は青い。
チームメイトの目があるところでは、精神力だけでこらえていたのだろう。
芹沢は迷わずに斉木を抱き上げる。
「運びます」
このために、芹沢は呼ばれているのだ。
担架もなしで斉木を軽々と運べる人間などそうはいない。
「頼む、芹沢。俺は先に行って用意してるから」
トレーナーは薄暗い廊下をかけていく。
その後を追って、斉木に余計な衝撃は与えないよう、芹沢は慎重に歩き出す。
抱き上げられた斉木は特に抵抗する様子もなく収まっている。
よほど痛むのだろう。
二の腕に触れる斉木の患部が熱い。
「痛みますか」
芹沢の問いに、青い顔をした斉木が応じる。
「痛み止めがだんだん効かなくなってるな」
まずいなあ、と、口の中で呟く様子が、痛々しかった。
思わずいつもの繰言を言う。
「半分でも肩代わりできればいいんですけどね」
「馬鹿、そしたら共倒れだ」
斉木もいつものように答えた。
勿論、芹沢だって削られている。
ただ万全に近いコンディションを保っている芹沢には、削ろうと狙われても避ける余力がある。
斉木の場合は試合に出るだけで一杯一杯なのだから、削りに来るのを避ける力など残っていない。
悪循環だ。
芹沢は溜め息を吐きそうになって、我に返る。
そんなことをすれば、また斉木は気を回そうとするに違いないのだ。
これ以上斉木に負担を強いてどうするのだと、自らに言い聞かせる。
ちょうどその時、ドアの開け放たれたマッサージ室にたどり着いた。
芹沢は脇に氷水がたっぷり用意されたベッドに斉木を下ろし、ドアを閉める。
その背後で、トレーナーが処置を始める。
「いたたっ、内田さん、もうちょっと優しくしてくださいよ」
「充分優しくしてる。それだけ状態が悪いってことだ」
軽口で痛みを誤魔化そうとする斉木へ、トレーナーは氷水の入った袋を左膝に巻きつけながら冷静に告げた。
「痛めてるのを隠そうとして無理をしてるから、腰と足首にも来てるだろ」
と、トレーナーが軽く足首をつかむと、
「っつ」
斉木は首をすくめて痛みをこらえる。
「大分熱を持ってるな。こっちも冷やした方がいい」
トレーナーは発泡スチロールの箱に氷水を張って差し出す。
斉木は言われるがままに左足を氷水につけ、ほっと一息ついた。
とにかく炎症の熱を取ること。
今の斉木の症状を和らげるためには最も有効だが、それは単なる対症療法に過ぎない。
「冷やしてる間に芹沢、先にやるぞ」
「はい」
芹沢は言われた通りに斉木の隣のベッドに横になる。
トレーナーは芹沢の背中にバスタオルを当てて、てきぱきとマッサージを始める。
今のところ問題を抱えていない芹沢には、疲労を癒すためのマッサージが施される。
と、同時に、トレーナーが選手の体調を把握するためでもある。
「相変わらず体調管理が行き届いてるみたいだな」
「そりゃ勿論」
芹沢はやるとなったらとことんやるタイプだ。
その健康管理は、斉木ですら呆れるほど厳密である。
「特に問題はなさそうだが…何か気になることはないか？」
「ありませんね」
「なら、終了だ」
「ありがとうございました」
芹沢がベッドの上に起き上がった時には、トレーナーは既に斉木に向かっていた。
「どうだ」
「足首の方の痛みは引きました」
「膝は駄目か…まあ、当たり前だけどな」
「随分楽にはなりましたけど」
トレーナーは氷水から引き上げさせた斉木の左足を拭いて、左膝に巻いていた氷嚢を外す。
斉木は言われるまでもなくベッドにうつぶせに横たわった。
「今日は針打つからな」
針灸師の資格も持つトレーナーは、ベッドの横に道具を引き寄せ、それからマッサージを始める。
芹沢の時とは違い、慎重に探るように施していく。
「そこ、痛…」
「ああ、やっぱり腰に来てるな」
痛みを訴える斉木の声に、トレーナーは表情を曇らせた。
それは隣で見ている芹沢も同じだ。
丁寧なマッサージの後に、針治療を施す。
直接の患部である左膝は勿論だが、腰に打たれた針の数が想像以上に多い。
芹沢は眉をひそめた。
針の本数を見る限り、腰の状態もかなり悪いように思える。
もしかしたら、相当腰も痛むのを黙っていたのか。
斉木なら我慢しかねない。
全ての針を打ち終えてから、トレーナーが言った。
「……斉木、試合を休む訳にはいかないか。３試合…１試合でもいい。試合を休めれば、俺ももう少しどうにかしてやれる」
トレーナーは真顔だ。
斉木は微かに笑って応じた。
「今休む訳にはいかないですよ」
分かっていた答えだった。
「そうか」
トレーナーは落胆を隠そうともしない。
斉木の笑顔が痛くて、芹沢は斉木から視線を外してマッサージ室を無言で出た。
行く当てなどなく、芹沢はすぐに薄暗い廊下で立ち止まる。
すると、
「芹沢」
「内田さん」
トレーナーが追いかけてきた。
「斉木さんは？」
「少し寝てろって言ってきた。痛みであんまり寝てないみたいだな。言わないけど」
その言葉に、芹沢の整った顔が歪む。
トレーナーの指摘は事実だ。
最近、寝返りを繰り返している時間が長くなっている。
下手くそなタックルを受けたその日には、痛みで一晩中眠れないことすらある。
芹沢の睡眠を妨害することを気にして寝室を分けようと斉木が言い出した時には、一晩説教を食らわせた。
寝室を分けたりしたら、斉木はきっともっと無理を重ねる。
芹沢としてみればその方がよっぽど心配で、おちおち眠ってなどいられなくなるだろう。
だがそんな話は、他人には言えるはずもなく、だから知らないと思っているのだろう、トレーナーが説明する。
「針で痛みを散らすから、今日は少しは眠れると思うんだが」
「そんなに悪いんですか」
単刀直入に尋ねた芹沢に、トレーナーは端的に答えた。
「悪いな」
その言葉に、芹沢は主治医の診察を思い出す。
『この膝を治すには、サッカーを止めるしかない』
見慣れた症状なのだろう。日本でスポーツドクターとして権威ある主治医は、あっさり宣告した。
『せめて少なくとも、一年の休養が必要です』
とも。
恐らく後から言ったことが、本当に言いたいことだったのだろう。
まだ２０代のプロ選手が、止めろと言われてはいそうですかと受け入れるはずなどない。
いきなり一年の休養を言い渡しても同じだろう。
駆け出しの若手ならともかく。
だから、最初に止めるしかないのだと脅しをかけて、次にそれよりは受け入れやすいであろう一年の休養を提案するのだ。
動揺している選手の中には、あっさりとその手にのせられる者も少なくないんだろう、と、端で聞いていた芹沢は思った。
そして医者の言葉が単なる脅しでないことも。
膝、足首、股関節、腰。
その辺りの故障は、サッカー選手にとっては職業病のようなものだ。
斉木ぐらいのキャリアであれば、その部位に一つも故障がない者などいないだろう。
だが、斉木の左膝はもう限界に近いことを、一番近くにいる芹沢は知っている。
そして多分、誰よりも斉木自身が。
しかし斉木は、静かに応じた。
『今は止める訳にも休む訳にもいかないんです』
医者は、重々しく、尋ねる。
『斉木君、君はまだ２８歳だろう？』
『はい』
『その膝は一年休めてメンテナンスすれば、かなり回復出来る可能性がある』
そして芹沢にも想像できたことを、言った。
『だが、このままの状態でプレーを続けて本当にパンクさせてしまえば、今年で終わってしまうかもしれない。プロの試合がどれだけ過酷なものか、それは君が一番よく知っているはずだ。そして、その過酷なプレーに、君の左膝が耐え切れる状態ではないことも、それは君が一番分かっているだろう』
だから、と、医者は言葉を継いだ。
鞭と飴を使い分けて説得しようとした。
実際、それは斉木の立場にある者なら、一瞬ぐらいはグラつく言葉だったろう。
だが、斉木は刹那も揺るがなかった。
『今なんです。今が大事なんです。このまま続けられる方法を教えてください』
と。
その横顔は、それ以外の回答を受け付けないと、書いてあった。
そうして、今も斉木は試合前に痛み止めを打ちながら、ピッチに立っている。
芹沢は片手で顔を覆って溜め息を吐く。
「斉木さん、頑固ですからねえ」
「そうなんだよなあ」
トレーナーも溜め息を吐いた。
だが、すぐに硬い表情になった。
「俺、向こうのミーティングが終わったら、監督に直接掛け合って来るよ」
弾かれたように芹沢が顔を上げた。
トレーナーの顔を見れば、軽い気持ちで言っている訳ではないことは、聞かずとも分かる。
そして、トレーナーも芹沢の心の声を聞き取ったのだろう。
「だって、ここで潰させる訳にはいかないじゃないか。まだ斉木はたったの２８歳なんだ。これからだってあるはずじゃないか」
それは正に、芹沢が思い続けて、しかし斉木には言えずにいることだった。
「少しでも良くするには、とにかく休ませなくちゃいけないんだ。そりゃあ、あいつが休んだらどれだけ戦力が落ちるかなんて、そんなことは俺だって分かってるし、それはお前の負担が重くなるってことも分かってるけど、でも、トレーナーとしてはこれ以上、斉木が試合に出続けるのを認める訳にはいかないんだ」
だから、これから監督に掛け合ってくる、と、トレーナーはミーティングルームに足を向ける。
芹沢は、その背に向かって頭を下げた。
口の中で呟く。
廊下に響くことのないように。
「よろしくお願いします」
その姿は、誰もが知る傍若無人な芹沢とは、まるで別人のようだった。
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