翌日の練習前――。
斉木が次の試合を休むこと、練習メニューも別になること。
斉木が出場しない試合は、芹沢のポジションを下げて司令塔とすること。
斉木は復帰するにしてもサブからで、怪我の様子見であること。
そういった内容が、監督からチームメイト達に告げられた。
斉木が怪我をしていることは知っていても、休養が必要なほど悪いということを知らなかったチームメイト達はざわめいた。
ウォーミングアップのために一度解散すると、斉木の周囲に人だかりが出来る。
若いチームメイト達にとって、斉木はある意味親のようなものである。
その斉木が試合に出られないということは、斉木に知らず依存してしまっている彼らにとって大きな衝撃だった。
斉木を中心とする人だかりを、少し離れた場所で見ていた芹沢は、何も言わずに踵を返して、一人ウォーミングアップのストレッチを始める。
いい子ぶっている訳ではない。
ただ、罪悪感で斉木を正視出来なくて、逃げたのだ。
昨日の激論の中で、芹沢は大きなショックを受けていた。
昨シーズンの終盤に古傷を再発させた時、我がこと以上に心配する芹沢へ斉木はこともなげな表情で言ったのだ。
――予想はついていた、と。
その時の衝撃を、今でも芹沢は言葉に出来ない。
古傷の再発の可能性まで予見しながら何故、斉木が移籍をしたのか。
芹沢は、いや、芹沢だけが、斉木が横車を押してこのチームに来た本当の理由を知っている。
自分のせいだ。
そうして今シーズン、斉木が痛めた膝を更に悪化させてもかまわない覚悟であることも、薄々感づいてはいた。
止めた方がいいのかもしれないとは、ちらりと考えた。
けれど、自分のせいでJ2にまで来てくれた斉木の決心を遮ることは出来ないと、少しでも斉木をサポートして、斉木の負担を減らすことだけを、芹沢は考えてきた。
しかし目をそらし続けていた現実を、トレーナーの言葉は芹沢に突きつけたのだ。
『お前の膝は、とっくに限界超えてるんだ! このまま試合に出続けたら、次か、その次ぐらいで完全にパンクする。それはお前が一番よく分かってるだろ!』
トレーナーは怒鳴りながら懇願していた。
せめて次の試合までだけでも休んでくれるようにと。
その悲痛な声を聞きながら、芹沢は隣に座っていた斉木を盗み見ていた。
『休みません』
静かにそう言った、斉木はうっすらと笑ってさえいたのだ。
静かに笑う斉木の表情を見て、芹沢はようやく、斉木が今年で選手生命を終えてもいい覚悟でいることを悟ったのだ。
斉木は芹沢に対しては、限界まではやらないと言い続けていた。
下がるべき時にはきちんと下がると。
だが、それは芹沢の心情を慮っての方便だったのだろう。
斉木の選手生命が断ち切られる可能性など考えるのも恐ろしいことで、芹沢は愚かにも斉木の方便に飛びついて可能性から目をそらしてしまった。
そんな芹沢へ、監督の言葉が追い討ちをかけた。
一度膝をパンクさせてしまえば、今年で終わらないまでも、斉木の選手生命を縮めることになるのは間違いない。
斉木がそれでも構わないと考えてしまったのは、斉木と言う懐の広いキャプテンにおんぶに抱っこしてしまった、芹沢自身のふがいなさのせいなのだ。
ようやく、気づいた。
今、斉木に群がる若いチームメイト達と、自分は何も変わらない。
一体何が違うと自惚れていたのか。
違っていたなら、そもそも斉木がJ2に移籍する必要もなかっただろうに。
本当は。
斉木は芹沢のせいで怪我を再発させたのだから、これ以上悪化させないために芹沢が斉木を止めなければならなかったのだと、監督の言葉で気がついてしまった。
今更だったが。
気がついた後は、立ち上がって激昂する斉木の服さえ触れなかった。
あれから、芹沢はまだ斉木と正面から目を合わせられないでいる。
芹沢の心の中にはただ一言が渦巻いている。
――まだ取り返しはつくだろうか。
いや、取り返しをつけなければならないのだ。
芹沢は薄い唇を引き結んで、体を起こした。
その上に、よく通る声が降って来る。
一瞬、伸ばしたはずの体が硬直する。
「芹沢、補助するぞ。一人じゃやりにくいだろ」
いつもならいつまでも聞いていたい声だが、今は、無理だ。
「いえ、もう終わりましたから」
芹沢は何気ない仕草で立ち上がり、斉木の視線を避ける。
「でも、どうせみんなこれからだぞ」
スタミナのある芹沢は、ウォーミングアップのランニングもチームの中で一人飛び抜けて早い。
先に始めて待ちが発生してしまっては、せっかく上げた心拍数が無駄になるし、故障の原因ともなりかねない。
そう気遣われて芹沢は思わず拳を握り締めた。
自分は無理を重ねるくせに、他人のこととなるとこうやって正論を吐くのだ。
「そうしたら1、2週よけいに流しますよ。斉木さんもいい加減戻った方がいい。内田さんがにらんでる」
と、踵を返してランニングへ向かおうとする芹沢の腕を、斉木ががっちりとつかんだ。
「って、待てよ。ったく気が短いな」
振り払うことは出来ずに芹沢がうつむいて固まっていると、その視界に蛍光カラーの塊が突き出された。
「これ、渡しそびれてたからな」
「ああ…」
斉木が取り出したのは、キャプテンマークである。
新品ではなく、前の試合まで斉木が使っていたものだ。
確かに斉木が抜けるなら後を受けるのは芹沢しかいない。
迷いながら差し出した手に、キャプテンマークが落とされる。
すると、斉木がつかんでいた手を離した。
内心で芹沢がほっとするのも束の間、
「悪いな、迷惑かけて」
背中をぽんと叩かれると同時に、芹沢にしか聞こえないような声で告げる。
慌てて芹沢が振り返ると、斉木は何事もなかったかのように室内練習場へ歩いていくところだ。
もう隠す必要がないので盛大にびっこを引く後姿に、芹沢は呟く。
「謝るのは、悪いのは、俺の方なのに…」
芹沢は、使い込まれたキャプテンマークを握り締めた。
斉木が抜けて初めての練習試合は、JFLに所属する大学チームとの対戦であった。
斉木が抜けた新体制の確認には手頃な相手であろう。
試合に出られない斉木は、ジャージ姿でベンチに陣取っている。
男らしい眉を寄せてしかめっ面をしているのは、トレーナーが見張りについているからだ。
口しか出さないと説明したにも関わらず、足が出る――試合に出てしまうのではないかと疑いの目で見られるのは自業自得と言うものである。
そんな様子を視界の隅に収めながら、芹沢は蛍光カラーのキャプテンマークを取り出した。
斉木から渡された物だ。
新品を用意するつもりは最初からなかった。
それは戒めだ。
キャプテンマークを腕につけて、芹沢は円陣に加わる。
「一人一人が最高のパス、最高のプレーをしろ」
芹沢は、円陣を組むスタメンに懐かしい言葉を告げた。
そして、いたずらっ子の笑みを浮かべ、手を差し出した。
「斉木さんが早く怪我を治さないとって焦るぐらいの試合をしてやろう」
「おうっ!」
手を重ね、気合を入れて円陣を解く。
センターサークルでキックオフを待ちながら、敵味方のポジションを芹沢は頭に叩き込む。
斉木が抜けた後に芹沢が入り、右のFWが補充された。
システムは2-4-4のまま変わらないが、斉木よりも芹沢の方がより攻撃的であるために、MFは台形から芹沢を頂点とするひし形に変更されている。
芹沢の脳裏に浮かんでいるのはフィールドの俯瞰図だ。
芹沢は、肉体は地面の上にありながら、空から全体を見渡せる視界を持っているのだ。
常にフィールドを俯瞰している芹沢は、どんな混戦の中にあっても敵味方のポジションを正確に把握し、狙うべきゴールを見失うことがない。
それは芹沢にいくつも与えられた天与の才の一つである。
そうして芹沢は、斉木の言葉を思い出す。
誰もがフィールドを俯瞰出来る訳ではない。
そしてほとんどの選手は、芹沢ほど早くデッドスペースを見つけることも、手際よくデッドスペースを作り出すことも出来ないのだと。
だから、誰よりも早く見抜いたデッドスペースを有効に使いたいならば、芹沢自身が指示を出してコントロールしなければならない。
それは司令塔としては至極当たり前のことだったが、初めてフィールドに立ったその時からフィールドを俯瞰していた芹沢にとっては、目から鱗が落ちる思いだった。
芹沢には、俯瞰出来ない選手達がどんな光景を見ているのか、いや、そもそも誰もが俯瞰出来る訳ではないという可能性すら考えたことがなかったのだ。
それは万能者であるが故の死角である。
センターサークルの中で、芹沢は相手チームの左サイドに目をつけていた。
DFの裏が大きく開いている。
芹沢は右サイド側に、手振りで相手のスペースを示す。
うなずき返したところを見ると、芹沢の意図は伝わったのだろう。
「中島、フォローしろ」
「はい」
キックオフの軽いパスを受けて、芹沢はボールをキープしたまま上がっても、敵の左サイドバックが下がる気配はない。
芹沢は自軍左サイド、敵から見れば右サイドよりへ進む。
と、同時に、
「橋本! 上がれ!」
と、味方の左サイドのFWをオフサイドラインギリギリまで上がらせる。
芹沢のパスの精度の高さは、ショートにしてもロングにしても定評がある。
FWが徐々に前へ詰めれば、引きずられて敵DFも下がっていく。
ボールをキープしたまま上がる芹沢にもチェックが入る。
しかし芹沢にとっては、マークが二枚までならばまだ安全圏だ。
「長沢!」
芹沢は、充分にオフサイドラインが下がったことを確認して、味方右サイドにアイコンタクトで指示を出す。
ゆるゆると動いていた右FWが猛然とダッシュを始めた瞬間、ようやく相手が自軍の守備の穴に気がついた。
左サイドに偏りすぎ、かつ、オフサイドラインも下がり、今、右サイドにクロスを通されれば、絶対フリーのチャンスになる。
クロスを出すのは芹沢だ。通らないはずがない。
蹴り出しを押さえようと三人目のマーカーが迫っていることを視認して、芹沢はフォローさせている味方にパスを出す。
一見無造作にも見えるそのパスは、正確に味方足元に転がる。
すぐに折り返すように指示を出すと同時に、身軽になった芹沢はダッシュしてマーカーを振り切った。
その芹沢に折り返されたパスが戻って来る。
が、芹沢のスピードを読み込んでいなかったのか、パスは短すぎた。
背後を抜けそうになるパスを、芹沢はとっさに勢いを殺さずに体を反転させて、ボールをキープする。
追いかけていたマーカーが手も足も出す暇がないほどの一瞬の早業であった。
「背中にも目がついてんのか!?」
マーカーの遠吠えを背中で聞きながら、芹沢は右サイドを確認して舌打ちをする。
まだFWが追いついていない。
スタートを切るポジションが深すぎたのだ。
今、パスを出してFWが拾うことを祈るか、もう少しキープしてタイミングを見計らってからパスを出すか。
しかし、あまり長持ちしていると、今度は最終ラインに突入してしまう。
芹沢ならば強引な中央突破も可能だが、それは本意ではない。
そうこうしている内に、何とか右FWがDFの裏に回りこんだ。
相手のDFはまだ戻りきれていない。
芹沢がクロスを放つ。
芹沢の意図通りにフリーのFWへ最終パスが通る。
先制したと、ゴール前に自らも走りこみながら芹沢は思っていた。
だが、味方FWが放ったシュートは、ゴールバーを大きく外れ、空に吸い込まれた。
芹沢は、大きく目を見開いた。
ありえない、と、思う。
GKとの一対一、さほど難しい角度でもない。
絵に描いたような決定機だ。
自分だったら絶対に外さないだろうし、悪くとも、枠の中には収める。
それでつかまれれば仕方がないが、こぼれれば誰かがフォロー出来る。
が、これでは芹沢もどうにもしようない。
しかしすぐに気を取り直す。
まだ始まったばかりだ。
いちいち一喜一憂していたら身がもたない。
そう自らに言い聞かせながら、芹沢は重い足取りで元のポジションに戻った。
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