ゲームメイクに徹した芹沢は数多くの決定機を演出したが、結局前半は0-0で折り返した。
ハーフにベンチへと引き上げる芹沢は、深い疲労を感じていた。
スタミナの問題ではない。
改めて斉木の存在の大きさを思い知る。
斉木がいる時は、試合中にほとんどギャップを感じることはなかった。
斉木がクッションになって全て吸収してくれていたのだろう。
斉木がいない今、芹沢自身が歩み寄り、彼らを束ねていかねばならないのだと左腕のキャプテンマークが語りかける。
――出来るだろうか、自分に。
斉木がクッションになっていたことにも気づいていなかったと言うのに。
芹沢は自らのユニフォームを握り締めた。
斉木の加入によって忘れかけていた記憶が蘇りかける。
だが、そんな芹沢にタオルが差し出され、芹沢の思考は中断される。
「ほら」
「あ、すみません…」
タオルを渡してくれたのは斉木だった。
斉木はそのまま芹沢の隣に腰を下ろした。
斉木がどういうつもりなのか分からずに芹沢が流れる汗を拭っていると、後半に向けて監督の指示が出る。
「芹沢君を中心にして、後半立ち上がり10分で1点を皆で取りに行こう。チャンスは充分に作られている。後は、周りをもっとよく見て、誰かの指示を待つだけではなく、自ら判断し、動いていくことを忘れないように」
と、隣の斉木が、芹沢の耳にだけに届く程度の小声で呟いた。
「お前はもっとラフでいいぞ。完璧にこなそうとするな。あれじゃあ疲れる」
その、言葉を聞いて。
芹沢は自分の不甲斐なさに泣きたくなった。
クッション役がいなくなって、チームのアンバランスが露呈してしまった状態に不安を感じているのだろう。
責任感の強い斉木のことだ、今のままではいくら休んで欲しいと言っても、また無理をさせてしまうに違いない。
タオルの下で芹沢は薄い唇を噛み締める。
「最初から上手くいく訳が無いんだ。その内歯車も噛み合い始めるさ。考えすぎるなよ」
表情の見えない芹沢をどう思ったているのか、斉木は噛んで含めるように言い聞かせる。
そうして、ぽん、と一つ肩を叩いて、いらついている様子のトレーナーの元へ戻って行く。
ベンチに腰掛けた途端、トレーナーに怒られたのだろう、苦笑する斉木の表情は明るい。
だが、芹沢は知っている。
斉木が上手に笑顔の仮面を使い分けていることを。
斉木は本質的に一本気で裏表がない方だが、人間そんな馬鹿正直ばかりでは生きていけない。
あの笑顔は本気なのか、芹沢をあやすための偽りの笑顔なのか、多分後者だろうと芹沢は思う。
テクニックもスピードもパワーも誰にも引けを取らないと自負しているが、しかし、決定的な何かが欠けているという自覚が、芹沢にはある。
そうでなければ、斉木がここまで無理をすることもなかったはずだ。
早く、その欠けた部分を見つけ出さなければ。
そうしなければ、斉木を安心させることは出来ない。
「時間だ」
芹沢は硬い表情で立ち上がり、フィールドへ戻った。
後半の立ち上がり、監督の指示通りに得点を狙う芹沢は、数度の得点機を演出した。
だが、そのどれも不発に終わった。
圧倒的に攻め立てながら、ゴールを割れないチームに芹沢の苛立ちは増すばかりだ。
そして何より、芹沢と他のチームメイトとのギャップが埋まらない。
「周りをよく見ろ! 前が空いてる! 前に出せ!」
いつの間にか、斉木もテクニカルエリアで声を張り上げていた。
その肩を、トレーナーがつかむ。
「斉木、ベンチに戻れ」
「いいでしょう、立って見てるぐらい」
「お前のバカ声ならベンチからで充分届く。ほら、戻れ」
「放っておいて下さいよ」
「放っておいたらお前はすぐに無理するから俺がこんなことしなくちゃならんのだろうが!」
「って、あっ! カットしろ、カット!」
「いい加減にしろ、この猪!!」
トレーナーの手を振り払い、指示を出し続ける斉木のおかげか、徐々に修正されては来ているが、焦る芹沢には遅すぎるように感じられる。
そして、後半20分過ぎた頃だった。
「あっ」
デッドスペースへ走り込む芹沢へのパスがわずかに距離が足りなかった。
バウンドしてスピードが死んだボールを、敵のDFにカットされる。
センターラインを越える縦パス一本で、一気に形勢が逆転する。
「戻れ!」
「DF、サイドに追い詰めろ!」
芹沢と斉木の指示が同時に飛ぶ。
左サイドバックが敵の右FWを追いかける間に、MFがゴール前へ駆け込む。
しかし間に合わなかった。
DFのプレッシャーに負けず、敵のFWが最終パスをゴール前へ放つ。
そのボールをつかもうと飛び出したGKと、敵のFWが交錯する。
こぼれたボールは、ころころとゴールへと転がっていく。
全力でピッチを駆け抜け、カバーに入った芹沢も間に合わず、ボールはあっさりとゴールラインを割った。
芹沢は立ちすくむ。
長いホイッスルが響く。
その音で我に返った芹沢は、思わずピッチを蹴りつけそうになったが、
「ドンマイ!」
テクニカルエリアの斉木の声で何とか思いとどまる。
斉木だったら、そんな真似は絶対にしない。
すべきでないことも、頭では分かっている。
だが、失点したことよりもその前のボールを奪われたプレーの不甲斐なさに、芹沢は拳を握り締めた。
あの場面でボールを奪われていなければ今の失点もない。
――斉木さんがいたなら。
芹沢は思わずにはいられない。
斉木であれば、あの場面で芹沢が欲しいと思うパスをくれただろう。
斉木と他のチームメイトを比べること自体が愚かしいことだとは承知しているが、自分でもどうにも出来ない感情と言うものはある。
「まだ時間はたっぷりある。落ち着いて行こう! DFはマークを確認しろ!」
斉木の声に、芹沢は顔を上げた。
「仕方、ないよな」
何かを決意した表情で呟いて、芹沢はキックオフのためにセンターサークルへと向かう。
キックオフで軽いパスを受け取ると、芹沢はドリブルで中央を駆け上がった。
スピードに乗ったドリブルは、マークの選手さえも振り切って行く。
ようやく追いついたチェックも軽くかわしてあっという間にゴール前に持ち込む。
しかし、マンマークを諦めて守りを固めたゴール前では、さすがの芹沢も簡単にはシュートに持ち込めない。
その間に、べったりと二人のマークがつく。
とは言え、二人のマークを相手にしても芹沢は平然とボールをキープし続ける。
相手が日本代表クラスならともかく、芹沢を完全に身動きできなくするためには、並みの選手であれば三人は必要だ。
執拗なマークをかわしながら、芹沢は周囲を見回す。
三人目のマーカーが迫っている。
一方で、フリーの左FWが手を挙げているのが見えた。
「芹沢! ボールを長持ちしすぎるな!」
斉木の声も聞こえた。
「パスを出せ、パスを!」
ボールを長持ちしないシンプルなプレーは基本中の基本だ。
そして芹沢は、パスにしてもシュートにしてもダイレクトで正確に打てるテクニックも持っている。
「皆もだ、芹沢にパスを出させろ!」
斉木は試合中と同じように斉木は芹沢に追いすがるチームメイト達へ発破をかける。
いつもの芹沢であれば、3人目のマーカーどころか、2人目のマーカーが追いつく前に次のプレーを選択しているだろう。
――斉木さえ、いたならば。
斉木の声も無視して、芹沢はゴールを向いた。
パスを出すよりも、自力で突破する方が確実だと踏んだのだ。
「芹沢!!」
斉木の声のトーンが変わったが、 それも知らぬ振りで芹沢はゴールへと駆ける。
芹沢は右のマーカーへ自ら突っ込んでいく。
「え」
不意のことで一瞬棒立ちになったマーカーを、1フェイントで鮮やかに抜き去る。
「と、止めろ!」
「止まるかよ」
ペナルティエリアに踏み込むと、GKが飛び出す間もなく豪快なシュートを放つ。
ゴール右下隅を狙ってGKの脇を抜けたと見えたシュートは、ゴールラインギリギリで敵のリベロに遮られた。
ボールはエンドラインを割り、CKになる。
もちろんCKを蹴るのは芹沢だ。
コーナーに置かれたボールを前にして、敵味方の位置を確認する。
芹沢には、ゴールへ向かう一筋のラインが見えている。
とても狭く細い隙間に過ぎないが、芹沢は腹を括った。
芹沢は一瞬ニアの味方に視線を向けて、ボールを蹴り出す。
その弾道は、ファーへ向かうように見えた。
ファーの味方の前に敵が壁を築く。
しかし。
ファーへ向かうと思われた弾道が急激に軌道を変えた。
芹沢にだけ見えた軌跡をなぞって、鋭い弧を描いたボールが空いていたニア側のゴールネットを揺らす。
「な…っ」
魔術師の名にしおう、悪夢のようなシュートだった。
敵にとっても、味方にとっても。
芹沢一人で得点してしまったようなものだ。
芹沢は何事もなかったかのように踵を返してポジションに戻る。
凍りついた空気の中、我に帰った主審が慌ててホイッスルを吹く。
その音で、ようやく皆の呪縛が融けた。
だが、凍りついた空気が元に戻ることはなかった。
試合終了を告げるホイッスルが鳴る。
結局、1-1のまま試合は終了した。
皆、動きがどこかぎこちなく、ケアレスミスが目立った。
芹沢のCKまでは徐々に合い始めていたパスも、その後は試合開始直後の様にばらばらになってしまった。
何か問題があることは分かるのだが、どうしてそうなってしまったのか芹沢には分からない。
芹沢は、心の中だけで首を傾げ、表面は平静を装った。
敵に対しても味方に対しても弱みなど見せたくはない。
そして何より、今は斉木の前で弱気を見せてはならないと思った。
いよいよ斉木を不安にさせてはならないと、そう信じていた。
しかし、テクニカルエリアで皆を笑顔で出迎えていた斉木は、最後に戻って来た芹沢を見た瞬間に笑顔を消した。
皆、芹沢達に背を向けていたからほとんど気がついてはいないだろう。
だが、芹沢は気づいた。
芹沢ですら久しく見たことがないような鋭い視線を正面から投げつけられれば、嫌でも気づく。
まして、斉木の負担を軽くすることばかり考えている芹沢であれば尚更だ。
クールダウンとミーティングの間は黙っていた斉木だが、終わった途端、芹沢の腕をがっちりとつかんだ。
「ちょっとこっち来い」
地を這うような低い声は、相当機嫌が悪いことを示している。
今は比較的温厚な――比較対照が悪いと言う話もあるが――人物として知られている斉木であるが、サッカーに関してだけは今も昔も変わらずに厳しい。
抵抗する間もなく物陰に連れ込まれる。
足を止めた斉木はチームメイト達の様子をうかがい、三々五々クラブハウスへ戻って行く様子を確認して、芹沢に向き直る。
斉木の迫力に押されてここまで一言の反論も出来なかったことで、芹沢は自らの敗北を悟っていたが、せいぜい平静を装う。
「ふざけるなよ、芹沢」
「…何がです?」
緊張のあまり切り口上になってしまう。
だが、斉木は芹沢の動揺など構わず詰め寄って来た。
「お前なあ、サッカーってのは一人でやるもんじゃないと何度言えば分かるんだ!」
「分かってますよ、それぐらい」
「じゃあ、何なんだよ、さっきの試合はっ。せっかくいい感じになってたのに、お前のスタンドプレーで台無しだ!」
斉木のその言葉は、ささくれた神経をもてあましていた芹沢を逆上させるには充分だった。
「だって、ああしなけりゃ勝てなかった!」
気がついた時には怒鳴り返していた。
「しょうがないじゃないでしょう!? 他にどうしろって言うんだ!」
そしてまた、斉木も。
「こんの…馬鹿がっ」
ゴッと嫌な音が響く。
斉木が情け容赦なく拳骨をお見舞いしたのだ。
あまりの痛みに芹沢は涙目で殴られた頭を抱えたが、殴った斉木も相当痛かったろうと思われる。
斉木は一瞬自分の右拳を見て、それから左手で芹沢の胸倉を掴んだ。
「練習試合で勝ちにだけこだわってどうする! 勝つことだけが目的じゃない、どうやって勝つかが大切なんだろうが! 目的と手段を取り違えるな、今更こんなこと言わせるな!」
一気にまくし立て、斉木は芹沢の胸倉を掴んでいた手を離し、そして深い溜め息を吐いた。
「お前が相手を信頼しなけりゃ、相手だってお前を信頼する訳ないだろうが」
殴られた痛みと耳鳴りを堪えていた芹沢は、斉木の言葉にはっと目を見開く。
そんな芹沢の前で斉木も、痛みを堪えるような表情をして、言った。
「先に帰る。俺が車使うから、お前はタクシー拾え」
そうして踵を返し、クラブハウスの方へとゆっくりと歩いて行く。
「頭冷やしてから来い」
そう、言い残して。
残された芹沢は、目を閉じてユニフォームを握り締めた。
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