芹沢は、ボールを一つ持って練習場のピッチに立った。
頭を冷やす方法を色々考えたのだが、結局選んだのはサッカーだった。
一度シャワーを浴びてから、許可まで取って戻って来たのだ。
芹沢は微苦笑する。
どれほど斜に構えて見せても、サッカーを抜きには今更語れないのだ。
脇にボールを置いて、軽いストレッチを行う。
ストレッチを終えてから、センターサークルにボールを置いて、ドリブルを始める。
後片付けが面倒なのでコーンまでは持ち出さなかったが、適当に曲がりながらゴールへと向かう。
角度のないところまで駆け上がり、シュートを放つ。
ただのシュートではつまらないので、カーブなんぞかけてみた。
ボールは大きく弧を描いて、ゴールネットに突き刺さる。
調子は悪くない。
だが、芹沢は小さく呟いてゴールへと歩き出す。
「面倒くせぇ」
一人ではやれることにも限りがあるし、自分で始末をしなければ、次に何も出来ない。
いつもならば斉木が付き合ってくれるが、今回はそれも望むべくもなく。
芹沢がゴールネットを跳ね上げると、ネットに包まれていたボールが足元に転がり出てくる。
ボールを手にしてセンターサークルへ戻ろうと、ジャージのポケットに手を突っ込んで踵を返した芹沢の足が止まる。
練習場の入り口に、目と口を丸くして固まっているチームメイト達を見つけてしまったのだ。
「…何してんだ?」
芹沢が首をかしげて問う。
すると、ようやく呪縛が解けたらしい。
ボールネットやコーンを抱えたチームメイト達が、喚きながら駆け寄ってきた。
「だーかーらー、何であんなに曲がるんですかーっっ」
「ブーメランじゃないんだから、あんなの反則っすよ!」
「止められっこねえよ、あんなの!!」
興奮のあまりぎゃあぎゃあと喚く様に、先天的に体育会根性が不足している芹沢は心の中で引いた。
しかし、本当に逃げるより先に周囲を取り囲まれてしまったので、身動きは取れなかった。
しかも、
「芹沢さんが味方でよかったーっ!」
などと言いながら、バンバンと背中を叩くのはやめて欲しい。
悪気がない分、力を加減しないので、痛い。
「だからっ、何してるんだ、お前等!」
「何って、えーと、練習をしに」
あっと言う間に堪忍袋の緒を切らした芹沢の怒声に我に返ったチームメイト達は、それぞれ手にしていた練習道具を示して答えた。
「練習って、今日はもう休みだろうが」
「や、だから自主練ですよ」
答えたのはハーフの中島だ。
「てか、芹沢さんこそ、どうしたんですか」
「どうしたって、俺も練習だ」
見れば分かるだろうと言わんばかりの芹沢に、全員がどよめく。
「ええっ、芹沢さんも練習するんですか!?」
芹沢は思わず噛みついた。
「俺が練習しちゃ悪いのか!?」
「いえ、そうじゃなくて、芹沢さんて、練習しなくたって出来るもんだとばっかり思っていたんで意外で」
「そんなことあるか。俺だって練習しなけりゃ精度は落ちるし、スタミナは落ちる一方だし」
苦虫を噛み潰す芹沢に、チームメイト達は芹沢さんでもやっぱり人の子なんだなあ、と、何かが間違っているような気がしないでもない納得をしている。
このまま放っておくと、痛いところを突っ込まれるような気がした芹沢は、無理矢理話を元に戻した。
「お前等も急に自主練なんて」
「急じゃないっすよ」
中島は顔の前で手を横に振る。
「俺ら、前から斉木さんに言われてて」
「斉木さん?」
芹沢が整った眉をしかめると、全員が顔を見合わせながらうなずく。
「基本とスタミナが全然足りないって。その二つは高いレベルであればあるほどいいのに」
どんな素晴らしい戦術を立てようとも、それを実現する基本技術が備わっていなければ話にならない。
スタミナがなければ、最後までピッチにいさせてはもらえない。
消耗し、運動量が落ちた時に生まれる隙を狙われるのは、どんなチームでも同じだ。
そして、その高いレベルの基本とスタミナを体現しているのが、他ならぬ斉木である。
他の誰が言うよりも説得力がある。
「どうしたらいいのかは自分達で考えろって言われて」
その当の斉木は、オーバーワークは厳禁と言い渡した上、強制もしなかったそうだが、やるしかないだろうと言う話になったのだそうだ。
「で、今日も飯食いがてらに反省会を開いて、少し練習もしてこうってなったんですよ」
そういうことを、先シーズンの終わり頃から有志で続けているのだそうだ。
芹沢は全く知らなかったが。
「知らなかった」
ぽつりと呟くと、
「そりゃそうっすよー、秘密特訓ですもん」
芹沢の複雑な胸中など気にかける様子もなく、中島は明るく答えた。
「こっそり練習して、いつの間にこんな上手く! みたいな方がかっこいいじゃないですか」
なあ、と、仲間達に同意を求めると、皆うんうんとうなずいている。
「斉木さんにも内緒だったんですよー」
とは言うが、多分、斉木は気がついていただろうと芹沢は思う。
斉木は全然見ていないような振りをして、その実驚くほど人をよく見ているのだ。
示唆をした以上、彼らの反応に気を配っていただろうから、斉木の目を避けることなど不可能に近い。
それに、彼らがこうして自主練を行うことは、斉木にとっては示唆を与えた時点で、既成事実だったに違いない。
斉木はとにかく人をのせるのが上手い。
斉木に言われると、誰でもその気になってしまう。
斉木は仲間を心の底から信頼している。
その信頼が相手を動かすのだ。
そして芹沢は、ああ、と、思った。
そこが芹沢と斉木の決定的な違いなのだ。
「それで、もう誰もいないだろうと思って戻って来たら芹沢さんがいて、あんなすごいシュート打ってるんですもん」
度肝抜かれて秘密特訓も忘れました、と、中島は肩をすくめた。
「本当に今日のCKもすごかったですよね」
「もう凄いもん見て魂掴まれた感じ、みたいな」
また口々に喚き出しそうになって身構える芹沢の前に、ふとFWの長沢が前に進み出てきた。
「芹沢さん」
長沢は思いつめた表情をしていて、それにつられてか皆も口をつぐんだ。
「今日の試合はすんませんでした」
そうして頭まで下げられては、いかな芹沢でも謙虚にならざるを得ない。
「いや、今日は俺こそ…ちゃんと試合を組み立てられなくて悪かった」
「でも、俺、全然ついていけてなかったし、せっかくお膳立てしてもらったシュートチャンスも全部外したし…」
根が真面目なのだろう、長沢は自分の悪かった点を並べ立てて沈み込んで行く。
こういう時に斉木なら止めて上手く引き上げるのだろうが、あいにくと男相手にそういうスキルを持っていない芹沢にはフォローのしようがない。
うっかりなことを言って更に落ち込ませては洒落にならないので、黙るしかない。
周囲も黙っているのでお通夜になりかけたが、そんな雰囲気を叩き壊すように中島が陽気な声を出す。
「俺も俺も。今日は自分的にはあり得ないぐらい前にパスを出してたつもりだったんすけど、芹沢さんてば信じらんないぐらい早くて」
その明るい声に、お通夜寸前まで行っていた沈んだ空気が取り払われる。
ああ、こいつがムードメーカーなんだな、と、芹沢は頭に叩き込む。
と、同時に、初めて見る姿だと思う。
彼らが芹沢の前でこうも素の反応を示す様は、少なくとも、芹沢には覚えがない。
入団当初から、彼らとの間にはもっと距離があったような気がする。
彼らの方が芹沢を遠巻きにしていたということもあるだろうが、芹沢の方が深入りを避けてしまっていたのも事実だろう。
芹沢の実力は抜きん出ているが、それだけで信頼が勝ち取れるものではないことは、今ならば分かる。
芹沢は右手を額に当てて、目を閉じる。
人の気持ちと言うものは、そう単純に割り切れるものではない。
常にフィールドを俯瞰して何でも見えているような気になっていたが、その実足元は何も見えていなかったということだ。
芹沢は、薄い唇の端に微かに自嘲を刻む。
その時、いきなり空いていた左腕を掴まれた。
「芹沢さん、せっかくだからこの後練習に付き合って下さいよ」
驚いて慌てて掴まれた左腕を見ると、中島の笑顔が飛び込んでくる。
芹沢が断るなどとは夢にも思っていない、いい笑顔である。
「だって秘密…」
じゃなかったのかと芹沢が突っ込む前に、引きずられる。
「いやもう、バレちゃったから秘密も何もないしー」
思わず芹沢は助け舟を求めて視線を巡らせたが、皆、黙ってついて来る。
「こうなったら体で芹沢さんのスピード覚えますから」
逃げ道はないらしい。
そうして。
「そうか、そんなにしごかれたいか」
芹沢がにやりと笑う。
それは肉食獣の凶暴な笑みだ。
「とことん絞ってやる。覚悟しろ」
恐らく斉木がいれば気づいただろうが、この場に居合わせた者は、まだ誰も芹沢の笑みの意味に気づいていない。
「望むとこっすよ」
などと明るい答えが返ってくるが、それも練習が始まるまでのことだ。
チームメイト達は始めて、キレて斜に構えることも忘れた芹沢の恐ろしさを思い知ることになるのだ。
「短い! 俺の動きをもっとよく見ろ!」
「はい!」
「守備側もだ! パスミスぐらいカットしろ!」
「すんませんっ」
「遅い遅い! スタートダッシュ10本やり直して来い!」
「はいぃっっ」
矢継ぎ早に指示を出しながらピッチを駆け回る芹沢は、滝のような汗をかいている。
だが、それ以上にチームメイト達の息が上がっていた。
教えろと言ってきたのだからと、芹沢は自分のペースを崩そうとしない。
それは、チームメイト達にとっては未知の領域と言ってもいいハイペースだった。
文字通り息をつく暇もない。
普段の練習では、芹沢はやる気がなくて流しているようにも見えたのだが、それはあまりにも余裕がありすぎた結果だったのだと、チームメイト達は思い知る。
それでも、彼らは喰らいつく。
「せ、芹沢さん、もう一本、お願いします…」
長沢が切れ切れの息で訴える様子を見て、芹沢は辺りを見回す。
ほとんどが肩で息をしているのを確認して、芹沢は首を横に振った。
「いや、今日はこれまでだ」
「でも…」
「これ以上は明日の公式戦に差しさわりが出る」
きっぱりと言って、芹沢は足元にあったボールをつま先で蹴り上げて、右手で受け止める。
受け止めたボールは手近にあったボールネットに問答無用で放り込んでしまう。
その様に緊張が解けたのか、何人かがピッチに座り込んでしまう。
と、芹沢は、
「クールダウンはきっちりやれよ。俺のせいで怪我したなんて言われちゃたまんねえ」
やれやれと舞台俳優の様に肩をすくめるが、そんな仕草をかっこつけだの気障だのとは、もう二度と誰も言わないだろう。
芹沢は涼しい顔でランニングを流し、さっさとストレッチを始める。
その姿を見ながら、誰ともなく呟く。
「芹沢さんて、ホンットにとんでもない人だったんだなー…」
「芹沢さんについていく斉木さんもな…」
チームメイト達は遠い目をして呟いた。
シャワーを浴びて汗を流すと、非常にすっきりした気分になった。
そして、足がなかったことを思い出し、携帯でタクシー会社に電話をかけながら、芹沢はクラブハウスを出る。
途端、聞き覚えのあるクラクションが鳴らされ、今まさにタクシーを頼もうとしていた芹沢は顔を跳ね上げた。
見慣れた車の助手席で、斉木が右手をひらひらと振っている。
「すみません、やっぱりいいです」
と、芹沢は早口に言うが早いか携帯を切って、車に駆け寄った。
「どうだ、頭は冷えたか?」
運転席のドアを開けた途端に言われ、芹沢は後部座席に荷物を放り込みながら答えた。
「存分にね」
そうして慣れた仕草で運転席に納まった芹沢が尋ね返す。
「斉木さんこそどうしたんですか、帰ったんじゃなかったんですか」
自主練に戻る前、芹沢は車がなくなっていることを確認していた。
「だから迎えに来てやったんじゃないか」
別に何事でもないかのように答える斉木に、芹沢はわずかに引いて尋ねる。
「まさか、ああなることを予測してたんですか」
そこまでいったら化け物だと、さすがの芹沢も思わないでもないが、その一方で斉木ならありえるかも知れない、と、ちらりと思う。
すると、
「偶然だよ。そこまで分かるぐらいなら占い師か何かに転職するよ」
窓枠に肘をついた手で顎を支えながら斉木が笑う。
「お前が自主練してくだろうなってとこまでは読んでたから、適当に時間見計らって迎えに来たら、何か面白いことになってたからさ」
「…見てたんですか」
「途中からな。物陰に隠れてこっそりと」
「覗き見してたんですか」
「人聞きの悪い言い方するなよ。美しい団結が生まれる様子を見守ってたのに」
嫌味の一つも言いたくなって言ってみたはいいが、見事に倍返しを食らってしまった。
「俺、そういう体育会系根性、寒気がするんですよね」
芹沢は思わず鳥肌の立った腕をさする。
苦虫を噛み潰したような表情の芹沢へいたずらっ子の視線を投げて、斉木はとどめを刺す。
「お前がピッチでむきになってるところなんて、久しぶりに見た」
斉木の言う通りである。
向こうが教えろと言ったのだからと、芹沢は容赦なく怒鳴りつけ、追い立てた。
そしてチームメイト達は、どれだけ怒鳴られようと、引き離されようと喰らいついてきた。
それは芹沢が嫌いだと言い放つ体育会系根性以外の何物でもない。
芹沢にとっても初めての体験だったのだ。
そういうやり取りもけして不快なばかりではないことを。
いや、正直に言えば、かなり楽しかった。
ずば抜けた才能、科学的に正しいトレーニング、有効な戦略、戦術、そういうものだけでは成り立たないものなのだ。
「要するに、俺は何でも見えてるつもりで、肝心なことを見ていなかったってことなんですね」
芹沢の薄い唇に自嘲の笑みが浮かぶ。
「斉木さんは、そういうことを全部フォローしてくれていたんですよね。情けないことに、俺はそれにも全然気がついてなかった」
気がつくのが遅すぎましたね、と、芹沢は肩を竦める。
「遅すぎやしないさ。お前はまだたったの25歳だろうが。どこが遅いんだ」
ふざけるなよ、と、斉木は不機嫌な顔で芹沢の頭を軽く小突く。
「大体、こっちは小学生の時からサッカーやってるんだ。まだサッカーのキャリアがたかが10年程度の奴に、経験まで負けてたまるか」
こっちはな、お前みたいな化け物に追いてかれないために、20年も地道に練習してるんだからな、と、斉木か言う。
「勿論、このままで済ます気はありませんよ。弱点がはっきりしたら、後は克服するだけですからね」
と、かつてスタミナの問題を指摘され、たった半年で克服して見せた芹沢は、しおらしい態度を消して言った。
「斉木さんの見ているものを教えて下さい」
すると、斉木は一瞬きょとんとして、それから意味を理解したのか苦い表情になった。
「お前がそこまで押さえられるようになったら、俺のアドバンテージがなくなる」
その言葉に、芹沢は小さく笑った。
「心配要りませんよ。こればかりは教えてもらっても斉木さんを超えられるとは思ってません、俺の性格的にね、無理でしょう。今だってやらないで済むなら済ませたいですしね」
そう言って、車のエンジンをかける。
「でも、斉木さんをJ1へ連れて行くためには、どうしても必要です」
正直すぎる自己申告に、斉木は苦笑いの表情になる。
「地味だぞ。それでもよければ教えてやるよ」
「勿論」
芹沢はきっぱりと頷くと、ハンドルを取った。
「俺も早いとこ怪我どうにかしないとな」
「そうして下さい」
芹沢がアクセルを踏みこむ。
例え泥に塗れても、けして折れないプライドを胸に抱いて走り続けるのだ――。
薔薇のダイヤを胸に
言い訳
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