斉木はキッカーからボールを貰うと、すぐに声を張り上げた。
「あがれ!」
 そして自分もドリブルで上がっていく。
 すぐに正面から突っ込まれたが、それはスピードに乗ったまま軽く横に避けた。
「甘く見るなよ」
 こそりと呟く。
 確かに斉木は代表ではサブだった。だがやはり、J1でレギュラーを取り、代表に選ばれるほどの選手なのだ。
 スピードとキレはやはり一級品だ。何の工夫もないチェックでは、かすることも出来ない。
 斉木は再び敵味方の位置を確認する。
 味方はやはりなかなか思うようには上がらない。
 そういう習慣がついてしまっているのだ。
 が、まあそれはこの試合で払拭できるだろう。
 前に進まなければ、点など取れるはずもないのだ。
 その瞬間、今度は前と横から迫る敵を視認する。それを1フェイントで振り切って見せた。
 リスクは高かったが、立ち上がりの油断もあるのか、あっさりと抜けた。
 本来の斉木であれば、無理せず2フェイントかけただろうが、今回ばかりはリスクを犯しても度肝を抜く必要があった。必要とあれば、斉木はいくらでも手堅さなど捨てるし、またリスクの高い手段を取れるだけの実力があるのだ。
 振り切った時点でゴールまで残り約25メートル。斉木は芹沢の位置を再確認する。
 芹沢は、直前にこっそり言いつけた通り、ゴール前で待っている。
 マークは一枚。
 斉木は迷わず高いボールをあげた。
 この試合の目的は、自分を認めさせるだけではなかった。
 同時に、不当に低い評価を受けている芹沢のポイントを上げる必要があった。
 むしろ、自分自身よりも芹沢についての方が斉木にとっては重要だった。
 このまま宝である芹沢を持ち腐れさせておく訳にはいかないのだ。それでは斉木が無理を押し通して移籍してきた意味がない。
「芹沢、行け!」
 斉木の声に、芹沢は応えた。
 群を抜く長身は、マークをものともせず、GKの腕も押さえ込み、ピタリと照準をあわせた斉木のセンタリングをゴールに突き刺す。
「よっしゃぁ!」
 ゴール前まで届く声に芹沢が振り返ると、斉木はガッツポーズで歓喜を表していた。
 芹沢もつられた。
 少なくとも今シーズン、チームでは見せたことがないような明るい笑顔で、右拳を天へ突き上げて見せる。
 いつもすかしている芹沢のそんな姿に驚いた者も多いだろう。
 だが、のんびりしている暇はなかった。
「早く戻れ!」
 さっきまでガッツポーズを作っていた斉木は、すでに自陣に戻っている。
 一番最初に動き出したのは芹沢だ。
 足が軽い。
 こんなにも軽く感じるのは、このチームに入団してから初めてのことのような気がする。
 心が浮き立つ。
 視界が広い。
 考えるより早く体が動いた。
「え?」
 センターサークルからのキックオフ直後に、芹沢がボールを奪う。
 奪われた本人は、何が起こったのか分からないような表情をしている。
 電光石火。
 まるで、かつて代表で輝いていた頃のような動きだった。
 ボールを奪う前に自分の前に障害物がないことを確認していた芹沢は、迷わずドリブルで敵陣を駆け上がる。
「芹沢をフリーにさせるな!」
 フィールドの外から指示が飛ぶ。
 と、同時に前方から2人マークが走る。
 だが、その時には、
「芹沢!」
 芹沢の左斜め後方を斉木がフォローに走っている。
 芹沢は無理をせずに斉木へボールを流し、マーカーがボールに気を取られた隙に、ゴール前へ走り込む。
 今、芹沢に与えられた役目は、ゴールを奪うことなのだ。
 ゴールを奪うためにボールを前へ運ぶ役目を全て負うと言ってくれた斉木に、芹沢は応えなければならない。
 芹沢からボールを受け取った斉木の前に、敵のマーカーが飛び込んでくる。
 そのマーカーと味方の位置を瞬時に把握し、味方へパスを出す。
「すぐに戻せ!」
「はいっ」
 パスを出すと同時に身軽になった斉木はダッシュする。
 斉木の迫力に呑まれたのか、斉木のダッシュが意外だったのか壁パスは少しショートしたが、斉木はヒールで受け止めて、体の前にボールを回す。
 さすがに減速したが、壁パスで振り切ったマーカーは着いてこられない。
 斉木は前方を確認する。
 最初に、フリーの味方が目に入ったが、少しゴールから遠い。使うとしたらポストだが、自分が走り込む以外にない。
 芹沢は、マーカーを2枚振り切ろうとしている。
 今すぐに受け取れる状態ではない。
 本当ならパスを回したいところだが、芹沢以外の選手とはまだアイコンタクトだけでパス回しが出来るほどの信頼関係が築けていない。
 ポストに出すか、自分で持ち込むか迷った瞬間、足を引っかけられた。
「あっ」
「てっ」
 土のグラウンドに投げ出されるのは、いくら受け身を取っても痛い。加速しようとしていたから尚更だ。
 だが、またとないチャンスでもあった。
「斉木さん!」
 芹沢が血相変えて駆け寄ってくる。
 その声を聞いた瞬間、斉木は慌てて起き上がった。
 今は、自分の心配などさせている場合ではない。
「フリーキックか?」
「え、あ、ああ、はい」
 心配そうな目をしたままうなずく芹沢の手を借りずに、斉木は立ち上がった。
「じゃあ、任せる」
 そして、肩を叩いて通り過ぎる。
「頼んだぞ、魔術師」
 それは、芹沢自身さえ忘れかかっていた二つ名だ。
 かつてそう呼ばれた時期があった。それほど前のことではないはずだが、とても昔のことのような錯覚を覚えていた。
 そして、芹沢は何を求められているのか理解した。
 ゴールまで約10メートル強。かつての芹沢なら間違いなくゲットできたフリーキックだ。
「はい」
 しっかりとうなずいたのを確認して、斉木は歩き出す。
 このチームは2−4−4のシステムを取っている。中盤は2ボランチの底が狭い台形型で、斉木は左サイドのオフェンスハーフだ。
 そして斉木は、右のオフェンスハーフを捕まえる。
「これからどんどん上がれよ」
「え?」
 いきなりジャージを捕まえられて、相手は鳩が豆鉄砲食らったような顔をしているが、構わず斉木は続ける。
「このフリーキックの後は芹沢にガチガチのマークがつく。次はお前を使うから、遠慮なく上がれ」
「で、でもっ」
「何?」
「まだそんなに慣れてないのに、失敗したら…」
「ああ、そんなこと」
「そんなことって!」
 斉木はポンと背中を一つ叩いた。
「これは練習なんだ、別に失敗したっていいさ」
 斉木は笑って見せる。
「失敗したら反省すればいい。反省して、試合の時に失敗しなければそれでいいんだ。練習の時から失敗を恐れてたら、何も出来ないぞ」
「はあ…」
「いいな、次の攻撃からはドンドンあがれ。好きに暴れればいいから」
 まだ少し納得しかねているらしい相手に、斉木は問う。
「返事は?」
「は、はいっ」
 穏やかだが、けして否やを言わせぬ声に、相手は思わず大声で返事してから思わず口を押さえた。
 その様に、斉木はまたポンポンと背中を叩いて、自分のポジションに戻る。
 これで、パスの出しどころに困ることはないだろう。
 自分が囲まれても心配ない。
 ほぼ、思う通りにことは運んでいる。
 ――もう一押し。
 斉木は心の中で呟く。
 その瞬間、ゴールを知らせるホイッスルが鳴り響いた。
 斉木を除くフィールド上の全員が、信じられないような顔をしてゴールを見ている。
 GKは、真っ青だ。
「何で……ボールって、あんなに曲がるもんじゃないだろ…っ」
 斉木の近くに立っていた選手がうめいた。
 斉木が呟く。
「魔術師だからな」
「え?」
 だが、斉木は答えず、自陣に駆け戻る。
 今度のキックオフは、慎重にパスを回される。
 出来ればボランチ以下に任せて上がりたいところだが、やはりそうはいかない。本来攻撃よりも守備の方が調整に時間がかかる、一日でそこまで徹底できるはずもない。
 何より斉木は、今のところ招かれざる客である。
 調整以前の問題だ。
 仕方なく、先程声をかけた右ハーフに上がるように指示を出す一方、少し下がり気味のポジションで罠を仕掛ける。
 敵FWの位置を確認し、適度な距離を保ったまま、向こう正面の右ハーフがボールを持つ瞬間を待つ。
「気をつけろ! 前から来るぞ!」
 狙い定めた右ハーフにボールが出た瞬間、斉木は一気に距離を詰めた。
「わわっ」
 斉木の突進に押されたのか、相手はボールが足につかない。
 斉木は左サイドでボールを待つFWへのパスコースを塞ぐように、かすかに左に重心を傾ける。
 それを見て取って、相手は空いた斉木の右方向へのパスを出す。
 が、それが斉木の本当の狙いだった。
「あっ」
 右足を伸ばしてパスカットし、こぼれたボールを自ら拾ってそのまま上がっていたために手薄になっていた中央を切り裂く。
 ドリブルをしながら前方を確認すると、右サイドの芹沢は2人のマーカーに囲まれ、3人目のリベロも様子を伺っているのが分かる。
 そして、斉木を止めようと2人が向かって来ているのも同時に確認する。
 予定通り、上がらせた右ハーフともう一人のFWは完全フリーだ。
 斉木は、何度も自分を振り返る右ハーフの動きと自分との距離を計る。
 ここでコケたら全部御破算だ。
 意識して、余裕たっぷりの笑顔を作る。
「頼むぞ!」
 斉木がパスを出す。
 かけた声は、本当は自分の右足に向けてのものだ。
 表情とは裏腹に、斉木は心の中で必死に祈っていた。
 その甲斐あってか。
 斉木のパスは、がら空きのゴール左前、ペナルティエリアの直前に落ちた。
 先刻の戦術練習で、ちょうど芹沢が走り込んでいた位置だ。
 わずかにロングだったが、何とか2歩で追いついてくれる。
 もっとも、DFは完全に芹沢と斉木に分断されているから、多少の長短は関係なかったが。
 芹沢と斉木に引きつけられていた敵のDFが慌てて戻ろうとする。
 リベロが戻り切る前が勝負だ。
「そのまま打て!」
 斉木が怒鳴る。
 サイドから中央に向かって切り込んでいたFWへのセンタリングを狙う様子を見せた右ハーフは驚いた様子で斉木を振り返ったが、
「いいから打て!」
「は、はい!」
 鬼の形相で指示を飛ばす斉木に脅えたように、右ハーフはシュートを打つ。
 完全フリーで打ったそのシュートは残念ながらバーに嫌われた。
 しかし、
「押し込め!」
 斉木は、既にゴール前に走り込んでいたFWに指示を出す。 
 その指示通りに、こぼれたボールはゴールに押し込まれる。
 ゴールを知らせるホイッスルが響く中、敵よりもむしろ味方が、化け物を見る目つきで斉木を見る。
 全てが、ゲーム前に斉木が簡単に言った通りになっているのだから、ある意味で当然のことかも知れない。
 全員が斉木の手のひらの上で踊らされているのだ。
 正直、芹沢までが驚愕していた。あくまで表情には出さないが。
 斉木の手のひらで躍らされていること自体には、特に驚きはない。斉木は地力のある選手だ。代表に選ばれると言うことは、伊達や酔狂ではない。
 斉木はあくまで手堅く、冒険はしないゲームメイクをする選手として知られている。
 積み上げた練習の裏付けがある、堅実なプレースタイルが身上で、スーパープレーはないが、その代わり圧倒的にミスが少ない。
 それゆえ、神谷や加納などに比べて地味な印象がついて回ってしまうが、分かる人間には、あのミスの少なさはある意味でのスーパープレーなのだと理解できる。
 だが、今、斉木が見せるこのスタイルはどうだ。
 まるで神谷を彷彿とさせるほど攻撃的なスタイルを貫いている。
 斉木が神谷のプレーに溜め息を吐きながら、「でも、俺は絶対やらないけど」と呟くのを何度聞いたことか。
 事実、打つ手が全て当たっているからよいものの、薄氷の上を歩くようなプレーの連続であることは否めない。
 芹沢ですら驚いているのだ、他の選手が呑まれるのも当たり前だ。
 そうして芹沢は、斉木の考えをようやく理解した。
 本気で、今までの世界がひっくり返るほどのショックを与える気でいたのだ、斉木は。
 反発する気も起きないほどに。
 そして、その斉木の思惑と、寸分違わず事は進んでいる。
 その事実に、芹沢は驚きを通り越えて畏怖の念すら抱き、同時に自分が全く斉木を――斉木と言うプレイヤーを理解していなかったことを思い知らされる。
 神谷とも、内海とも違う、その統率力――魅力。
 それが斉木のプレイヤーとしての最大最強の武器だったのだ。
 それを、芹沢は初めて、そして完全に理解する。

 だが。
 斉木の存在を心強く思うその気持ちに、嘘はないのに。
 なのに。
 どこかで何かが、軋みを上げ続けていた――。