「よう、斉木」
ゼミへ行く途中で名前を呼ばれて振り向くと、元サッカー部員の同級生が駆け寄ってきた。
「久しぶり」
「これからゼミ?」
「そう」
正直、眉間の皺は深く消えることはなかったのだが、心配されたくないから、斉木は柔らかい表情を作ってみせる。
「斉木、どうなのよ」
「ん?」
「Jさ。オファー来てんだろ? どこへ行くんだって、噂になってるぜ」
つきり、と、胸が痛んだ。
彼は、おおらかで、いい奴だった。
しかし、サッカーを諦めた相手でもある。
スタメンはおろか、ベンチにも入れぬ自分の才能に見切りをつけて、2年で部を辞めたのだ。
そんなのは、一人ではない。毎年毎年、何人もの人間が入っては辞めて行く。2年と言うのは、多分粘った方だろう。
そういう人間を、斉木は数え切れないほど見てきた。
一歩間違えば、斉木だってそんな大勢の一人になっていたかもしれないのだ。
そして一度は、斉木自身が一人の人間をそういう立場に追いやろうとしたことさえある。
あの頃、斉木はまだ自分の才能と未来を無条件に信じていた。
だから、神谷を追いつめることも平気で出来た。
神谷の代わりなど、いくらでもいると思っていたから。
しかし。
斉木の鼻っ柱を粉々に打ち砕く人間が現れたのだ。
――久保嘉晴。
敵わないことは一目で分かった。
その敗北感は、加納に対して抱き続けているそれより大きかった。
しかしあまりの大きさに、最初から勝負を諦めることが出来た。
それに、一人ではサッカーは出来ない。
その隣に並ぶのに自分こそがふさわしいと信じた。
久保がいれば、加納を完膚なきまで叩き潰すことも容易い。
天下を取ることすら出来る、そう思った。
だが、久保が選んだのは神谷だった。
思いもしなかったのだ。久保にあの神谷がついて行けるなど。
自分さえ、ついて行けないのに。
疑問、それから憤り。
今でも生々しく思い出せるほど強烈な感情。
血が、逆流すると思った。
逆上する感情のままに、行動した。
欲しいものを欲しいと言って何が悪いと、自分は欲しいものを手に入れていい人間なのだと、信じていた。
そして。
目の前で、奇跡を見て。
その奇跡のきらめきだけを残して、久保は永遠に失われた。
もう二度と、自分達に奇跡を見せることはない。
久保が白血病を発病しながら、あの準決にこだわっていたと知った時、全身の血の気が引いた。
自分が殺したのではないか。
そう思った。
久保の死は、掛川に計り知れないダメージを与えたが、最後の対戦相手である斉木にも、暗い影を落としたのだ。
久保は命がけで何かをしようとした。
その『何か』は、多分、誰も知らない。
だが、確かに『何か』が一人一人の胸に残った。
残ってしまったのだ。
神谷だけではない。
斉木など、久保の目には入っていなかった可能性はすこぶる高い。
だが、その死によって。
久保は斉木をも呪縛したのだ。
死による呪いは、解きようのないものだと思っていた。
かけた本人は、解くための鍵を残していかなかったから。
神谷を憎しみと裏返しの愛情で想っても、けして消えることのなかった暗い影。
しかし、芹沢のそばにいた時は、その影を忘れていられた。
芹沢が忘れさせてくれたのだ。
「あ、悪ぃ、そろそろ行くわ」
「ん、ああ、すまん」
急に肩を叩かれて、斉木は我に返る。
「何が?」
「あ、いや、何でも…」
全くの無意識だったが、会話は成立していたらしい。相手は少しだけ不思議そうな顔をしたが、名前を呼ばれて慌てて言った。
「じゃあな、楽しみにしてるぜ」
斉木は無言で手を振って、背を向けた。
それからひそりと、小さな息を吐く。
芹沢と共にあったこの一年は、多分、斉木にとって、一番幸せな時期であったと思う。
芹沢は、斉木の憂鬱も鬱屈も、まるで魔法のように消してみせた。
驚かされることは多々あったけれども、結局はそれを自分は受け入れてきた。
無理をしていたのではない。
それはまるで空気のように、斉木の中に入り込んでいた。
思い返せば歓びばかりだ。
だが、もう二度と夢を見ることすら許されない。
きっと自分が悪かったのだ。
何が悪かったのかは、まだ分からない。
しばらく考えなければ、分からないのだろう。
そうして斉木は、心の中の暗い影を見る。
忘れていた影は、かつてより遥かに昏く、広さを増していた。
「ただいま」
暗闇の中に声をかけながら、玄関の照明をつける。そのまま脱衣所に直行し、手早くシャワーで、練習の汗を流した。
シャワーを浴び終えて、冷蔵庫からビールを取り出し、テレビの前のコタツに座る。
片手で器用にプルタブを開けながら、テレビをリモコンでつける。
ニュースか、連続もののドラマしかやっていない時間帯だった。
ドラマを見る気は起きなかった。結局、ニュースを選ぶ。
と言っても、気にかかるようなニュースはやっていない。だが、その内スポーツニュースが始まるだろう。
それまでビールを飲んで時間を潰す。
まるで仕事に疲れて返って来たサラリーマンのようだと、我ながら苦笑する。
本当は。
そう言う生活こそが自分にはふさわしいのではないかと、何度も考えた。
特に、芹沢のような『特別』がすぐ傍にいると、自分との違いを思い知らされてしまうのだ。
それでも、いくつかのオファーが来た。
正直を言えば、過ぎるほどの数だ。
斉木はサッカーを続けることについては迷えなかった。
だが、斉木の厳しい条件に合致するチームは、今のところない。そろそろ妥協も考えなければならない時期が来ていた。
しかし。もはや妥協も容易な気がする。
「ついてないよなあ」
数は来ていたのだが、実は、斉木の第1希望のチームからのオファーがなかったのだ。それが斉木が口を割らなかった最大の原因だった。
が、最もこだわっていた条件が消えてしまった。後は、それ以外の条件が一番いいところを選べばいい。
随分簡単な話になったものだ。
斉木は缶に残っていたビールを一気に呷った。
「ちくしょう、今日は飲むぞっ」
冷蔵庫で冷やしていた6缶パックを丸ごと取り出す。
前に自棄酒を呷ったのはいつだったろう。
以前には、よくあったことだ。
神谷を追い続けていた頃には。
芹沢と付き合い始めてからは、極端に減っていたが、また増えるだろう。
「ビールの買い置き、しとかないとな」
斉木は見たくないものから目をそらして、呟いた。
しばらくしてスポーツコーナーが始まった。
野球の後、サッカーの情報が入る。
いきなり、不機嫌そうな芹沢のアップが映って、思わずビールを噴き出しそうになった。
芹沢自身の映像は一瞬で消えた。被せられたナレーションは、正式な医師の診断を告げただけだ。
だが、あの一瞬の映像で視聴率が変わると言うことなのだろう。圧倒的に女性に偏った人気の割合は、芹沢と草薙が双璧だ。
これからも、度々芹沢の顔は見ることになるのだろう。
しかし、テレビの中の人物になってしまうのだろう、とも思う。
首尾よく斉木がJリーガーになれたとしても、どれだけ試合に出られるか分からないし、大体相手は海外だ。むしろテレビを始めとするマスコミへの露出は増えるだろうが、その距離はあまりに遠い。
それでも、サッカーを続けていれば。
いつかは、接点を持つこと出来るのではないか。
それがどれだけ先のことか分からないけれど。
その時に。
穏やかに笑い合えればいいと思う。
いつかまた、自分の傷が癒えて。
いや。
自分の傷を癒してくれたのは、芹沢だった。
芹沢は、形のないモノを沢山、斉木にくれた。
安らぎとか、幸せとか、人を愛する心とか。
そんな、目に見えなくても、大切なモノ。
芹沢がくれたものだから、別れなければならないのなら、返さなければならなかった。
返したくなどなかったけど。ずっと大事にしていたかったけど。
返せと言われてしまえば、返さない訳にはいかない。
その代わりにくれたモノは――。
斉木は無意識に唇に触れていたことに気がついた。
最後のキスの記憶。
キスをくれる芹沢に縋ってしまうのが怖くて、拒絶した。
行かないで欲しいなどと言っていいはずがない。
でもきっと、あのままだと口走ってしまった。
最後の最後まで、芹沢は斉木にいろんなモノを与えてくれた。
そこでふと、思う。
――俺は、芹沢に何を与えた…?
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