斉木は講義とゼミの間の待ち時間を、部室で潰していた。
運がいいことに誰もいない。
適当なパイプイスに座って、昨日からの命題を考え込む。
自分は、芹沢に沢山のモノをもらった。
ならば、自分は芹沢に一体何を与えたのか。
与えられたのか。
体なんて、与えたモノの数には入らないだろう。
芹沢だったら欲しがらなくても、芹沢の前に身を投げ出す女はそれこそ掃いて捨てるほどいるだろう。
しかし斉木は、男だから。
いくら芹沢でも、体を開くには抵抗があった。
それこそ男の沽券と言うヤツで、どこかで声高に主張する男のプライドをねじ伏せたのは確かだが。
それは斉木だけの問題だ。
――それ、以外。
一晩考え続けたが。
何も思いつかなかった。
芹沢に愛想をつかされるのも、致し方がないと思えた。
やっぱり自分が悪かったのだ。
誰に当たることすら出来ない。
「はあ…」
斉木は大きく息を吐いて、机になついた。
昨日の夜遅く、2本の電話があった。
1本は、内海からだった。
『決まったぜぇ』
さすがの内海の声が、心底弾んでいた。
それもそのはず、
『第一希望ゲットだぜ』
恐る恐る、頭に浮かんだチームの名を告げると、
『大当たり』
答える内海の言葉は明快だ。斉木は頭を殴られたような気がした。
更に続く言葉は、斉木と言う人間を理解している証拠だ。
『一発で当てたってことは、やっぱ被ってたか、第一希望』
そうだ、と、答えるのがやっとだった。
自分に声がかかる可能性がぐっと下がったことを理解しながら、表面だけでも平静を取り繕えるほど、今の斉木の精神状態はよろしくない。
すると。
『…ようやく一つ、お前に勝てたな』
内海は電話の向こうで呟いた。
内海もまた、いろいろな鬱屈を心に抱えていたのだと思い知る。
斉木がそうであるように。
いや、誰でもそうに違いない。
人として生きていく限り、逃れ得ぬ宿命だ。
――誰もが。
例え傍目にはどれほど恵まれていたとしても、もしくはそうであればあるほど。
心に抱える闇は深いのかもしれない。
そして人であるからこそ。
「まだ決まった訳じゃないさ」
斉木は言った。口元に笑みが浮かんでいることを自覚していた。
言い聞かせる。
誰よりも、自分自身に。
「まだ、可能性はゼロじゃない」
諦める訳にはいかないのだ。
サッカーまで諦めてしまったら、斉木には何も残らない。
そのせいで、砂を噛むことになったとしても、今よりも悪くはならないはずだ。
心の半分で生きている、自分。
失った半分を、取り戻すことは出来ないだろうが、残った半分でこれからの長い時を生きていかなければならない。
もう一度、めぐり会うために、生きていくのだ。
もう一度出会った時に、恥ずるところのないよう、一人で。
だから。
「サッカーは、諦めない。何があっても」
そう、呟く。
受話器の向こうから、微かな嘆息が聞こえたような気がした。
だが、次に聞こえた声は、内海独特のシニカルな言い回しだった。
『まあ、しつこいのがお前の取柄だし、いいんじゃねーの』
「人をヘビか何かみたいに言うなよ」
『そんな、ヘビなんかと一緒にしたら、ヘビに失礼だろ』
「内海…」
思わず、こめかみを押さえる。
『ま、そう言うこった。んじゃ、お前からの報告、待ってるぜ』
「ああ…」
と、言うだけ言って、斉木が言いかけているうちに通話が切れた。
「…ったく、あいかわらずだな」
斉木は苦笑して、携帯を充電器に戻した。
だが、斉木は知っている。アレが内海の心遣いであることを。
実際、助かったのだ。
内海からの電話がなかったら、今頃自分はどうしていたか。
もう一本の電話――。
内海の直前に、加納からの電話があったのだ。
よほど前回の電話が気にかかっていたようだった。
いつも通り単刀直入に、『どうなんだ』と聞かれた時の、あの胸を切り裂かれるような痛みを、きっと忘れることは出来ないと斉木は思う。
必死で、芹沢は軽傷で、しかも海外移籍は乗り気らしいと伝えたが、さすがに、泣き言が出た。
「しばらくは俺の前で、芹沢の名前を出さないでくれ…」
ニュースで一瞬見るだけでも辛いのだ。
芹沢を話題にする気にはなれない。
傷を癒すどころか。
斉木はまだ痛みから逃げ回ることしかできなかった。
傷から目をそらして、耳をふさぎ、避けることでしか。
心を守れないと、斉木は理解していた。
今は、まだ。
それでも生きていかなければならないから、いつかは振り返れるようになるのかもしれないが。
まだあまりにも、生々しすぎる。
少しの間でいい。
もう少しだけ、放っておいて欲しかった。
だが。
『…悪い癖だな』
加納が、言った。
「何が」
思わず、言い返す。
『斉木は人のことばかり考えて、何でも分かっているフリをして、すぐに諦めたフリをする』
その言葉は、斉木の急所を直撃した。
ほとんどの場合において必要最低限しかしゃべらない加納の言葉は、いつも核心を突いてくる。
けれど、何も弱り切っている今、言わないでくれてもいいだろう、と、思う。
そんなことは、自分が一番知っている。
「うるさいっ、お前に何が分かる!」
思わず斉木は怒鳴りつけていた。
八つ当たりだと言う自覚があっても、止められなかった。
「振られたこともない、お前なんかに、何が…!」
男同士で恋愛などして、でも、それを世間に知られる訳にはいかず、必死で隠して。
いろいろと不都合はあった。普通に異性と恋愛していたなら気を使う必要もないことにたくさん心を砕いて。
しかも相手は、そんな斉木の心遣いなど鼻先でせせら笑って踏み潰して歩くような人間だった。肝が冷えたことは一度や二度ではない。
それでも、そんなに振り回されても付き合い続けたのは、斉木自身が離れがたく思っていたからだ。
どちらが言い出したとか、きっかけなどは関係なくて。
自分が、愛したから。
今だって、愛している。
なのに振られてしまったのだ。
斉木にはどうしようもない。
分かろうが分かるまいが諦められなかろうが、受け入れたフリをしなくてはいけないのだ。
受け入れられていないのも、分かっている。
だから八つ当たりなどする。
加納は、自分達のことを知っていて、口が堅いことにかけては信用が置ける数少ない人間だから、自分は甘えているのだ。
そこに至って、斉木はようやく口を閉じた。
少しの沈黙の後、言葉を絞り出す。
「…すまん」
『斉木は、それでいいのか』
だが、加納はそれで終わりにはしてくれなかった。
「よくなんかない。でも、本当に嫌われたく、ないんだ…」
押し隠し続けていた本音が零れる。
「無様を晒して呆れられたら、もう本当に二度と顔を合わせられない。アイツ、みっともないのは嫌いだから。それだけは、嫌なんだ」
自分で言って、泣きたいほど情けなくなる。
だが、それが真実だ。
今でも、人間性まで嫌われたとは思いたくなかった。
加納は静かに斉木を追いつめる。
『本当に芹沢がそう言ったのか?』
意外そうな口振りだった。しかし斉木にしてみれば、そんなことを確認される方が意外だ。
「聞くまでもないだろ。…それに、もう何も聞けない」
遅いんだ、と、斉木が呟くと、加納ははっきりとため息をついた。
「何…」
『いや………』
そのまま、加納は黙り込んでしまった。
たっぷり一分沈黙が続いて、耐え切れなくなった斉木が、
「加納?」
と、問うと、加納は全く脈絡のないことを言い出した。
『…俺が振られたことがない、と、本気で思っているのか?』
「は?」
『さすがに、ショックだな、それは…』
少し加納の声がかげりを帯びた。斉木は疑問に思いながらも、慌てて詫びる。
「すまん、ついカッとして、心にもないことを」
『まあ、俺のことはいいが』
加納は、続く言葉を遮るように告げた。
『少し、自分のことも考えてやれ』
「そんなこと」
『後悔だけはするな』
それじゃ、と言って、電話は切れた。勝手にもほどがある。相手が加納でなければ、リダイヤルして苦情を申し述べているところだ。
しかし、相手が加納では、電話で言うだけ無駄だと分かっているから、諦めた。
「勝手なことを…」
後悔なんてもうしてる。
いや、これまでの斉木の人生、節々で後悔している気がする。
「俺だって、好きで後悔なんかしてる訳じゃない…」
そんなもの、しないで済むならその方がいいに決まっている。
でも、いつもいつも、そういう道ばかりを選んでしまう。
目頭は熱くなるが、涙は出なかった――。
「はあ…」
斉木は机に突っ伏して、頭を抱えた。
一応、考えたのだ。
考えた挙げ句の結論が『自業自得』である。
「救いようがない…」
後はため息をつくぐらいしか思いつかない。
時間が全てを解決してくれる訳ではないが、時間の経過が痛みや悲しみを薄めて行くことも事実である。
だが。
何もかも忘れることなど、出来はしない。
記憶が幸せであればあるほど、現在が辛いのは事実だが。
幸せだった日々までも忘却の彼方に葬り去ることなど、出来ない。
内海の言う通り、自分はしつこい性分なのだ。どこまでも未練を引きずって歩いている。
みっともないことこの上ない。
しかし時間を過去へ戻すことは出来ないのだから、未練を引きずり回しながらでも、前へ進むしかない。
そうは分かっているものの。
「ああ、もうっ」
斉木は髪をかきむしる。
やはりため息は出る。
と、その瞬間、
「あら、こんなところにいたの?」
突然、背後のドアが開いて、斉木は思わず背筋を伸ばした。
慌てて振り返ると、確認するまでもなく成美がにこやかに微笑んでいた。
そして、
「…何だかダメージ食らってるみたい、ね」
一番言われたくないことを、小首を傾げて微かに上目遣いなどして言ってくれる。
確かに、見た目だけなら眼福ものだとは、分かっている。
斉木以外には天使のようとまで形容される成美であったが、斉木にとっては、小悪魔以外の何者でもない存在だった。
それも致し方あるまい。
誰も恐ろしくて声をかけられなかった斉木を、平然と呼びかけ、一番言われたくないと思っていることを的確に突いてくれるのだから。
「なあに、犬も食わない奴でもやってるの?」
だが、今の斉木には、そのジョークを受け止める余裕は小指の指先ほども持ち合わせていない。
「桜井…」
いつになく、荒んだ声を斉木は絞り出した。
「悪いが、つまらない冗談に付き合う気はないんだ」
部室でも邪魔されるとなれば、後は図書館ぐらいしか行く場所はないかと、斉木が成美を押しのけようとしたその時に、
「あ、そうだったわ、ごめんごめん」
と、成美は殊更に明るい声を出して、斉木の肩を叩いたのだ。
斉木とて、伊達に猛者共を束ねてキャプテンなどやっている訳ではないのだ。その気になってにらめば、いくらでも迫力などついてくる。
しかし、成美は何事も起こっていないかのように、言ってのけた。
「サッカー部の人達が斉木君を探してたわよ」
「…何で」
「学長室に来てくれって。新しいオファー、とか何とか、言ってたけど」
「そういうことは早く言え!」
斉木は、慌てて荷物をまとめた。
いつもならちゃんと整理しているバッグの中に、手当たり次第突っ込む。
「あらぁ、せっかく探してあげたのに。ご挨拶ね」
こめかみに青筋が立たんばかりの斉木に向かって、成美は何もかも知っているような顔をして笑う。
「お礼は、後でいいからね」
「知るかっ」
神経などとっくの昔に焼き切れている斉木は、天使の笑顔でひらひらと手を振る成美へ恐れ知らずにも吐き捨てて、部室を飛び出した。
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