どうしてあんなことを言ってしまったのだろう――










 いや、言わなければならなかったのだ。










 言わなかったら。















 自分は――。



















 きっかけは、どちらだったのだろう。
 目の前の女に名前を呼ばれたせいか。
 それとも、手にしたグラスの中で崩れた氷の立てた音のせいか。





 まあ、どちらでもよいことではあった。
 現実に引き戻されて、芹沢は救われた思いがする一方で、不愉快だと感じる事実には、変わりがなかったから。





「どうしたんですかぁ? つまんない顔してるぅ」
 馴れ馴れしく話し掛けてくる女は、美人ではあったが、芹沢ぐらいになると美人だけではありがたがらない。
 そもそも、芹沢に粉かけてくるような女は、大概美人なのである。
 と言うか、よほど自分に自信のある女でなければ、芹沢に粉をかけるのは勇気がいる。
 音に聞こえた漁色家で、かつ、浮名を流した相手は、ほとんどが女優やモデルである。
 おかげさまで美人が普通――世の男共からしたら、ぶざけるな、と、一言言わずにはいられない審美眼だが、事実なのだから仕方がない。
 とにかく、今、目の前にいるのは、芹沢にしてみれば取りたてるものもない、ごく普通の美人だった。
 以前なら、それでよかった。
 隣に置いておいて、そう激しく見劣りしない程度――芹沢と見た目で対を張れる人間はそういない――の、女。
 アクセサリーだ。
「そりゃあ、つまんないに決まってるだろ」
 芹沢は、舞台俳優のように軽く肩をすくめて見せる。
「この俺がいるってのに、誰も寄って来やしない」
 本当は知っている。
 多分、この女が芹沢に会わせろと言っていたはずの合コンの幹事なのだろう。他の女は、この女に遠慮して芹沢に近寄らないようにしているのだ。
「あら、ごめんなさい」
 しかして、女は慌てたように言った。
「じゃあ、あたしでもいいかしら」
「ああ――」
 別に何でもいいのだと、その言葉を芹沢は飲み込んだ。
「あたし、――って言います。よろしくぅ」
 名乗られた名前は、右から左に聞き流した。
 何だって、同じだ。
 それが一番欲しいものでないのなら。
 いや、後腐れがない方がよりいいが。
 もう、本気になることなど、ないのだから。
 芹沢は、グラスを通して隣に陣取った女を見定める。
「あたし、もうすっごいファンなんですよぉ」
「へえ、誰の?」
「もちろん、芹沢さんですよぉ」
 女は言いながら、露骨な色目を使ってくる。
「実は、どうしても芹沢さんに会いたいって、ダメ元で言ったの」
 と、女は首を45度に傾げた。多分、その角度が一番魅力的に映るのだと信じている、完全なしぐさと表情だった。
「で、会ってどう思った」
 しかし、全く感銘も受けずに、芹沢は切り返す。
「もうっ、全然テレビで見てるよりかっこいいっ。惚れ直しちゃったぁ」
「当然だな」
 芹沢は、軽く唇の端だけで笑った。
 これも、ある種の人間には、効き目があると知っていて。
「テレビなんかでこの俺の魅力が全部伝わるもんか」
「ホント、そう思うわぁ」
 女は、セオリー通りに芹沢の目を見たままうなずいた。
「そう言えば、ケガしちゃったんですよねぇ。どうなんですか?」
「たいしたことねーよ。次の試合には、出られるんじゃねーの」
「だったら、次の試合、あたし絶対応援に行きますぅ」
「へえ、次の試合なんだ」
 何もかも見通して、芹沢は誘いをかける。
「その前に、練習に付き合えよ」
 言葉遊びと知っていて。
「え、あたしなんか、全然ダメよぉ」
「何だ、そうか。じゃあ別の…」
「あ。うそうそっ。…ホントにあたしでいいの?」
「十分だろ」
 ゲームなら。
 恋愛を演じて。
 持て余す野蛮な欲望のはけ口になれば、それで。



 芹沢は、ネコ科の猛獣の笑みを浮かべた。
 失敗するはずがなかった。
 誘われたがっている女を、誘われたいように誘ってやっただけなのだから。
 口先の駆け引き。
 一夜のゲームに過ぎない。
 芹沢にとっても、目の前の女にとっても。



 さほど経たぬ内に芹沢は消えたが、誰も気にも留めなかった。




















 どれほど野蛮な欲望を吐き出しても。
 心の底に、暗い澱が積み重なる。
 ただ一つのベクトルを持った思いは、目標を見失って迷走する。










 一体、何処に辿り着くのだろう――。















 目覚めの気分は最悪だった。
 さほど飲みすぎたはずもないが、二日酔いのように気分が悪い。
 ――理由は、分かっているけれど。
 芹沢は、ベッドの上で半身を起こす。
 長い前髪をかきあげて、太い息を吐いた。
 隣で寝ている女は、起きる気配もない。
 とりあえず、見たこともない、と思うほど、ひどい素顔ではなかった。
 むしろ、素顔もかなりのレベルだったが、芹沢には何の感慨もない。
 まるで存在そのものがないようなそぶりで、芹沢はシャワールームに入る。

 芹沢は念入りに体を洗った。
 だが、その事実に気がついたのは、皮膚のひりつきによってだ。
 濡れた髪を乱暴にかきあげる。自嘲の笑みが、口元を歪ませる。
 どんなに擦ったところで、落ちるはずもない汚れが、芹沢には纏わりついている。
 汚れていく、自分。
 汚していく、自分。
 いくら一番大切だったものを失ったとて、こうもすぐにどうでもいい女を抱ける自分。
 一瞬だって、自分を誤魔化せはしないのに。





 最初から、間違いだったのかもしれない。
 全然、自分は、ふさわしくなんかない。





 斉木は、強い生き物だ。
 自分の足で、どこまでも強く歩いて行く。
 その歩みが、止まることはない。
 どんなに抱いて、体を支配したとしても。
 心は、真っ直ぐに歩いて行く。
 けして汚れることはない。
 汚して暗い澱みに引きずり込むことは出来ない。
 太陽のような、その質。





 芹沢がシャワールームから出てきても、薄暗い部屋の中でまだ女は寝ていた。
 その寝顔に、芹沢は初めて眉をひそめた。
 まるで、汚れそのものを見ているような気になった。
 遊びだと分かっていて、芹沢に身を任せる女。
 そんな女を抱く芹沢。
 どちらも、どうしようもなく汚らしいものに思えた。
 起きる気配がないのは、むしろ好都合だったかもしれない。
 芹沢は、二泊分を支払って、一人でホテルを出た。




















 電話がつながらない――。
 冷たい機械の声にも斉木は鋭く舌打ちして、メッセージも残さずに携帯を切った。
 いつかけても、留守電だ。それは、携帯だけでなく、マンションの電話もそうで。
 これまでに散々メッセージは入れたのだ。
 だが、一度も返ってこない。
 芹沢は、電話に出てくれない。
 当たり前だと言われるかも知れないけれど、斉木は、どうしても、一言伝えたかった。
 電話に出てくれないのならと、マンションまで出向きもした。
 だが、芹沢はここのところマンションに寄り付きもしていないらしい。
 一ヶ月ぐらいは日替わりで別の女の部屋に転がり込むのも容易な男である。
 実際、少しの間――あくまで斉木の感覚である――、待ってみたのだが、帰って来る気配もなかった。

 こんなにも、斉木は伝えたいと思っているのに。
 それが単なるエゴだと分かっていても。

 だが、すでに自分は凄まじいエゴイストなのだと自覚してしまった今の斉木には、怖いものなどない。
 決まったのだ、来年所属すべきチームが。
 ほぼ諦めていた時に降って涌いた第一志望のチームからのオファー。
 結局、斉木はそれまでの逡巡ぶりからは信じられないほど、あっという間に決めてしまった。
 正に土壇場の逆転サヨナラホームランである。
 確かに、一番条件が合致しているチームだったけれど、それまで、難しいことを並べ立て、決して首を縦に振らなかった。
 だが、諦めかけていたエサを投げ与えられて、斉木は形振り構わず飛びついた。
 その事実に、斉木は悟ったのだ。
 自分はただのエゴイストではなく、とんでもないエゴイストなのだと。
 改めて、自覚したと言ってもいいかもしれない。
 そして、思ったのだ。
 芹沢に伝えたいと――。
 誰よりも先に。
 もちろん、斉木へのオファーに、すでに内定していた内海が何らか関わっていることは、斉木も理解している。多分、内海が何か水を向けるようなことを、スカウトやフロントに吹き込んだのだろう。
 直接聞いたところで、あの内海が素直に答える訳はないが。
 しかし、内海への感謝は忘れはしないが、本来であれば真っ先に連絡しなければならないだろう内海よりも先に、芹沢に言いたかったのだ。
 ヨリを戻すとか戻さないとかは全く別問題だ。
 例え、どれほど斉木がエゴイストで、ヨリを戻したいと思っていても、こればかりは芹沢の気持ち一つである。
 斉木がどんなに言葉を尽くそうとも、どうにもならない時はどうにもならないだろう。
 ただ。
 斉木は思う。
 多分、自分はヨリを戻したがっているのだと。
 でなければ、芹沢へ最初に知らせたいなどと思うはずもない。
 元々、きれいさっぱり諦められたとは、言い難かったのだから。



 醜い、と思う。



 自分は、いつだって、何もかも、諦められない。
 諦められないのは勝手だが、いつでも他人を巻き込んでしまう。
 今度だってそうだ。
 一体どれだけの人間に迷惑をかけたのだろう。





 ――そこまで分かっていても。





 斉木は諦められない。
 救いがないエゴイストだ。
 そうやって、いつもいつも、失敗を重ねる。










 いつも――。









 神谷も。
 久保も。










 取り返しのつかないほどの、傷を、つけて。










 その罪の重さを、今は知っている。
 償うことの出来ない罪。
 世の中には確かに存在する。










 その罪の重さを知りながら、自分は同じ過ちを犯そうとしているのかも知れない。
 だが、愛しているのだ、まだ。
 思うのは、ただ一つの言葉。






 ――会いたい。





 もう一度会って、やり直せるのなら、今度はきっと自分に与えられるものなら全て与えて。
 だから。
 もう一度だけ。
 チャンスが欲しい。
 もしもそれでダメなら、今度こそきっぱり諦めるから。



 エゴ、だ。



 自分が楽になりたいばかりに。
 愛しているなどと言いながら、当の芹沢が被る迷惑にも、目をつぶろうとしている極めつけの卑怯者だ。
 斉木は、自宅とサッカー関係以外の芹沢の立ち回り先すら、本当に知らなかったのだと、ようやく気がついていたのだから。
 電話がつながらず、マンションにも帰って来ずとなると、後はクラブの練習場か、試合か。
 でもそんなところで芹沢に近寄れないのは分かっている。
 お供のようにマスコミが群がる芹沢に今まで斉木が近くに寄れたのは、それこそ芹沢にその気があったからだ。
 まして海外移籍が決まりかけているのなら、降るような取材攻勢で、斉木の入る隙などなかろう。
 それ、以外。
 斉木は、全然知らなかったのだ。
 芹沢の遊び場を。
 一緒にいたのに。
 一年も。
 連れて行こうとはしなかった、芹沢。
 訊ねもしなかった、自分。
 その意味に、斉木は身震いする。
 斉木自身は、あまり芹沢の過去を詳しく知りたいとは思わなかったせいもある。
 芹沢が浮名を流した女性達と行った店など、考えたくもなかった。
 彼女達と自分を比べて、不安になるのが関の山だと、知っていたから。
 だが、芹沢は。
 今ごろ、教えなくてよかったと思っているのかも知れない。
 そう芹沢が考えないと思う裏づけを、斉木は持っていない。
 そしてまた、そういった芹沢の遊び場を知っている友人なども、斉木はものの見事に知らなかったのだ。
 隠していたのだと、考えるのが妥当である。





 分かっているのに。





 諦められない。
 だから。
 斉木は、表情の消え去った顔で、携帯のディスプレイに一つの番号を呼び出す。
 そして、ためらいなく通話ボタンを押した。
 2度のコールで相手が出た。
「夜遅くに済まない…」
 それだけで、相手は斉木だと気がついてくれた。
 少しだけ、視線が遠くなる。
「もしも、芹沢がよく行く店とか知っていたら、教えてくれないか」





 一瞬、息を止めて、斉木は相手の名を呼んだ。















「神谷」
















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