芹沢は、しっかりした造りの木のドアを開け、その店に入った。
 チリン、と、高く澄んだベルの音が響く。
 その音が鳴り止む前に、芹沢は彼女の姿を、カウンターに見つけた。
 が。
 ――来るんじゃなかった…。
 思わず、後悔した。
「芹沢君」
 ココ、ココ、と、笑顔で自分の隣の座席を叩く彼女の目は、笑っていなかった。
 回れ右などしようものなら、水ぐらいはぶっ掛けられそうだ。
 マスターは、何も言わずに『いつもの』を作っている最中だ。
 全ては、後の祭りである。










 「遅かったわね」
 貸し切り状態の店の中で、諦めて、カウンター席に座った芹沢に、彼女は開口一番言い放った。
 その声には、明らかに非難の響きが含まれている。
 チラ、と、見やると、ブラッディマリーのグラスに口をつけながら、目だけで芹沢を見ていた。ちなみに彼女は、本当の底無しである。
 実際、ただのトマトジュースでも飲んでいるかのようにグラスを開けたが、その目に、酔いの膜がかかる気配もない。
 退路は、この店のドアを開けた時点で、断たれていたらしい。
「しょうがないだろ、野暮用があったんだから」
 芹沢は、いつものジントニックで唇を湿しながら、そっけなく答えた。
「ふうん、野暮用ねえ」
 彼女は、せせら笑うように言った。
「そんなに移り香プンプンさせて、どこの女の部屋に転がり込んでた訳」
 まあ、その移り香の強さからして、少なくとも趣味のいい女じゃないわね、と、スタイリストが本職の彼女は決め付けた。
「あんたに報告する義務はないな」
 芹沢も、負けず鼻先で笑って言う。
 昔に逆戻りだ、と、芹沢はちらりと思う。
 自分で選んだことだった。
「別に、報告して欲しい訳じゃないけどね」
「だったら、いいだろ。何だって」
 芹沢は、一気にグラスを飲み干した。
 味など、分からなかったが。
「今、俺はここにいる。それで、充分だろ」
「でも、最近ずいぶんお痛が過ぎてるみたいじゃない」
「おせっかいな女だな…」
 芹沢は次のグラスを注文しながら、大袈裟に肩を竦めてみせた。
「あたしだって、好きで知った訳じゃないわよ。知りたくもないのに周囲が吹き込んでくれるんだからしょうがないじゃない」
 彼女は、居直るように胸を張った。
「何にしろ、余計なお世話だ」
 マスターにグラスを差し出されたのをいいことに、芹沢は視線をそらして言った。
「あんたには、関係ない」
「関係なくはないわね」
「何で」
「してあげたでしょ、身代わり」
 ずきんと、胸が痛んだ。
 どうしてこう遠慮もなく急所を攻撃してくれるのか。
 もう少しデリカシーとかないのか。
 言下に答える。
「してねーよ、身代わりなんて」
「しらじらしい」
 彼女の目尻に、剣呑な光がかすめた。
「ならねえんだよ」
 本当のことだ。
 彼の代わりなんて、いない。
「大声で言ってやろうかしら」
「言えば」
「かわいくないわねえ」
 はあっ、と、彼女は大きな溜め息を吐いた。
「あたしは、まことちゃんはどうしたのって言ってるのよ」
「終わったんだよ」
 芹沢は、平静を装って言った。
「終わったぁ?」
 彼女は、これ見よがしに声をひっくり返らせた。
「何だ、振られたのね」
 だからヤケになってる訳だ、と、勝手に納得する彼女を芹沢は本気で睨み付けた。
「どうして俺が振られるよ。振ってやったんだよ、俺が」
 そう、終わらせたのだ、自分が。
 芹沢は、また一気に飲んだ。
 飲まずには、いられなかった。
「もういらないって、言ったんだ」
 自分から、言わなければ。
 振り放されたら、けして自分は、手を離すことなど、出来ないから。
 彼の意志も望みも、全て押し潰してしまうだろうから。



 もしも彼から、別れを告げられたら。
 自分は、きっと、彼を壊してしまう。



 「どうせ海外行くし。女なんて、何でもいいんだ」
 それは本心だ。
 そう簡単には帰って来られないほどの距離を置けば、諦めるしかない。
 彼でないのなら、女なんて、本当になんでもよかった。その上、物心ついて以来、女には困ったことのない身の上である。





 どんな女と夜を過ごそうとも、日々荒んで行く己の心は、持て余すばかりだったが。





 芹沢は、また新しいグラスを受け取った。
 その中身を呷ろうとして、腕をつかまれた。
 大きく手元が揺れて、グラスの中身の半分が、カウンターにこぼれた。
 ジンの強い匂いが、鼻をついた。
「何、する…」
 芹沢は、最後まで言えなかった。
 彼女は、言った。
「バッカじゃないの!?」
 それこそ遠慮のかけらもない声の調子に、芹沢は一瞬絶句する。
 その間に、彼女は芹沢の上着に手をかけた。
「何すんだよっ」
 懐を探られて、思わず体を捻る。が、問答無用で襟を引き戻された。
「携帯貸しなさい!」
「自分の使えよっ」
「バカね、あたしのじゃ番号入ってないでしょっ」
「は?」
「まことちゃんに電話すんのよ」
 とんでもないことを、言われた。大体どうやって。
「何でだよ! 大体本名知らないだろ!」
「構わないわよ、上から順番にかけるから! どうせ芹沢君のことだから、一番に登録してあるんでしょうけどっ」
 それは事実である。
 芹沢と言う人間をよく理解した、非常に鋭い意見であった。
 しかも芹沢は、メモリは元より、着信の履歴からさえ、斉木の番号を消せないでいたのである。
 何度も、かかってきているのは知っている。
 だが、応じることは出来なかった。
 応じてしまえば、自分は斉木を捕まえに行ってしまう。
 未練を残しているのは、自分の方だから。
 捕まえて、自分の足元に縛りつけて。
 斉木の未来さえも、摘み取りかねない。
 それぐらいのことはやってのける自信があった。
 だから。
 図星を刺されて、芹沢の頭に血が昇る。
 しかも、彼女は必死で自分を制していた芹沢を、容赦なく追いつめた。
「ホント、バカだバカだとは思ってたけど、ここまでバカだとは思わなかったわよ!」
「何だと! もう一度言ってみろ!」
「言ってやるわよ、あんた、大バカよね!」
「この女…つけあがってんじゃねえぞ」
 芹沢の声が地を這った。だが逆に、その押さえた調子が、芹沢の怒りを表していた。
 追いつめられた鼠は、猫も噛む。
 しかし、彼女は止めなかった。
「バカだからバカって言ってるんでしょ! 何よ、その顔!」
「黙れよ!」
 ガタン、と、芹沢は席を立った。
 プロ選手の中でも、ズバ抜けた長身を誇る芹沢が立ち上がると、それだけで威圧感がある。
 しかも、その目は怒りに燃えていた。
 自覚している傷口を、更に抉られたための怒りだ。
 何かに怒りを向けなければ耐えられないほどの痛みに、理性のタガが飛んでいた。
 芹沢さん、と、それまで黙っていたマスターが声をかけたが、今の芹沢を止めるには及ばない。
 恐らく分かっているだろうに、彼女は言った。
「黙らないわよ! 何よ、そんな顔して…何が振った、よ。ふざけないでよ」
「黙れ!」
「芹沢さん!」










「だったら何で、そんな泣きそうな顔してんのよ!」
















 とどめだった――。















 芹沢は、無意識に右手を振り上げた。
 彼女が頭を抱えて庇う素振りを見せた。
 それすらも、気に障った。
 振り下ろそうと、した、その時。





 バタンと、この店にはふさわしくない勢いで、入り口のドアが開いた。
 反射で振り返り――芹沢の、動きが止まった。














「斉木、さん?」









 芹沢は、無意識のうちにその名を紡いでいた。





NEXT

PREV



■ Serisai-index ■

■ site map ■
















CopyRight©2000-2002 夕日 All rights reserved