「お前、こういう車が趣味だったんだな」
斉木は、会話の糸口を探して呟いた。
「そうっすね。車高が高いじゃないっすか。だから、運転してて遠くまで見えて、結構気分いいんすよ」
「そうだな、確かに」
斉木は助手席からフロントガラスの向こうを見る。
夜の闇の中でも、ヘッドライトに照らされた道路が、かなり遠くまで見える。
助手席から見た景色の印象は、もっと低くて、斉木は違和感を感じる。
その視界は、芹沢の車から見たそれだと思い至って、斉木は唇を噛んだ。
分かったから、今、ここにいるのだけれど。
分かっているから、気が焦る。
どうかいてくれと、願う。
「どうしましたか」
運転する神谷に問われて、我に返る。
斉木は、微かに首を横に振った。
「いや、何でも」
信じられてはいないと、承知で。
だが、神谷はそれ以上追求しようとはしなかった。
そもそも、斉木に視線さえ投げてはいなかった。
斉木は心の中で自分に言い聞かせる。気を抜きすぎては、いけない。
どうして神谷と二人で深夜のドライブをしているのかと言えば、神谷の申し出によるものだ。
芹沢の立ち回りそうなところを知らないか、と言う、斉木の問いに。
『一ヶ所だけ、心当たりがありますよ』
と、神谷はあっさり言ってくれた。
チームの打ち上げか何かの飲み会中に、芹沢にムリヤリ紹介させた店があるのだと言う。洒落たバーだったが、すでに出来上がったチームご一行様はご乱行を働きまくり、出入り禁止にされたらどうしてくれると、芹沢が怒ったと言う逸話つきで教えてくれた。
『かなり行き着けの店っぽかったですよ。俺も、そこ以外は知らないですけど』
あいつは、あんまりプライベートではチームと関わりたがらないから、と、自分もそうである神谷は何事でもないように言った。
その後、店の住所を聞いて、斉木は呟いた。
『これは、タクシー呼んだ方がいいかもな』
『車、持ってたでしょ、斉木さん』
足がない訳ではない。斉木も中古だが車は持っている。もっとも、ここ一年ほどは埃をかぶっていることが多かったが。
『いや、土地勘がないんだよ、その辺りに』
全く土地勘がないところ、しかも夜中である。下手をすると、今晩中にも辿り着けない危険性がある。それだったら、かなり痛い出費ではあるが、タクシーを呼んだ方が確実だと思われた。
ところが。
『だったら俺が車出しましょうか。一回行ってるから、分かりますよ』
神谷が、自ら申し出てくれたのだ。
しかし、いろいろと負い目も隠し事もある斉木としては一応謝絶したのだが。
『タクシーが斉木さんちまで行くの待ってる時間も惜しいでしょう』
と、電話の向こうで動き出す気配がした。
『すぐ行きますから、待っててください』
神谷の声に重なるように、ドアを閉める音が聞こえた。
『おい、神谷…』
神谷は斉木の静止には答えず、そして今、斉木は神谷の助手席に納まっている。
「…大丈夫ですか」
気を、抜いてはいけないと思ったそばから不審の声をかけられて、斉木は、微苦笑した。
学習能力がなさ過ぎる。
「すまん。少し考え事をしていたんだ」
何を、と、聞かれると思っていた。
だから斉木は、その問いには模範解答を用意していた。
だが。
神谷は、予想外のことを呟いた。
「あんた、変わりましたよね」
「は?」
あまりにも予想外の言葉に、斉木は思わず間抜けな声を出した。
「俺の知ってた斉木さんは、そんな風には答えなかったでしょうね」
神谷は、斉木の内心に忖度することなく、言葉を紡ぐ。
斉木は、神谷の意図が飲み込めなかった。
「俺が…?」
自然に、苦笑いの表情になった。
「お前には、一番言われたくないかも知れないな、そのセリフは」
「どうしてですか?」
神谷は、前を見たまま――運転しているのだから当たり前だが――言った。
「どうしてって、お前こそ…」
斉木は、変わったじゃないか、とは言えなかった。
「俺は変わっちゃいませんよ。何一つ」
まるで斉木の考えを読んだかのように、神谷は斉木の語尾を引っ手繰って、強く言った。
「俺は何も変わってない。もしも変わったと思うなら」
「神谷」
「それは、あんたが変わったから、そう見えるだけだ」
斉木には、いきなりそんなことを言い出した神谷の意図が、全く理解できなかった。
困惑。
戸惑い。
どう答えていいものやらも、分からない。
だから、沈黙する以外になかった。
しかし神谷は、構わなかった。
「あんたは、昔、欲しいものは欲しいって言う人だった。それがいつの間にやらそんな謙虚になったんです?」
「はあ?」
一体、どういう論理の飛躍なのだろう。
全く斉木はついていけない。
だが。
欲しいものを欲しいと言わなくなったのは。
「それは…」
言えなくなったのは。
「…分かってますけどね。あんたをそうしてしまった責任が、俺達にもあることぐらいは」
斉木の思いを知ってか、知らずか。
神谷はさらりと言った。
弾かれたように斉木は神谷を見たが、その横顔は何の感情も表していない。
ただ、淡々と語るのみ。
「でも、全部じゃない。ほとんどは、あんたの問題だ」
きっぱりと、神谷は言う。
「100%、誰かの責任に出来れば楽でしょうけどね。そんなことは、ありえない」
「何が…言いたい」
斉木のうなるような問いにも、神谷は動じない。
「言った、そのままですよ」
むしろ人をくったようにも思えるほど、そっけなく答えた。
斉木は、慎重になる。
「分からないな、お前の言いたいことが」
「分からないなら別にいいですけどね。…俺もただ、変わったと、思っただけだから」
神谷の表情は変わらなかったが、斉木は、何故か神谷が笑っているような気がした。
「俺は、変わることは悪いことじゃないと思うから。自分の気持ち一つで、変わってしまうもんだろうし」
「でもお前は…変わってないって言った」
「ええ、俺は変わってないですよ。何、一つね」
禅問答のようだった。
斉木は、大きなため息をつく。
「分からん…」
神谷が、笑う。声を立てずに、口元だけで。
その笑みに。
「神谷…」
途方に暮れた斉木が尋ねようとした瞬間、神谷が大きくハンドルを切った。
「うわっ」
それから、程なくして狭い道路の路肩で車が止まる。
「その路地を入って、左手3軒目の店ですよ」
一瞬、分からなかったが、すぐにそれが神谷の心当たりだと、気づく。
「ああ、すまん…」
「じゃあ、俺はこれで」
神谷は、斉木が降りるとすぐに車を出すつもりのようだった。
「帰りは、芹沢に送らせてください」
「当たりなら、な」
「多分、大丈夫ですよ」
神谷は、最後に爆弾を投げつけた。
「その店、あいつがとっかえひっかえ女を連れて行くんで有名な店なんで」
「な…」
「会ったら、一発説教でもかましてやってください。あんたに雷でも落とされれば、あいつもちったあ締まるでしょう」
それじゃ、と、呆然とする斉木を残して、神谷は車ごと走り去ってしまった。
しばらく、斉木は立ち尽くした。
もしかしたら、一番見たくなかったものを、自分は見ることになるのかも知れない。
恐怖が斉木の心臓を鷲掴みにする。
でも。
覚悟を決めたことだから。
欲しいのだと。
欲しいものを欲しいと言うのだと。
自分で決めたのだ。
斉木は、立ち向かわなければならない。
斉木は言われた通りに、路地へ入って、その店の前に立った。
しっかりした造りの木の扉の前に立って、深呼吸する。
「決めたんだから、自分で」
誰に言われた訳でもなく、自分で決めたことだ。
斉木は、ドアノブに手をかけ、もう一度深く息をした。
それから、思い切りよくドアを開けた。
「斉木、さん?」
芹沢は、呆然と斉木を見、呟いた。確かに。
斉木はまっすぐに芹沢を見た。
目が、あった。
芹沢は右手を振り上げたまま、凍りついたように動かない。
肩越しに振り返る芹沢の前には、頭を庇うように抱えた女がいる。
しかも、かなりの美人である。
どう見ても痴話喧嘩にしか見えない光景に、斉木は一瞬、理性を手放しかけたが、かろうじて踏みとどまった。
今はそんな場合ではない。
それでも、湧き上がるどす黒い感情はどうしようもなくて。
斉木は必死で自制する。
本当は一目散に逃げ出してしまいたかったけど。
そうしたら、全て終わりだ。
斉木は、ツカツカと芹沢に歩み寄り、振り上げたままの右腕をつかんだ。
「暴力沙汰を起こすつもりか」
その言葉に反応したのは、芹沢よりも女が先だった。
「ありがと。助かったわ」
頭を庇っていた腕を下ろして笑った女は、やっぱり美人で、斉木の胸がきりりと痛んだ。
「まあ、もし殴られても、週刊誌にチクったりするつもりはなかったけど」
恰好のワイドショーネタになっちゃうもんね、と、もう何事もなかったかのように振る舞う女は、中身も上等の女らしかった。
むしろ、納まらないのは芹沢の方だ。
「ふざけんなよ、ただで済むと思ってんのか!」
斉木が腕をつかんでいなかったら間違いなく殴っていた勢いだったが、そんなことは斉木が許さない。
自分がいると言うのに、痴話喧嘩などで芹沢の経歴に傷をつけさせる訳にはいかなかった。
それが芹沢の自業自得だったとしても。
恋敵に――斉木の一方的な意識かもしれないが――塩を送るような真似だったとしても。
「よせ」
斉木は、芹沢の腕を押さえつける。
「離してください! 一発殴ってやんなきゃ気が済まない!」
「やめるんだ!」
斉木の腕さえ振り解いて女を殴り付けようとする芹沢を、斉木は一喝した。
その瞬間。
ビクン、と、端から見ていても明らかなほど、芹沢が震えた。
大きな目を更に見開いて、斉木を見下ろす。
芹沢の目を、斉木は真っ直ぐに見上げた。
そんな目で見ないで欲しいと斉木は思うが、致し方のないことかもしれない。
だがとにかく、抵抗は止んだ。つかんだ腕から力が抜けた。
しかし、斉木は芹沢の腕を離さなかった。
離したら、きっと次はないと言う強迫観念にも似た思いが、斉木を支配している。
芹沢の力が抜けるのと反比例するように、いよいよ斉木の手に力がこもる。
「斉木…さん?」
芹沢は、不思議なものを見るような顔で呟いた。
その視線を避けるように、斉木は女に向き直った。その時にはすでに、女は新しいグラスに口をつけようとしている。
大したタマだと斉木は内心で驚いたが、今はこの女と交渉しなければならないのだ。
斉木は単刀直入に告げた。
「お取り込み中申し訳ないんですが、こいつ、貸してもらえませんか? こっちも、緊急の用事なんで」
斉木は例え拒否されても芹沢を連れ出すつもりだったが、あにはからんや。
「いいわよ」
女は、思い切り身構えていた斉木が拍子抜けするほど、あっさりとうなずいた。
「あたしの方は、もう用はないから」
余裕、だった。
目の前の女はそれほどまでに、芹沢の心を捕まえている自信があるのだろうと思う。
目の奥で火花が散った。
自分がもしも女だったら。
思わずにはいられないが、その考えを振り捨てる。
考えても詮無いことである。
斉木は、男なのだから。
それは変えようのない事実だ。
「斉木さん、痛い」
さすがの芹沢が苦痛の声を上げるほど、つかむ手に力が入っていた。
「なら遠慮なく借ります」
斉木は芹沢の腕をつかんだまま、入り口へと歩き出す。
「ちょ、ちょっと…」
芹沢も引きずられて歩く。
今の斉木には、誰にも有無を言わせない迫力があった。
だがしかし。
「あ、そうそう」
女は、能天気とも言える口調で、大きな二つの背中に声をかける。
「今度、ゆっくり飲みながらでもお話ししたいわ、『まこと』ちゃん」
その言葉に、斉木が振り向いた。
女はにこにこ笑っている。
芹沢が斉木の口をふさごうとしたが、間に合わなかった。
「何で、俺の名前…」
言ってから。
空いていたもう一方の手で頭を押さえていた芹沢を、弾かれたように見る。
「芹沢! お前、バラしたな!?」
斉木の声は悲鳴に近い。
応じる芹沢の声もまた、悲鳴だった。
「俺じゃない! 俺は言ってない! 今、答えなきゃ分からなかったんだ!」
言外の『あんたが悪い』と言う響きに、斉木が激昂する。
「ふざけんな! どうしてお前はそうろくなことしないんだ!?」
「わ、分かりましたから、とにかくちょっと外へ…」
「何を…っ」
背中に突き刺さる視線に、芹沢は逆に斉木を抱きかかえるようにして外へ出た。
立場が逆転して暴れる斉木を引っ張りながら、ようやくにして芹沢は。
――女は怖い。
と言う感慨を得るに至ったのである。
ぎゃあぎゃあと喚いく二人が、厚い木の扉の向こうに消えると、ようやく店の中が静かになった。
「…何も壊れなかったのは、奇跡的ですね」
「ごめんね、騒いじゃって」
「まあ、今日は他にお客さんがいませんでしたから」
と、マスターは芹沢のグラスを片づけながら、笑った。
「大変ですね、子守りは」
「でも、もう私は子守りもお払い箱みたいよ」
「ご苦労様でした。ではご褒美に、これは私のおごりにしましょう」
「あら、マスター、ありがと」
差し出されたグラスを、彼女は嬉しそうに受け取った。
「でも、意外な好みよねー。知らなかったわ」
「ええ」
「マスターも彼ははじめて?」
「そうですね」
「ふーん。まあ、名前と顔が分かってるんだから、ちょっと調べればすぐに分かるわね、きっと」
と、彼女は少し人の悪い笑みを浮かべた。
そう、女は怖いのだ。
二人が聞いたら間違いなく血の気が引くセリフであるが――幸か不幸か、二人は知る由も、ない。
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