部屋に着くと、斉木はさも当然のようにリビングへ向かった。
 モノトーンでまとめられた部屋に転がる無粋なゴミ袋に微かに眉を寄せたが、何も聞かずにローソファに陣取った。
「どうぞ」
 と、斉木の前に、芹沢がドンッ、とミネラルウォーターの2リットルペットボトルを置いた。隣には客用のグラス。
 斉木が気に入っていた、深い青のグラスは出てこない。
「これ」
「ああ、前のが使いたいなら、その袋から探し出してください。割れてるかもしれないけど」
 グラスを指差した斉木に、芹沢はあごをしゃくってゴミ袋を示した。
「もしかして」
「全部その中に入ってますよ」
 そこまでするかと思ったが、されても仕方ない立場だと思い至り、斉木は口をつぐんだ。
 それに何より、芹沢の機嫌が気になった。
 芹沢の機嫌は相当に悪い。
 当たり前かとも、思う。
 彼女とのデートを邪魔したというか、ぶち壊したのだから。
 それが例え痴話喧嘩の最中だったとしても。
 これはもしかしたら自分の話など聞いてもらえないかも知れない、と、思う。
 すうと、気温が下がった気がした。
 落ち着こうと、ミネラルウォーターをグラスに注いで、一口飲む。
「それで」
 グラスから口を離した瞬間、正面に座る芹沢が言った。
 見たこともないような、強ばった、顔。
 叩き出されるかもしれない。
 斉木は無意識にみぞおちの辺りのシャツをつかんでいた。
「…本当に、海外、行くのか?」
 正面突破は難しく、思わず搦め手から入ってしまった。
 気になっているのは、本当だったが。
「そうですね。日本にいても、面白いことないし」
 芹沢はそっけなく答えてくれた。
 どうにも曲解の隙すらない返事である。
 斉木は、肩が落ちるのを止められなかった。
 全て、手遅れだった。
「そっか…」
 うなずくのが、精一杯で。
「…もう交渉とか、まとまってるのか?」
「まだですけど、まあどこでもね、別に」
 芹沢はあいまいにしか答えない。まだ、言えないということか。
 それに。
「お前なら、どこへ行ったって通用するだろうしな」
 怪我さえしなければ、何の心配もないだろう。
 斉木は、もう一度うなずいた。
 自分に言い聞かせるために。
「で、そんなことを聞くために、わざわざあんなとこまで来たんですか?」
 切り口上が突き刺さる。一瞬でもためらったら、即座に叩き出されそうな気がして、斉木は必死で首を横に振った。
「ち、違う」
「だったらとっとと言いなさいよ」
 じゃなければ出て行け、と、言わんばかりの態度に、斉木は思わずうつむいた。
 まともに目を見てはいられない。
 自分の情けなさに、唇を噛む。
「斉木さん」
 強張る唇を、必死で、動かす。
「決まったんだ…」
「何…」
「入団するチームが、決まったんだ、俺」
 ようやく言った言葉に。
「今更…」
 呟く芹沢の声には笑いが含まれていた。
 絶対に顔など上げられなかった。
 あの整った顔で嘲笑われるのを見たりしたら、きっともう二度と立ち直れない。
 好きだからこそ。
 見たくないものが、ある。

 そして、自分で決めたことが、ある。

「…どうしても、最初に言いたかったんだ…」
 必死で、言葉を紡ぐ。
「お前に…決まったら、一番最初に、お前に言うって、決めてた」
 空気が凍りついた。
 芹沢の動きが止まったのが、見なくても分かる。
「でも、第一志望のチームからのオファーがなくて…ずっと、言えなかったけど」
 最後は口の中で消えてしまったが、芹沢は何も言ってくれない。聞いてもくれない。芹沢を見ることすら出来ない斉木には、芹沢が何を考えているのか、計る術すらなかった。
 沈黙が怖くて斉木はしゃべり続ける。調子に乗ってくると、元来口の立つ斉木はやたら饒舌になる。
「もうほとんど諦めてたから、土壇場の逆転Vゴールって感じだよな。ホント、どこでもいいって思い始めて、今来てるとこで決めようって思った矢先にオファーが来てさ。飛びついたよ、俺は。どうせ来るならもっと早く来てくれればいいのにって思ったけど、まあ、何にせよ、第一希望のチームに決まったんだから、文句は言っちゃいけないかな。もう、あんまり意味ないんだけどさ…」
「それで」
 饒舌ではあったが中身のないおしゃべりを、芹沢が鋭い声でさえぎった。
「結局、どこに決まったんですか」
 斉木は生唾を飲み込んだ。
 一度は声を出せぬままに口を閉じた。
 斉木の入団が決まったチームは、芹沢のチームと同じ県内のチームだった。
 ようやく、その名前を口にする。
 内定の席に同席した人間以外では、本当に初めて口にする。
 そう言えば神谷は一言も聞かなかったな、と、斉木は今頃気づいた。



 しかし、チーム名を告げても。
 芹沢の反応はなかった。
 室内の空気も固まったままだ。
 斉木は、意を決して、上目遣いで芹沢を盗み見た。
「どうして…」
 呆然としている。
 うわごとのような呟き。
 それだけ見て、斉木は慌てて視線を床に落とした。
 それ以上は怖くて見られなかった。
 何に驚いているのかはよく分からなかったが、その理由を尋ねるなどとんでもない。
 これから襲い来るであろう衝撃に耐えようと、斉木は精一杯体を固くする。
「どうしてそんなこと今更言うんですか!?」
 ダン、と、芹沢がソファの前のローテーブルに拳を叩きつけた。
 加減のない衝撃に、グラスが倒れた。
 一口飲んだだけだったミネラルウォーターがこぼれて、絨毯を濡らす。
「ああ…」
 思わず手近にあったティッシュボックスをとろうとした腕を、横からつかまれ、引き寄せられる。
 斉木はローテーブルの上に大きく身を乗り出す格好になった。
 あごをつかまれ、無理矢理正面を向かされる。
 斉木は、息を飲んだ。
 空気がこすれる妙な音がした。
「あんたは…」
 かなり心臓に悪い距離に、怒りに燃えた芹沢の顔があった。
「どうしてたったそれだけのこと、あんたは教えてくれなかったんですか!? それなのに、今更…」
 斉木は、何とか腕とあごを取り返そうとするが、芹沢の長い指でしっかり固定されていて、とてもではないが外れそうにもなかった。
「そんな義務みたいな顔して言うな!」
 正面から睨み据えられ、怒鳴りつけられた。
 斉木の中で、何かが音を立てて壊れた。
 義務。
 義務だなんて。
 義務と言うなら、斉木にとって芹沢よりもよほど先に知らせなければならない義務のある人間は、他にたくさんいる。
 それどころか。
 斉木は、芹沢に自分の将来を告げる義務どころか、権利すらもないと知っている。
 確かに斉木は、いつでも義務を優先してきた。
 義理と人情、公と私のどちらを選ぶかと言われれば、選ぶのは義理であり、公であった。
 そうすれば、誰も斉木を非難しはしないと、知っていたから。
 でも。
 恐らくは初めて、斉木は全てのしがらみを振り捨てて、今、ここにいる。
 自分のために。
 それを理不尽だと、わがままだと詰られるなら、仕方ないと思う。
 言い訳など出来ない。
 だが、義務だとは。
 どうして。
 考えるより先に、体が動いていた。
 テーブルに大きく乗り出した体を支えていた左手で芹沢の胸倉をつかみ、バランスを保つために、普段なら絶対やらないのだが、遠慮なくテーブルの上に足を載せた。
「ふざけるな!」
 斉木が力一杯体重をかけると、さすがの芹沢が背後のソファに倒れ込んだ。受け身を取ったために、斉木は芹沢の束縛から開放される。
「な…」
 そのまま、斉木は芹沢の上にのしかかった。暴れられないように、太股を膝で押え、自由になった右手も芹沢の胸倉をつかんでソファに上半身を押し付け、完全に自由を拘束した。
「何すんですか!」
「お前こそ、何にも分かってないじゃないか!」
 斉木は、芹沢を加減なく揺さぶる。
「ちょ…斉木さん!」
「どうして俺がここにいるのか、どんな思いでお前を探したのか、全然、分かってないくせにっ!」
「やめてくださいよっ」
 芹沢は、まだ自由が利く手で斉木の腕をつかんだが、斉木は手を緩めなかった。
「お前みたいな選ばれた奴には、俺の気持ちなんか分からないんだろうな! 俺の望みなんて、くだらないことなんだろうよ!」
「ちょっと、待てよ、あんた、何支離滅裂なことを…」
「うるさい!」
「うるさいのはあんたでしょ!」
「だからこの部屋に来たんだ!」
 芹沢に頭ごなしに怒鳴りつけられて、斉木は、それ以上の音量で怒鳴り返した。
 肺の中の空気を使い果たして、思わず深呼吸をする。
 少しだけ、落ち着く。
 そして、知る。
 はっきりと拒絶されたら、諦められるなんて――嘘だ。
 そんなこと、自分には出来ない。
 今だって全然諦められていない。
 斉木の体の下で、芹沢が自由を得ようと暴れるが、斉木は力を受け流して許さない。
 体格もパワーでも芹沢が斉木を大きくしのいでいるが、ポジションを間違わなければ、ひっくり返されることはない。
 男だから。
 女とは違う。
 与えられるばかりではなく、勝ち取らなければならない時も、ある。
 それが今この時ではないことは、知っていたが。
 だが、自分が止められなかった。
 芹沢を責めてしまったその時に、全ては、終わってしまったのだ。
 そんな権利は、斉木には一片たりともなかったのに。





 芹沢を、見る。
 芹沢の瞳に奇妙な光が浮かんでいた。
 嫌悪感、だろうか。思わず、眉を寄せた。
「そんな目で、俺を見るな…」
 呟く。
 自分の感情の処理が済まぬまま、斉木はつかんだ芹沢の胸倉を引き寄せた。
 うつむくと、芹沢の肩が大写しになる。芹沢からは斉木の表情は見えないはずだ。
 斉木からも、見えないが。
「義務なんて、俺にはないよ。お前に振られた時から、義務なんて吹っ飛んださ。分かってるよ」
 押し殺した斉木の声に、芹沢はただ名前を呼ぶ。
「斉木、さん」
 そう、呼んでくれることが、うれしかった。
 だが、残酷でもある。
 未練が残る。
 ぽつり、と、斉木は呟いた。
「俺は、ただ、資格が欲しかっただけなんだ」
「資格?」
 鸚鵡返しに尋ねられる。
「何の、資格がいるって?」
 畳み掛けられて。
「分かってるよ、今は。そんなことじゃなかったんだ。俺は、何も分かっちゃいなかった」
 斉木は、独り言のように告げる。
「俺は、お前に何も与えられなかった。ただ、与えられるだけで。…愛想を尽かされても、仕方ないって、今は分かってる。遅かった、けどな」
 そう言った途端、また芹沢が暴れ出す。
「あんたね…っ」
 自分を詰る言葉など、聞きたくはなかった。
 叫ぶ芹沢の口を、斉木は唇でふさいだ。
 引きつった芹沢の表情を目の当たりにして、斉木は目を閉じる。
 目を閉じてしまうと、唇の感触だけが感覚を支配する。
 自分はこんなにも、芹沢が欲しかったのだ。
 ただ、芹沢だけが――。





 だが、気づくのが遅すぎた。





 目頭が熱くなる。
 と、同時に、斉木の中で何かが壊れた。
「ん…っ」
 事態について行けないのであろう、芹沢の隙に、斉木はつけ込む。
 閉じられてはいなかった唇の隙間から舌を差し入れる。
 電流が流れたように、芹沢の体が震える。
 斉木は下半身を拘束したまま、左手で芹沢のうなじを支え、右手をシャツの合わせ目に滑り込ませた。
 芹沢の抵抗は弱く、斉木は、愛撫の手を強める。
 ――このまま、手に入れてしまえるなら…。
 それは、けして叶わぬ望みだと、知っていたが。
 斉木には、もう自らの欲望を押し止める術はなかった。





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